120 :幸せな名無しさん:2014/03/10(月) 16:50:29 ID:NtZzi0fg0
詭弁さん
書き込み・まとめ読ませていただきました。
お話の中でも【欲していたものは手に入ると当たり前になってしまう】というお話に色々なことを感じました。
自室にあるTVもレコーダーも手に入れるまでは本当に待ち望んで、パンフレットを見まくっていました。
iPodが欲しくて、でも金銭面やPCが対応してないなどの理由でなかなか手に入れられず、
箱でiPodを作ったこともあります(笑)
今使っているiPhone4もすごく欲しくて欲しくて買ったものです。
でも今はiPhone5sが欲しいんですよね(苦笑)
結局満たされたのは一瞬でまた他の何かが欲しくなります。
物欲ばかりでなく、仕事も面接してやっと受かって就けば不満や問題ばかりで辞めたいと思う…
今が受け入れられず嫌だとは思うのですが、どうせまた別の不足が出てくるのもすごくよくわかるのです。そんなループは嫌です。
叶えるために生きること、思考することが当たり前になりすぎて普通に生きられなくなりました。
今を楽しむ生き方にシフトしていきたいのですが、
楽しむというというとニコニコ♪ルンルン♪みたいなイメージしか湧かないのです…
(多分詭弁さんのおっしゃる刺激(幸せ)の方のです)
今を楽しむ生き方について詭弁さんのお話をお聞きしたいです。
122 :詭弁:2014/03/10(月) 19:29:02 ID:pHoZG.Xw0
≫120
よくいうよね、旅行は計画してる時が一番楽しいとか、恋人は付き合うまでが楽しいとか。
私のレスを読んだなら、認識が進んでるだろうから、踏み込んだことを話すね。
あなたは、川が上流から下流に流れることを止めようとは思わないよね。
それと一緒で、今を生きようとする試みも、実は、川が上流から下流に流れるのが
気に食わないからそれを止めようとするのと一緒なんだよ。
お腹が減るのがむかつくから、お腹が減るのを止めようとするのと一緒なんだ。
結局これは、よく言ってるようにゲームをやめようとするゲームなんだよ。
願望実現に触れる人ってのは、大筋の辿る流れってのがある。
まず、ゲームに勝とうとするんだ。最初のうちは勝てたり勝てなかったりする。
うまくすれば常勝気味になるが、例え勝ち続けてもつまらなくなる。
だからこれは不毛だと看破し、ゲームを辞めるゲームをはじめる。
でも、結局これすら同じ枠の中で起こってることなんだ。
ゲームを辞めるゲームがうまく行ったところで今度はまたゲームをやりたくなるんだよ。
お腹が減るのをやめたら、お腹も膨れなくなるから、美味しいものを美味しいと思って食べれなくなる。
それが不満と感じるようになるんだよ。それが、永遠に繰り返されるだけだ。
何とかゲームを抜け出そうとする試みすら、ゲームの中で起きている。
全ては、世界という対象物によって、当たり前のように引き起こされる、条件反射のようなものだ。
その条件反射をどうにかしようともがくから、苦しみに対して二重に苦しむことになる。
だから、ゲームからは逃げられないことを受け入れること。
あなたはわざわざゲームをやめるゲームをすることはない。
不満を何らかの方法で潰しても次の不満が湧いてくることがわかっていれば、向き合い方も変わるだろ?
ゲームをやめられないことがわかれば、ゲームを辞めるゲームもやらなくなるし、
ゲームにそこまで入れ込むことも少なくなろう。
ゲームからは解放されないが、それを知れば、「解放されようとする不毛なゲーム」からは解放される。
123 :幸せな名無しさん:2014/03/10(月) 20:45:15 ID:NtZzi0fg0
詭弁さんレスありがとうございます!
>不満を何らかの方法で潰しても次の不満が湧いてくることがわかっていれば、向き合い方も変わるだろ?
ここすごいです(笑)これに気づかせてくれた事、本当に感謝します。
126 :詭弁:2014/03/10(月) 22:04:05 ID:pHoZG.Xw0
≫123
上善は水の如し。
やめられないからこそ、抵抗をやめ、無理に楽しもうとするのをやめ、
全て受け入れて、自らを水として捉えることができる。
自ら(思考や感情)が水のように生きようとするのではなく、
自ら(思考や感情)が水のようなものと気づける。
理不尽な仕打ちを受ければ怒りが沸き、好きな芸人のネタを見れば笑う。
それは、水が冷たい風にさらされれば凍り、暖かい陽気にあたれば溶けるのと同じこと。
それは当たり前のこと。その思考や感情が沸くのは、ごく当然のこと。
楽になりたいなら、楽になるために水のように生きるのではなく、
楽になりたいと思う心そのものが水のようなものと気づくことだ。
127 :幸せな名無しさん:2014/03/10(月) 22:22:05 ID:L1JTWbLA0
詭弁さん
結局のところ、体の内側に湧いて出てくる思考も、願望も、不安も、嬉しいとか悲しいとかいう感情も、
体の外側で起こる様々な出来事、対人関係、ありとあらゆることが、勝手に起こる。
水が高きから低きに流れるように、勝手にそうなる。
それらを止めようとすることはできないし、止める必要もない。
一切のことに、一切手出しはできない。
できることといえば、ただそれらが現れ、消え、また現れを繰り返すのを見ることだけ。
あえて何かを「する」というのなら、「目の前のこと」に集中して、全力を尽くせばいい。
嬉しかったら全力で嬉しがればいいし、悲しかったら全力で悲しがればいいし、
楽しかったら全力で笑えばいいし、不安なら全力で不安になればいい。
願望が出てきたら、その願望が叶ったところを全力で想像するのもいいし、完全に諦めてもいい。
何もしなくてもいいし、何をしてもいい。
こういうことなのかな?
128 :詭弁:2014/03/10(月) 23:10:15 ID:pHoZG.Xw0
≫127
あえて「する」ことはないよ。
それは、あなたの思考や感情が水のように生きることを心がけようとするただの「反応」でしかない。
いいかい、ここはとても大事なのだが、思考や感情が意識して水のように生きようとするのではない。
私の書き込みを見て、あなたの「思考や感情が意識して水のように生きようとする」
その反応そのものが、まさに水そのものなんだよ。
いわば、氷が、日差しという反応を受けて溶けただけだ。
氷には、自らで自ずと水に戻る選択肢は与えられていない。
熱という刺激を受けなけば、水に戻ることはない。
逆説的に言えば、そういう刺激を受ければ常に水になるという反応が否応無しに起こる。
選んでいるつもりが、常に選ばされているんだよ。それが、思考や感情というものなんだ。
そこに間違いも正しいもない。ただそうあるべくしてあり、そうなるべくしてなったんだ。
だから、あなたが私の書き込みを見てどう思おうが何を是としようが、
そこに本質的な問題は何一つない。それはそういうものだったということなんだ。
全てが反応に過ぎないのなら、そこに改善の余地も改悪の余地もない。
だからなんだと思う人もいるだろうが、それはそういうものなのだと知れば、
「こころ」という不確かな存在が「こころ」自らをどうにかしようとは、しなくなる。
くすぐられたら笑ってしまう反応をどうにかしようとは思わないのと一緒だ。
それはそういうものだとしてみるようになる。
129 :詭弁:2014/03/10(月) 23:22:16 ID:pHoZG.Xw0
で、まあ、それはそういうものとしてみるようになるということは、すなわち「許し」なんだよ。
「反応」が今までに連綿と折り重なり続け、今という瞬間がなるべくしてなり、おこるべくしておこったんだ。
全ての自他、生命、非生命、思考、感情問わず、そうあるべくしてそうなっている。
それを思考レベルで見破ることにより、
結局、最終的には全てを包み込む「許し」そのもの、実在・愛そのものに還るんだよ。
131 :幸せな名無しさん:2014/03/10(月) 23:32:00 ID:L1JTWbLA0
≫128
詭弁さん、レスありがとう。
仏教とか好きだからさ、こういう話はよく見聞きするし、そうだよなとも思うんだ。
ただ「自分のこと」に置き換えるというか、日常生活のレベルのところでどうしても躓く。
ちょっと具体的に聞いてもいいかな?
たとえば僕は「大金が欲しい」ってずっと思ってる。
この「大金が欲しい」という「思考(願望)」は、きっと1億円とか10億円とか?
「これ以上要らんなぁ」というレベルの金が手に入るまで、
きっと出続けるんじゃないかと思うんだ(これも思考で反応だね)。
この思考(反応)は、それこそ勝手に湧いてくる。どうしようもないわけ。
気づけば「どうすれば大金が手に入るか?」と「考えて(反応して)」る。
ここでよく言われるのが「その思考は不足に支えられてる云々」という話で、
「大金が欲しいと思う」と、「大金が欲しくなるような世界」が、どんどん展開すると。
そして実際そうなってる。ところが、この「思考(反応)」は止まらない。
この辺で、いつも手詰まりというか、なんだかなってなっちゃうんだ。
まあ、そこで「自愛」という話になるのかもしれないけれど、それもやってはみているけれど、
結局のところ頭のどこかに常に「これ(自愛)で大金が…」というのがずーっとある。
詭弁さんの話でいけば、それもすべて「反応」ということになる。
ただただ眺めるしかできない。
あーもうよくわかんないや(笑)
135 :詭弁:2014/03/11(火) 00:10:34 ID:giYWey6c0
≫131
この話は、ある程度認識が進み、願望実現後の虚無感やループそのものに
不毛さを感じていないとピンとこない話だと思う。
どういう話を聞いても、それを利用して願望云々とか、こうすればよいのか?
という発想に至るということは、まだ、~を手に入れれば幸せに違いないという感覚が非常に強いんだ。
そういう状態では、どうしても言わんとすることが理解しづらいし、全て反応→だから何だということになる。
同じように自愛も、願望に囚われてるほど、だから何だって感じになるから理解しづらい。
幸せは一時的なもので、過ぎ去るものだという実感が、頭では理解しててもいまいち伴っていないからだ。
だって、全ては反応だからといって、ただ眺めるしかないと言ったって、
何のために?それすら反応なのに?とにかくあなたの中には、願望実現のため、が大元にあるだろ?
そうなっちゃう時は、この話を理解するのはひとまず置いておいた方がいい。
大金以外でもいいから、何らかの願望に強く執着し、
手に入れてしばらくした後と手に入れる前の気持ちを冷静に比較することができれば、
この話も腑に落とすことが出来るようになると思う。
それまでは、素直に叶えるために、現実的な対処でもメソッドでもなんでもいいから、
徹底的にやるのをオススメするよ。