Wildさん-20/起こる現象すべてをまったく掴まない状態。 私の意志なしでオートマチックで動いている感覚

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349:真昼:2016/06/23(木) 10:06:49 ID:XZ2p7otQ0

≫345
現象さんレスありがとうございます。

 

≫同じような「現れの構造」を認識した時に、立方体という概念が記憶から呼び出されて、それを当てはめ、これも立方体だと認識する。

これが真昼さんのおっしゃっている記憶の創造と再生なのでしょうか?というお尋ねでした。

そうした根元的な認識についてはどうなんでしょうね。実感としてあるわけではないのでなんとも言えないところではありますが、恐らくそれも記憶が引き出されて、新しい記憶が生成されている、ということではないかと思いますが、どうでしょう。
現象学というのはこうした根元的な認識を掘り下げる学問なんですね。面白い。ご紹介の本はとても興味深いので読みたいと思います。

 

言葉って世界に亀裂を入れるものですから、亀裂が無くなれば、すべてはひとつになりますね。

世界に亀裂を入れるという表現、いいですね~。今度使わさせていただきます(どこで?w)
そのあとの「横溢した無」(この言葉初見だったので調べました)という表現は哲学的でカッコいい。この横溢した無こそ、東洋で空(くう)とか道(タオ)とか呼ばれているものでしょうね。分別知を知識、無分別知を知恵とも言いますね。

あと、ハイデガーといえば歎異抄って意味わからなかったですね。
ハイデガーは晩年こう言ったと言われています。

「今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異抄を読んだ。弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけりとは、何んと透徹した態度だろう。もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中に拡めることを生きがいにしたであろう。」

この発言が事実かどうかは置いといて(wikiでは削除されてるみたいですが)、西洋と東洋の融合点がそこあるのでしょうかね?

西洋哲学は答えを求めて思索するのに対して、東洋では答えが始めに提示されてそれを探究するという逆のベクトルを持っていると、何かで読んだことがあります。

ともあれ、現象さんのお陰で急激に頭が良くなってる感じがしますww

350:wild:2016/06/23(木) 20:47:58 ID:1ATDQR/M0

≫346
真昼さん
お気遣いありがとうございます(^^)
遅レスになってしまいすみません…。

観察者視点ですが、真昼さんはすでにそこを超えているので気になさらないで良いかと(^^;
観察者というのは身体でも思考でもないただ見てるだけの存在ですが、段階的にまずここに至るのが観察系の常套手段なのかなと思います。
これも思考だったと見抜いた時、世界=私を体感するのかなと考えます。

 

≫ 悟りと修行は一体不可分である。修行とは喫茶喫飯行住座臥、生活の全て。その修行のなかに悟りを見るという姿勢。僕は好きですね~。

やはり禅は直接的に至るような仕組みなのかなと感じましたね。
もうすでにその中にあなたは居るんですよ!って言うのを修行の中で見つけるような仕組みになってるんでしょうね?
あと、公案ってよくわからなかったんですけど、思考に成りきらせるものなのかなーと。

 

≫ 18禁メソッドですかw僕の個人的なポイントは「我に返らない。賢者モードにならない」ということでしょうかね。

賢者になりたいのに賢者モードになってはいけないとは奥が深いw
メソッド最中は確かに渾然一体ですw
これを後で気づくのではなく、その場で気づいてる状態が最前線なのかなーと思いますがいかがでしょう?

 

≫ 目で目を見てるような感じ、正確には目に写っている映像が目そのもの。映像=目。目で目を見て、映像が映像見てる。あー上手く表現できません。

いえ、私よりもはっきりとそのことがわかっていらっしゃるようです。
真昼さんの表現を見てると、完全に大悟されたようですね!

ところで、次から次へと起こる現象にスピード感があるとおっしゃってましたが、それにうんざりすることはありますか?
私の好きなブログ「私を知る」では、その次々と起こる現象の連鎖が苦である。
つまり私とは一切皆苦であるとの結論に至っておりますが、そこに芯から気づいた時、最後の悟りがあると。

私はなんとなく一切皆苦は知りたくないなと思うんですけどね(^^;

 

353:真昼:2016/06/23(木) 23:29:06 ID:XXXENlA.0

≫350
wildさんレスありがとうございます。
大悟なんてとんでもないです。僕がいい感じのときって一週間の内で二時間くらいですから。その他の時間はエゴまみれですw
いい感じの時の実感とか印象をメモったりして覚えとこうと思い、また少しでも長くしようと思っているのですが、なかなか…。

≫あと、公案ってよくわからなかったんですけど、思考に成りきらせるものなのかなーと

あまり抹香臭いのもなんですが、

同じ禅でも公案を用いる臨済宗では見性(人間に本来そなわる、本性を徹見すること)を目指しますが、

曹洞宗では修行すること自体に眼目がおかれていて見性をさほど重視していないようですよ。
公案は思考になりきって思考の向こう側にあるものを見せようという試みなのでしょうかね?

≫メソッド最中は確かに渾然一体ですw
これを後で気づくのではなく、その場で気づいてる状態が最前線なのかなーと思いますがいかがでしょう?

これはあくまで私見ですが、その場で気付くのではなく、ずっと気付かない境地を考えています。永遠に終わらない18禁メソッドww没頭に没頭する感じです。いかがでしょうか?

≫ところで、次から次へと起こる現象にスピード感があるとおっしゃってましたが、それにうんざりすることはありますか?

「私を知る」というブログは難しく感じましたが、自分の感じていることを客観的に知ることができますね。あのような境地とはほど遠いです…
いい感じの時はうんざりすることはありません。なにしろ基本的に何にも気づいていないのですから。気づいていないけれどもマインドフルな感じはあります。表現難しいです。

また、一切皆苦についての私見ですが「起こり」という現象の元にあるのが苦しみなのかな、と今のところは感じています。
例えば頭が痛い(苦しい)から頭に意識が行きます。そして薬を飲んで治まった瞬間というのは意識してないですよね。正しくは頭痛が治ったというより、頭が痛かったことを忘れている。本当に健康な人とは身体のことを意識しない人である、とある名医は言ったそうです。この意味を広げて解釈するなら、苦しみのない人とはなんにも意識をしない人である。何かを意識することはその根底に何らかの苦が潜んでいるのでは。
現時点ではこんな感じかな~と考えています。

長くなりました。どうかご無理なさらずにご自愛ください。

354:wild:2016/06/26(日) 16:12:13 ID:9SIXuy8Y0

≫353
真昼さん。
ありがとうございます(^^)
またまたレス遅くなってすみません…汗

≫ 僕がいい感じのときって一週間の内で二時間くらいですから。その他の時間はエゴまみれですw

同じくw
しかし既にその世界を見たのですから、根本的な所で現実への捉え方が変わったんじゃないでしょうか?

≫ これはあくまで私見ですが、その場で気付くのではなく、ずっと気付かない境地を考えています。永遠に終わらない18禁メソッドww没頭に没頭する感じです。

となると、没頭から抜けた時にその時の状態を思い出す感じですか。
その時は自我が完全に奥に引っ込んでおり、いわゆる「それ」が完全に顕現している状態ですね。

これは心を脇に置く、もしくは心の私は何もしない状態。
何もしないこともしないみたいな…。
起こる現象すべて起こるがままになり、まったく掴まない状態。
この、何物も掴まず全部私の意志なしでオートマチックで動いている状態が「気付かない」と同意なのではないかと思いました。
ハーディングの実験中に、起こる事象すべてを委ねるとこのようになりますね。
そして気付くのではなく、現象が起こってくることを「知っている」という感覚、これが真昼さんのおっしゃるマインドフルネスなのかなと。

 

≫ また、一切皆苦についての私見ですが「起こり」という現象の元にあるのが苦しみなのかな、と今のところは感じています。

なるほどー、
苦しみの根底である囚われを手放し、次々と起こる「起こり」の連鎖を掴まなくなることが大悟の先の解脱であると件のブログでは言っていましたが、真昼さんの解釈と共通するところがあると感じましたね。

真昼さんとのやりとりで改めて気付くことがありました。
何も気付かない状態のままでいたいのですけど、普段生活しているとどうしても自分が掴んでしまう現象があります。
その囚われ(思考)を自分が掴むことによりまた囚われを作ってしまうんですよねー。

なので普段の生活においては逆に自己観察のように気付く方法も必要なのではないかと私見ですが思いました。

掴んでいることに気付いてすぐ手放すことを繰り返す。
そのうち掴んでる自分も手放すようになり、最終的には常に真昼さんのように底の抜けた状態になれると思いましたけど、どうですかねー(^^;
と、またまた囚われを作っておりますw

 

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