367 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/02/11(火) 08:53:48 ID:OoZzywGU0
んーと、世界が私だからすべての根源に立つ自己観察の立場にいると
自ずと外も変わって当たり前ってことですよね。
まだその前のいろんな観念がボロボロでてきてる状態なのでまだまだ苦しいな。
昨日もとんでもない失言をして、皆に呆れられたんじゃないかと悶々とした。
こういう時って、その感情を観察しても、それがただの思い込みに過ぎないとわかっていても
なかなか根源の立ち位置に立てないんですよね。
こんな自分の過失からくる後悔やら恥ずかしさやらはみなさん、どうしていましたか?
自己観察さんや皆さんの体験やアドバイスをお聞かせいただければありがたいです。
落ち込みも観察しているんですが、それが蓋になってる気もして。
368 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/02/11(火) 09:09:44 ID:Eeitq2PE0
≫367
自己観察さんではないですけれど。
恥ずかしいとか、過去の失敗の記憶に巻き込まれてもいいと思ってます。
自己観察さんも、気楽にとか、ゆるくっておっゃってますし、
他の達人さんたちも、結構ゆとりというか余裕がある。
嫌なことも思い出すし、不安も感じます。でも、それでいいじゃんっていう。
嫌なことを思い出したり、不安を感じて「これを早く消さないと」とか「早く距離を取らないと」ってなるのが、
多分一番辛いし、その「早くなんとかしよう」という思考こそが、不安や嫌な感情に力を与えるんじゃないかなと。「~すべき」って、エゴが好きそうな感じがしますし。
不安や嫌な感じがあったとき、
「これを早くなんとかしよう」としている思考に気づくと、ふっと楽になるというか、冷静になれます。
「幻だ!幻想だ!」って思おうとするのではなく、単に気づく感じ。
その態度というか姿勢というか、立ち位置?みたいなのって、
すごく余裕があるよなって思うので、これでいいんじゃないかなーと。
374 :幸せな名無しさん:2014/02/11(火) 23:31:54 ID:apgx7B6E0
≫367
≫368さんの仰る通りで、うわー恥ずかしい!!とかなっても別にいいやって感じです。
これも「何で恥ずかしいって思うのかな」ってみてみると、自信とか自分や他人を大切に思ってるからこそ、
それがちょっと歪んだ形で恥として感じることができるんじゃないかと思います。
もしかしたらそうなのかもしれないなーくらいのゆるさで、思考や感情の奥?にあるものを
正しい形で知覚できるようになるといいんじゃないかなと思います。
372 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/02/11(火) 21:58:58 ID:WGMwuVf6O
2年ほど前に自愛や自己観察やら色々やって今安定してる。
これと言って願望もないんだけど久しぶりにここ来てみた。
んで、ひとつ疑問?がある。
自己観察の立場に立つと確かにフラットな状態になるけどこれと言って喜びもなければ悲しみも湧かない。
感情や思考を放棄することで今度は自分は何を、何処を生きてるんだろうみたいな状態になる。
これが良いか悪いかという話でもないんだけど、、、なんて言えばいいんだろう。
言葉にするなら「空しい」に近いのか。皆さんこういう経験はありますかね?
374 :幸せな名無しさん:2014/02/11(火) 23:31:54 ID:apgx7B6E0
≫372
感情や思考の放棄というとちょっと違うような気がします。
≫367さん宛にも書いてますが、錯覚で歪んだ形で出てきた思考や感情の、
本来の美しい形を見ることができると「空しい」ということもなくなるんじゃないかと思います。
377 名前:17 投稿日:2014/02/12(水) 22:08:22 ID:OgfbyN8w0
≫373
この文体は自己観察さんですね。お気を遣わせてしまい申し訳ないです。
確認ってのを一応きちんと書きます。
≫181②「意識上だけで幸せを感じる」ことは不可能です。
↑「意識上だけ」以外の対象って、思考ではなく、物理的現実の事を指してるんですよね?
まあ、Yesという理解です。
実践は「現実は内面の投影」を前提とし、自己観察に限らず色々やってるので、
(もっぱら良い気分でいる、というのが主ですが)
回答有無にかかわらず実践の動機付けに変化は無いつもりですし、
都合のいいとこだけ確認、ましてやなんかあったら文句を、とかするつもりないです。
確かに質問が出ない程の確信に達しているかと言われれば?ですし、
表向き正確に理解したいというのがあったとしても、質問で回答が欲しいって事自体、
究極的には安心したいからなので、「安心したいからじゃないんですか?」という指摘は否定しません。
まあ実践には関係ないので、確認できりゃなお良いかな、程度です。
・・・と、ごちゃごちゃ書くと、「そうやってマインドが騒ぎ出し~」とか言われそうなので、
端的に質問したら逆効果でしたね。。
(つづく)
378 名前:17 投稿日:2014/02/12(水) 22:09:17 ID:OgfbyN8w0
(つづき)
≫373
なお、
≫私が答えるかどうかを選別してるかのような?印象
ってのはないです。(少なくとも私は)
いつも貴重な情報を慎重にご判断頂いた上で教えて頂き感謝しています。
聡明さが文に表れており素晴らしいという印象です。
ただ別の印象というか疑問が2つあります。(以下思考もマインドも同じ意味で使ってます)
1
こちらの質問に対して動機背景への思慮や分析、判断が入るのはマインドの仕事だと思うのですが、
気づいてる立場からだと、単に「質問がある」と見えるだけで、思慮や判断といったマインドは
出てこないのではないかと思ってましたが、違うんですかね?
(まあ、気づきを極め一切の判断無く現実を見ると、今見てる文字すらただの模様にしか
見えなくなるかと思うので、思考は出るだろうとは思いますが。)
2
思考が発生するとして、それらの思考、それに伴う問いや質問は、気づいてない人がやると、
「マインドが騒いでる」となるようですが、気づいてる人がやると、それはマインドが騒いでるのでなく、
ただ起きているだけ、となるのでしょうか?
または気付いてる人も、ずっと気づきの立場ではなく、マインドが騒ぐこともあるのか?
気付いている前提でマインドをツールとして使っているという感覚なのか?
気付いている人と気付いていない人のマインドの扱い方の違いがよく分からんです。
何かご意見頂ければ嬉しいです。
まあ、「そうやって分かろうとすることがマインドの罠で~」とか「分離からの質問は答えようがない」、
「つか何言ってるか分からん」とかならスルーで良いです。
379 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/02/14(金) 00:41:26 ID:VlD0Gw9A0
≫377
いえいえ、好きに書いてますのでお気になさらず。
「現実は内面の投影」というのは、言葉通りの意味なんですが、
内面が二元的・分離的な状態だと、現実は「分離状態が100%完全に」投影されるということです。
つまり快を心がけていても「快であったり不快であったりするという分離的な現実」です。
内面が二元・分離的というのは、意識と現実を分離したものとして捉えている場合、
または頭で理解はしているけれど確信はないというような葛藤がある場合
或いは「自分」と「いい気分」を分離したものとして認識してる場合などのことです。
なので「意識上だけでなく、物理的現実に反映するんですよね?」という意味でならYesですが、
「意識上で快であれば、快属性な物理的出来事が起こるんですよね?」という意味では
意識が分離状態だと必ずしもそうではない。そういう意味で肯定も否定もできないということです。
で、大体の場合そういう質問をする時点で確信がない、つまり分離意識状態なので
そういう自分の意識状態(二元的な思考の属性)に気づくことで
その両極をフラットに見れる立ち位置に立つことが、自己観察的な実践だと思います。
例えると二元的な立ち位置は振り子の錘の位置になります。
そこでは様々な外的環境によって快・不快を行ったり来たりする意識が現実に投影されます。
振り子の支点に立てば両極を包括した立ち位置ということですね。
支点は外的な影響を受けませんので、意識の在りかたがそのまま投影されるわけです。
以上のことから自己観察的実践においては
「質問の背景に気づく=思考の属性に気づく」ことで全てを包括した立ち位置に立つ、
というのが大体の流れなのですが、どうやらそういう実践ではないということですよね。
まあ私も一応きちんと書きましたw
380 :幸せな名無しさん:2014/02/14(金) 00:42:27 ID:VlD0Gw9A0
≫378
≫1. 気づいてる立場からだと、単に「質問がある」と見えるだけで、思慮や判断といったマインドは
≫出てこないのではないかと思ってましたが、違うんですかね?
「単に質問があると見えるだけ」という視点で、「思慮や判断をすることが起こっている」のを見るという感じです。
質問も思慮、判断も、ただ在るだけということですね。
≫2.気づいてる人がやると、それはマインドが騒いでるのでなく、ただ起きているだけ、となるのでしょうか?
≫または気付いてる人も、ずっと気づきの立場ではなく、マインドが騒ぐこともあるのか?
気づいてると「している」という感覚はなくなります。
私は気づいてる状態が自然、デフォではあるけど始終明確に気づき続けてるというわけではないです。
気づいてることと気づいていないことのギャップが殆どないようなかんじです。
小説だと判っているのに感情移入してしまうような状態が近いかと思います。
なので反応は起こりますが、騒ぐというほどのことはないです。
以前と全く変わっていない、にもかかわらず何もかもが違うというような感覚ではあります。
≫気付いている前提でマインドをツールとして使っているという感覚なのか?
その感覚はないです。というかその感覚がどういう感覚なのかわからないです。
≫気付いている人と気付いていない人のマインドの扱い方の違いがよく分からんです。
明確に違うのは、
錘の位置ではなく支点の位置に自分がいることを知っているということだと思います。
錘の位置にいると、優先度や重要度のある思考や疑問等があって、その回答を得られれば
何かを理解でき、何かが進んで何かが解決して何かすごい奇跡が起こるかのように想像してるんですが、
支点の立場にいると、錘が一生懸命動き回っていても、それに全く意味がないというのがわかるんですね。
頑張っても頑張っても、目まぐるしく動くだけで徒労に終わるという。
優先とか重要なものなど全くなく、何の意味も脈絡もない思考に振り回されてるだけだということです。
逆にその支点の位置にいるからこそ、余裕を持って楽しめるわけなんですが。
≫まあ、「そうやって分かろうとすることがマインドの罠で~」
分かる必要がないものを「分かる必要がある」と勘違いして頑張ってるから「騒ぐ」とか「罠」とかいいますね。
でもそれが楽しいならそれでいいと思います。
≫「分離からの質問は答えようがない」
分離からのというより、分離的な答えを得ようとする質問ですね。
「有るのか無いのか」「実現するのかしないのか」とか。
錘は両極があって成り立ってます。
片方だけだと存在できないものを、片方だけ欲しがるのがおかしいんですよ。
錘の位置にいる以上、どちらかだけを選ぶことはできませんからね。