83 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/24(日) 23:57:40 IAC6ChbU0
自己観察さんはじめ達人さんに質問。
よく「何もしなくてもいい」とあるが、これってどこまで何もしなくてもいいもんなんなの?
例えば、「好みの人と付合いたい」とか「(特定の)あの人と付合いたい」
ってのがあるとして、その「好みの人」が現れた時、俺は別に神に任せて
あっちから俺の彼女になるのを待っててもいいって事でいいの?
特定の人の場合でも「あの子と付き合いテー」。で、神に任せて何もせんともその
「あの子は」俺にアプローチなりなんなり、または第三者の介入なりで自然に何もせんでも
あの子が俺の彼女になり、俺があの子の彼氏になる、って事?
する事と言ったら「今日からよろしく!」って言う事くらいでokみたいな。
あとそれに乗じても一つ。
「既にある」とは「付合いたい」「彼女(彼氏)ほしー。ラブラブしたい」
「既に彼女(彼氏)がいる」って事だよね。既にある自分で在れって事なら、
じゃあ、現実で好みの人が何かで現れたとする。
そしたら既にある(いる)なら「あ、俺(私)彼女(彼氏)いるんだった」ってなっちゃわないか・・?
89 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/25(月) 14:00:34 ID:96OV/rB60
≫83
エゴで、「こういう場合にはどんな風に『何もしない』を解釈するんだろう」
と解釈しようとすること自体が「何もしない」ことから外れてるんだよね。
エゴ視点でいる限り、いろんなケースを想定してシミュレーションすること
(しようとすること)のループだし、別の領域視点にずらせば、その疑問も意味を為さなくなるよ。
だから「これってどういうこと?」的なエゴの疑問は解決しようとする方向性ではなく、
視点をずらすための機会、「既に在る」に意識を向けるための機会だと捉えるといいと思う。
これが自己観察だよね。
53 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/23(土) 17:56:40 LwBJsr56O
ふと思ったんですが。
自分の思考ってエゴなんだから、力ないわけですよね。
それなのに、住みたい場所に住んで、食べたいもの食べてる私って、
私の意思で選んだから実現しただけっていうより、まさに既にあるだから実現してるんですよね。
だって私の意思はエゴなんだから。
108さんのいう充足もこういうことかなぁ。
だから、行動しようかとかしないとか、それがエゴからかとかは全部エゴが考えてることなんですよね。
回答を頂いた方が教えてもらったことが、やっとわかりました。
叶ってるはずの願望のために行動しようかと思考が入った時点でエゴはすでに入ってて。
それも願望=実現だからしてもいいけど、それで早く現象化するかもって期待してても、
それは関係ない。でも、結局、まんまとエゴにひっかかってないを支えそうかなと。
で、こういう風にエゴを納得させようと理屈することも、まさしくエゴにとらわれてる。
うまくいえないんですけど、ほんと何の力もないとりにたらないものくらいのスタンスがいいかなって。
クレーマーが対応すればするほどしつこくなるみたいになるから。
今はこんな感じです。
93 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/25(月) 22:30:15 ID:96OV/rB60
≫53
エゴも根源から「起きてる現象」なんだよね。
「意図しようとしてるエゴ」が起きてくる、とか
「エゴが考えてるように感じることが起きている」とか。
本当の自分は「ただ在る」だけだから。
本当に何も出来ない。そして何をしてもいい。
ここらへんを言語化するのはむずかしいよねw
103 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/26(火) 21:00:03 pLA8e/RI0
自己観察さん、レスありがどうございます。
最近ちょっとだけ別の領域、既にあるが感じられた気がしていました。
それと気づきを二つほど。
一つは、意図を思考でキャンセル~ということについてですが、以前は
「あばばばば、オレは意図を思考でキャンセルしてるんだ~また最初から意図し直さないと。
でもそもそも意図ってどうやってするの?」みたいな思考に陥っていたのですが、
最近思うのは、それはキャンセルというほど、大したものじゃないんじゃないかと。
それはラジオの例で言うところの、好きな放送に耳をふさいでいて、
その手をせっかくどけたのに、またふさいでしまった、くらいのものだと。
以前としてラジオの放送は流れたままなのだから、また手をどければいいだけという。
エゴというヘルメット(覆い)をかぶっただけなんだから、また外せばいいだけなんだなと思いました。
つまり特に「意図のし直し」はしなくていいんじゃないかと。
意図は既になされてるんだから。
そして「意図できていない」「意図を働かせられていない」「思考でキャンセルしてしまっている」
状態というのは、例えばタイヤが回っている、今にも走り出しそうなミニ四駆を何かに理由をつけて、
それを手に持ったまま、いつまでたってもコースに降ろさない行為なのだと思いました。
それは池の上で手にジタバタする鯉を掴んで
「なんとかこの鯉を池で泳がせたい。どうしたものか」とか言ってるようなもんだと。
もしくは広い公園で走り回りたくてウズウズしている犬の尻尾を踏んづけて
「犬が走り回ってるところ見たいな、でもそれには~が足りないからどうしようか」
とか言ってるようなもんなのかと思いました。
そういことをやめて放っておきゃ、勝手に起こるよって
スタンスが意図を働かせることなのだと思いました。
それで、「意図を働かせる」てのは、総じてエゴとして「何かをするのをやめる」ことだと思うわけです。
当然それは「何もしないこと」であり、「既にあることを認めること」であり、
「神にお任せすること」なのだと思いました。
そしてもう一つは、「今「ある」ものを「ある」として見る」ということです。
ようは再配達されてるものを受け取るってやつですが、いまは不足に見えるそれも、
実現への過程、シナリオの一部としてとらえるってやつです。
不足を経験したかったんだーってアレです。
それを受け取るのを拒否すると、完璧に実行されている実現への道筋が途切れてしまうと。
願望を持っているとどうしても「~がない」「~でない」という不足感やこだわりが出てきて
しまいますが、それと一体化するんでなくて、今あるもの、既に来ているものに気づいていよう、
受け入れようという態度であります。
そうあることで物事は完璧に流れていくのかなと考えていました。
そして今はちょっとドツボにはまっていますw
最初の気づきの意図についてなんですが、結局意図とは、エゴの声に耳をかさないという
絶対的な許可の姿勢なんじゃないか、と考えていてそれって「何かをしている」よなぁとか。
意図(願望)は既に湧いて出て来ているのに「私が~」それを邪魔していて、
その声に与しないって「叶えるために何かをしているよなぁ」とか考えていてドツボっすw
どうしたもんでしょうか。
127 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/07/31(日) 14:41:50 ID:psg5Ebes0
≫103
「ある」がわかると、今まで「意図とはどうしたら~~」とかそういったことを
「わかろう」としていたことが無駄というか必要なかったなーってつくづくわかるでしょw
「何かをしている」に関しては、「している」より「そうある」になってるんじゃないかなー。
それと「私が~」と邪魔してるエゴは、今まで無意識に習慣化されてたプログラムなので、
ある程度「ある」が確立するまでは意識的にそれを却下するのも必要かと思います。
まあ古いプログラムの解除作業くらいに思ってればいいんじゃないでしょうか。
「ある」に覚醒するとエゴが大きく変容するので、今はそういう時期だと
理解してるといいと思いますよ。