282 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/16(木) 19:04:05 6VRA.KrA0
はじめまして。自己観察さんに質問です。よろしければお答えお願いします。
別の領域がわかりたくて、でもわからなくてエゴの思考でぐるぐるしてました。
「これが別の領域かな?」って思うとすかさず「ほんとかよ、ちげーんじゃねーの」
っていう不安が襲ってきました。
そこで自分に「わからない自分でもいいんだよ」っていうとすごくほっとして
エゴのループがとまりました。「これが別の領域?」って思ったんですが、
それも自己観察「あ、今疑問に思ったな」ってするとなんだかすごく安心感がありました。
またちょっとするとエゴが不安をあおってくるんですが自愛、
自己観察してたらループを切ることができました。
こういう感じでいいんですかね?とエゴまみれの今聞いてみます。
あと、自分にとってキーだったのが「分析しようとするエゴ」「関連付け」って言葉でした。
エゴのループをとめるときにふと、「ああ、今騒いでたのがエゴか」って思ったんです。
その瞬間、その言葉が、「そう決めようとするエゴ」にとらわれそうになるのを感じました。
本当に、深く考えず、ただ自愛、自己観察すればいいんだなってそのとき思いました。
また、「言葉にするとエゴにとらわれやすくなる」とそのとき感じたんです。
じゃぁ達人さんたちが別の領域を説明する言葉はいったい何なのっていう疑問がでてきたんです。
多分、
エゴの言葉=あれこれ関連付けて出した言葉、
達人の言葉=心底腑に落ちたもの(感覚)を言葉にし直しただけってことなんでしょうね。
≫275よんで笑ったのが、
自分は自愛してるときは「わからない自分、わかろうとする自分」に対しての
呼びかけは「エゴちゃん」でしたw妙な一致w
「はいはいエゴちゃん、不安なんだねー」「不安な自分でもいいんだよ」
って感じでやってます。なんか自然とそう呼んでました。
ちょっと前はエゴに対して「何じゃいこの野郎」みたいに思ってたんですが。。。
んで、「今不安に感じてたなー」ってなります。自分の場合、自愛と自己観察がセットです。
295 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/16(木) 23:03:25 ID:psg5Ebes0
≫282
「これが別の領域かな?」と探してると、見つからないというより、
そこにいるのに気づけないんですよねー。
「なんかわからんが、なんとなく落ち着くし悪くないなー」
と感じられたなら、まずはいいんじゃないでしょうか。
≫エゴのループをとめるときにふと、「ああ、今騒いでたのがエゴか」って思ったんです。
≫その瞬間、その言葉が、「そう決めようとするエゴ」にとらわれそうになるのを感じました。
≫本当に、深く考えず、ただ自愛、自己観察すればいいんだなってそのとき思いました。
こんな風に気づけるようなら、かなり別の領域視点として機能?してますよー。
≫エゴの言葉=あれこれ関連付けて出した言葉、
≫達人の言葉=心底腑に落ちたもの(感覚)を言葉にし直しただけってことなんでしょうね。
腑に落ちると、頭の理解だけでは繋がらなかったものが全部繋がるというか、
全体的に見れるようになるんですよね。
全体的に見ると、エゴから見た世界が小さすぎるので引っ張られにくいんだと思います。
≫「はいはいエゴちゃん、不安なんだねー」「不安な自分でもいいんだよ」
≫って感じでやってます。なんか自然とそう呼んでました。
≫ちょっと前はエゴに対して「何じゃいこの野郎」みたいに思ってたんですが。。。
エゴに力がないのがわかると「この野郎」呼ばわりするほどの憎らしさを感じませんよねw
すごくいい感じだと思いますよー。
304 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/17(金) 01:41:17 Haaj3HU.0
この流れで自己観察さんに質問していいかな…すみません!
自己観察で色々な自分に気づいていくのは実践していてよくわかります
自分の場合は主に今まで押さえつけて来た感情を認めていく、気づいていくって感じなんですが
この過程って所謂クレンジングとかクリアリングとは何が違うんですかね?
たとえば自己観察や自愛を実践していても現実で嫌だと判断してしまう事が起きますよね
そのときネガな感情(ふざけんなとか○○ろ!!とか;;)がブワーと出てくるんですが
それは自愛や自己観察が間違ってるとか足りないとかでは無くて、その感情に気づいて
昇華するためにその出来事は起こったという事なんでしょうか
315 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/17(金) 12:03:58 ID:psg5Ebes0
≫304
≫この過程って所謂クレンジングとかクリアリングとは何が違うんですかね?
意識が違います。
クレンジングとかクリアリングは前提の意識が
「不要な観念をリリースすることで現実を変えよう」といった感じだと思いますが、
自己観察の状態は本来なら
「エゴという制限された『私』としてでなく、
全体と調和して生きる個としての在り方」
の意識なんです。
ただ最初からそういう在り方として自然と観察できている状態(Doではなくbeね)でいることは
エゴを主体として生きてる人には出来ないので、自分のエゴに気づいていく、
というプロセスを経ながら、(Doからbeへ)自然に移行していくようになるのです。
なので、まだあなたが「自分を観察することで現実を変えよう、そのためにエゴに気づこう」
として自己観察をしているのなら、クレンジングの類とあまり変わりはないといえます。
(それはそれでいいのです。自然に変わっていくプロセスにある、ということです。)
≫それは自愛や自己観察が間違ってるとか足りないとかでは無くて
≫その感情に気づいて昇華するためにその出来事は起こったという事なんでしょうか
昇華するためにその出来事が起こるという考え方は私はあまりしないです。
昨日違う方の質問で「悪いことが起きたのは好転する前の毒出しか」という質問があって、
それと同じ答えになりますが、起こることに意味づけする必要はありません。
起きていることに、都合がいいとか悪いとかエゴが判断してるだけのことです。
あなたが昇華するために起きたと思えばそうなるだけのことです。
そして、「毒出しかも」「昇華するために起きたのかも」と思うということは、
クレンジングなどのメソッドをしている意識でやっている身体と思います。
不都合に思った出来事を肯定的に解釈したい、以前より好転してるという兆し
として解釈したい、という期待の気持ちからそう思いたいのです。
嫌だと感じてネガな感情が噴出してきても、別の領域に意識をおいて、
あるいはそれが難しいなら、そう感じている自分の認識を疑う、というところから始めて、
そのネガな感情を淡々と見ていればいいということになります。
そうやって観察出来ているとき、出来事はニュートラルのものでしかなく、
この出来事は昇華するための出来事か?といった疑問は消えてると思いますよ。
そういう風な疑問とかを感じて分析したがるのはエゴの習性なので、
「エゴがそう思いたいんだな。分析したいんだな。」
と、そこに気づけるといいんじゃないでしょうか。