108さん264/「死はいけない」 「死にたい」どちらも死に強力に焦点が当たっている。生に焦点を当てるのです。それは充足であり、喜びであり、不変であり消せないものです。

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70 名前: 本当にあった怖い名無し:2009/01/07(水) 01:23:29 ID:4Xwzd+9k0

108さん、お疲れ様です!
さっき、お風呂に入ってて気持ち良くて「ハァ~v」ってなったときふと思ったんです。
全て今ここに有るんじゃないか?もしや?と

これって「既にある」って言う風に認識変更できかけてる兆候ですかね?

318 名前: 108 ◆90KoxUVipw :2009/01/08(木) 01:29:35 ID:oDfEhWK30

>>70
それです。
そういう瞬間は、一日の間に無数にあります。
もしや?と思わず、採用してしまえばいいのです。

111 名前: 本当にあった怖い名無し:2009/01/07(水) 02:39:37 ID:I4ftoLMq0

せっかくだし今の内に自分も108氏に聞こう祭に便乗するかw
もちろん回答は最ラスで全然構わんのでよろしく。

このスレで過去108氏不在中「自殺願望が強く安らかに早死にしたい」という書き込みがあった。
(スレNOもレス番も忘れたんで内容代筆で失礼)

いくつかレスがついてたが結局本人が
「安らかに死ねるイメージングをする」という一言だけを残して終わった。
それは違うだろ!という思いだけはどうしても消えずに自分も何か声をかけたかったが
どうしても陳腐で倫理的な表現しか思い浮かばなかったし(それも責めるような表現しか)
死に対してこれという明確な真理も見出してる立場ではなかったから、偽善満開だけど
ROMるだけ止まりになった。

見て見ぬ振りは卑怯だろという気持ちと乱暴な言葉でもいいからレスしようという葛藤が
その後もあったけど、死にたいという彼(彼女かな)のレスをじっと見てたら
「こいつは絶対死なない」って何故か思ったんだよね。

どうせ死ぬわけないとかそういうんじゃなく、
動機や過程はどうあれ生きる方向に向くって確信っていうか。
だからROMだけで素通りしたけど、生きる側を信頼したんだから
余計な事など相手に書くまでもないって気分だった。

とはいえよく考えれば自分は自分をそんなに日常信頼してないところがあって
そんな勘信じていいのか?他人見透かすような振りして思い上がりじゃないのか?
って後々また葛藤。

今でもたまにそのことが気にかかってしまう事がある、バカみたいだけどね。

「死の方が安息の世界である」とそちらに魅入られた立場の人間に
自分は何にもしてやれなかったけど、108氏ならどう声をかける?

第三者のことなんか知らんがなwかも知れんけど、自分自身も
全く自殺願望を持った事がないわけじゃないし(自慢じゃないが)、
今心の奥底で命を軽く見てるとしたら何かが変わるかもしれないんで、
自分の為にも是非聞いておきたい。

で、ついででいいんで、上記の「あっちゃこっちゃな自分不信気味の自分」にも
何かひとことだけでもあったら欲しい。

318 名前: 108 ◆90KoxUVipw :2009/01/08(木) 01:29:35 ID:oDfEhWK30

>>111
その該当レスに対する、丁寧な解説をありがとうございます。
その上で言いますが、あなたが>>111に書いたことのほとんどは、
全てあなた自身の内面の動きです。当人とは何ら関係ありません。
あなたは確信して「助言の必要なし」と思ってスルーした。
これに何の問題もありません。別に命を軽く扱っていることにはなりません。

「あるいは、そういうことにならないのか?」

と思考を働かせ始めるから、その現実があなたにとって
そのような属性を持ち始めてしまうのです。

当人の死に対する想いを、レスのたった何文字かの字面だけで
色々と思い量った上、それを自分の観念として招き入れる必要はない。

 


> 生きる側を信頼したんだから余計な事など相手に書くまでもないって気分だった。

 

これこそが正解です。
あなたは彼の中に死ではなく生を確信した。
これが彼にしてやれた最大限のサポートです。
何を言うかより、その人のどこを信頼してあげるかこそが重要なのです。
(私がこのスレでやっていることも、それに他なりません)

その上でかけた言葉は、たとえどのような表現になろうが、
自分にとっても相手にとっても、適切な属性を認定することになるからです。

322 名前: 108 ◆90KoxUVipw :2009/01/08(木) 01:44:30 ID:oDfEhWK30

(つづき)

死については、いずれたっぷりと分量を取ってやるつもりですが、
今日のところ、ここだけは押さえておいてください。

誰かの中に「死」の匂いをかぎつけ、「これはいけない!」と止めようとします。
これは取りも直さず、自らの中に「死はマズいよ!」という信念があるからです。
これはほとんど全ての人の中にある共通の信念です。

この信念は、エゴの最も根幹の部分とつながっており、
ここまでエゴが存続できたのも、この強力な地盤があるからこそです。

「死はいけない」と死を止めようとするのも、この恐怖心から来ています。
この恐怖心は盤石です。このせいで死という幻想はなかなか消えないわけです。

「死はいけない」
「死にたい」


どちらも死に強力に焦点が当たっているわけです。
ではどうするのか。

生に焦点を当てるのです。
それは充足であり、喜びであり、不変であり消せないものです。

私の知人が、病の末期から生還した例を思い出してください。
その時私は、死の恐怖と信念を完全に手放しました。
生だけを確信し、それを意図したのです。

死という幻想を消すには、それを支えなければ良いだけのことです。
生は不変であり「在る」ということの投影なので、
我々が支えようが支えまいが、それは本来ずっとそこにあるのです。
死を支えなければ、生が見えてくるというわけです。

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