535 :幸せな名無しさん:2013/12/07(土) 23:03:35 ID:YsQ55ltA0
自己観察さん、質問させて下さい。
私は自己観察をもう三年位やっていますが特にこれっといった変化はありません。
やり方に問題があるのでしょうか?
「今〇〇だと思っている」と淡々と気付いているのですが。
よく自己観察さんは「気付いている意識に気付く」と書かれていますが、私は
それが全然わかりません。自分の思考に気付く事は出来るのですが。
それでもOKなのでしょうか?
それともやはり気付いているいる意識に気付く必要があるのでしょうか?
542 :幸せな名無しさん:2013/12/09(月) 13:36:59 ID:QW9m9zkw0
自己観察さん、初めまして
私は46歳です。
今年の夏、人生に色々と行き詰り苦しんでいたところ、偶然あなたのレス集を読み、
随分勇気づけられました。まずはお礼を述べさせてください。ありがとうございました。
聞けばあなたは20代後半とのこと。一般的な世間の知識ならば、20代の子にも教わることもあるでしょうが、
人生において核心的なことを、まさか20歳近くも違うあなたから教わるとは思いませんでした。
いやはや、天才とはいるものだと恐れ入った次第です。
私はあなたのレス集を読み、できれば掲示板で実際のやり取りをしたかったなと強く思ったものでした。
でももう来られないのだろうと。ところが先週、偶然にあなたがまた掲示板に書き込んでいるということを知り、
嬉しく思うとともに、是非一度質問をしてみたいと思った次第です。
おそらくは既出の質問だと思い恐縮ですが、是非改めてあなたの言葉で教えていただきたいと思います。
質問は2つあります。
①あなたは、「気づいている意識」に気づくといわれます。私は、このことがどうしてもわかりません。
例えば、思考や周りのことに気づくことはできます。今、これこれこういう思考をしているということはわかります。
しかし、この先に進めません。「思考に気づいている意識」に気づくことができないのです。
「気づいている意識」に気づけば、無や安心感などを感じるといわれますが、
そのようなものも全然感じません。つまり私は、「気づいている意識」に気づけていないのです。
どうか一言アドバイスをいただけましたらと存じます。
②もう一つは、「今にある」ということがどういうことかがわかりません。
これは予測ですが、「今にある」とは、「気づいている意識」に気づくと同義ではないかと思っております。
今にあれば、安心感や無といった感覚を得られるとのことですので、おそらくはそうではないかと。
お忙しいところまことに恐縮ですが、どうか一言いただけましたらと思います。
571 :幸せな名無しさん:2013/12/13(金) 00:47:34 ID:wX9UY6560
≫535≫542
気づいてる意識に気づくについてですね。
思考に気づいていると、様々なことに気づくことが出来るんじゃないかと思うんですよね。
何かに反応してポンッと出てきては、次の瞬間には違う何かに反応して新たな思考が出てくるといったように、
思考とは一時的なものであり、またそれぞれの思考が矛盾していたり脈絡がなかったりする
不確かなものであること。
そんなふうに思考はコントロールや意思の及ばないものであること。
そんなコントロールできないものを、コントロールしようとしてる思考があること。
或いは思考や想像を通して見る現実とありのままの中立な現実とは、全く違うということ。
そういったことに気づくことは出来ないでしょうか。
中立で何の方向性もない出来事が、思考によって
分離や不足に基づいたストーリーとして作り上げていること。
そういったことに気づくことは出来るでしょうか。
そしてそんな不確かな思考を、まるで自分自身の決定権を握っている主体であるかのように捉え、
その思考に従っているのだということに気づくことは出来るでしょうか。
例えば542さんはPC画面を見ていて「天才現る!」と思ったそうですが、実際起きたことは何だったんでしょう。
実際にはPC画面と、何か核心に触れる理解が起こったという経験があるだけです。
それは一つの経験として現れただけのことなんですよね。
でもマインドは自分のことを分離、独立した個人だと思っているので、
「教えてくれる人」がいて「その人が書いた文章」があって、
それによって「私が核心に触れる理解」を経験したと解釈するんですね。
このへんで終わればまだいいんですけど、思考というのは自動連続式に展開する習性があるので、
「いろいろ理解できたけどもっと理解しなくては」となって「理解できない何か」という
分離と不足を作り出しそこに取り組みます。
或いは「他の人はわかってるのにどうして私はダメなんだろう」と
「わかる誰か」「わからない私」という分離と不足に益々固執したりもします。
実際には何も起きていないのに、思考だけがどんどんストーリーを展開していってるんですよ。
思考は対象がなければ成立しない仕様なので、分離が前提でないと思考が出来ないんですね。
思考では、ただ起こったままの直接的な出来事を捉えることが出来ないので、分離相対的に解釈し、
さらに想像も加えて起こったこととは違うように解釈するようになってるんです。
いきなりこれらすべてのことに気づくのは難しい人も多いと思いますけど、
取りあえず思考と同一化しないということですね。
で、そういったことに気づいていくと(または同一化しないことに気をつけていると)
「このやり方じゃ悪いんだろうか」とかの思考にかまう必要もないんじゃないかと思うのです。
「やり方が悪いんだろうか」という思考と同化しているから
「正しいやり方でやらなくてはいけない」となってしまうんですよ。
そこに気づくことはできるでしょうか。
「納得したい」という思考に従ってしまうのではなく、たった今その思考に同化せず、
それに気づいていることは出来るでしょうか。
「○○と思っている」ということには気づけているというのでは、まだその思考にリアリティがある状態かと思います。
それはただの思考による架空のストーリーだということに気づくことは出来るでしょうか。
思考が、ありのままの現実を覆っている虚構の作り話だと気づくことが出来ると、
思考に対してリアリティがなくなります。
じゃあどこにリアリティがあるんでしょうか。
その思考が錯覚だと気づいてる「何か」に確かなリアリティがあるんではないでしょうか。
それを自覚するということが、「気づいている意識」に気づくということです。
548 :536:2013/12/10(火) 12:47:41 ID:hA9NKj2A0
「気づいている自分に気づくことができれば、全部わかってうまくいく」
↓
「気づいている自分に気づくことができなければ、わからないしうまくいかない」
↓
「いまうまくいってないのは、気づいている自分に気づけてないから」
↓
その通りの世界が展開
こういうことなんじゃないか?って思うんだけど、どうだろう。
「気づいている自分に気づけてない自分はダメ」という条件、認定、評価に気づく。
自己観察さんが言ってるのはこういうことかな?って思うんだけど。
どうですか?
549 :542:2013/12/10(火) 14:50:35 ID:W6LQ/d6k0
≫548
これは私に対するレスですか?
もしそうならありがとうございます。もしちがっていたらごめんなさいね。
≫「いまうまくいってないのは、気づいている自分に気づけてないから」
≫「気づいている自分に気づけてない自分はダメ」
ダメとかうまくいかないとかは、何をもってそう認定するのかは疑問ですが、少なくとも私は
そのようには思っておりません。「気づいている意識」に気づいていないから、人生がうまくいかない
(?という意味か?)とかは、関係ないのではと思います。
現に、気づこうが気づくまいが、うまくいくこともあるし、そうでないこともあるからです。
仮に自己観察の巧拙のことを言っているのであれば、まさに意識している側に立つ必要があるので、
その位置を知る必要があると思いますが、いかがでしょうか。
うまく説明できませんが、要するに自己観察さんからの説明を聞いて納得したいということですよ。
572 :幸せな名無しさん:2013/12/13(金) 00:52:56 ID:wX9UY6560
「今に在る」も大体同じですね。
余計な脚色や上書きの一切ない、ありのままの今の現実をそのまま見ることです。
≫549の
≫まさに意識している側に立つ必要があるので、その位置を知る必要があると思いますが、いかがでしょうか。
これも気づくことが定着してくると、実際には「意識してる側」とか「必要」とかがなかったことに気づくんですよね。
必要も何も、最初からそこにいなかったことがないことに気づくんですよ。
すべては自覚、自己認識のことです。
573 :幸せな名無しさん:2013/12/13(金) 01:02:32 ID:wX9UY6560
≫572に追加。
あなたの意識で捉えられない何かがどこかに存在するでしょうか。
意識の外側に何かがあるとしたら、あなたは捉えることが出来るでしょうか。
最初から、すべては意識の中で起こってるんではないでしょうか?
それ以外のものなんてないんではないでしょうか?
「それ」しかないものを「意識してる側」と「意識される側?」に分離して捉える思考があるだけで、
実際はそんな境界線はないんじゃないでしょうか?
まあこのへんは思考では訳わかんないと思うんで、なんとなく読み流してくださいw
ではではまたー。