自己観察さん132/一旦錯覚だと気づいてしまえば、意識していなくても全てがそうとしか見えなくなります。

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605 :587:2013/12/15(日) 09:07:59 ID:L7.qagzA0

自己観察さんがこうして文章を書いている時、

「こいつ何言ってんだ?ちゃんと読めや!」

「こうしたら伝わるんじゃないか?」

「こういう構成で書こうか?」

と思考を巡らしているかと思います。

書くこと自体は自己観察さんが善意、もしくはご自身の楽しみ、理解の一助として書いてらっしゃており、

これはこれで自己観察さんが意図したことで、思考が紡ぎだす一種のストーリーかと思います。

(構成等を考えるのはストーリーの中の関連付け?)

そうした上で書いている時意識としては、どっぷりストーリーに使っているというより、

「ああ、書いてるなぁ」とストーリーである、と気付いた状態となっているのでしょうか?

 

641 :幸せな名無しさん:2013/12/17(火) 22:34:26 ID:4yECFWeQ0

≫591≫592≫605

悪意はありませんが善意ほどのものもありません。単なる遊びです。

決定的に幻想だと気づいてる場合、映画に夢中になって主人公に同調して笑ったり泣いたりしても、

いちいち映画であることを気づいていなくても惑わされることがないのと同じです。

文章を書くということが起きただけで、考えて書いてる私がいるわけではありません。

同時に私が考えて書いてるわけでもあるんですが。

ところで「気づくこと」と「言い聞かせる」ことの違いはお分かりでしょうか。

「こう思ってたけどそうじゃないことに気づいた」と「こう思ってるけどそうじゃないと言い聞かせる」

方向性が全然違うのわかりますか?

前者は思考の解放、後者は価値観の覆い、制限の方向性です。

「思考の定義」「意識の持ち方」「思考は幻想だと言い聞かせる」等、

あなたは制限する方向を見てるようです。

全く見当違いです。まず「気づくこと」について自分を整理してみるといいかもしれません。

基本的なことがわかってないから混乱してるのでは?

≫「思考がエゴ(虚構)なのだとしたら仕事や勉強で考えるということもエゴが暴れていることと同じなのか?」

これも思考が虚構であっても別に悪者で暴れるだけのものではないです。思考を敵視しすぎでは?

≫意図的であろうが勝手に湧き起ころうが好きに思考し、

≫ただそのことには気付いているべし、という事ですかね?

私「気づいてるべし」なニュアンスで書いてます?

もしそう読み取れたなら私の文章センスの問題ですね。申し訳ありません。

私としては最小限の努力、自然体な方向性だと思ってるので、

努力や取り組むとかをすればするほど違ってます。

ある、意味ちょっとした視点の切り替えの問題です。

 

654 :587:2013/12/18(水) 02:10:38 ID:h6lVp5t.0

≫641

自己観察さん、しょぼい質問に真摯に回答頂き本気で嬉しいです。

ありがとうございます。

いたずらに思考を敵視したり、言い聞かせるといった思いはないつもりでしたが、

そういう風に伝わったところを見ると、自分に内在していたのかと思います。ご指摘感謝です。

改めて質問の動機を書くと、実践に関して、

「今を感じレッテルを外し別の領域のリアルな自分を体感するといったアプローチ」と、

「日常の仕事でレッテルを張り、スケジュールという時間の概念、打ち合わせといった

エゴのぶつかり等を行ってる時の意識」のキャップ、折り合いに疑問を持つことがあったので、

達人はどんな気持ちで作業してるのかな、と興味を持ち聞いてみました。

(なにか五次元と三次元位のずれっぷりの気がしないでもないですが。)

≫文章を書くということが起きただけで、考えて書いてる私がいるわけではありません。

同時に私が考えて書いてるわけでもあるんですが。

既にあるものが現れた感じでしょうか。この域まで行くのには時間がかかりそうです。

自分はまだまだ起きてくるというより自分で起こしている感覚です。

≫これも思考が虚構であっても別に悪者で暴れるだけのものではないです。

これも自分の疑問の解決に至る手掛かりかな、と思います。

虚構ではあるが、思考が全く不要な訳ではなく、必要な思考(道具として?)は当然あるし、

すればよいししなくてもよい、でも不安ならすれば?、って感覚です。

≫私「気づいてるべし」なニュアンスで書いてます?

書いてません。こちらの低い読解力、表現力の問題です。

ちょっと理解できてない所はありますが、自己観察さんに頂いた言葉を踏まえ整理してみたいと思います。

それはそれ、自己観察さんのガチの文章は畏怖すら感じるものがありますね。

良き時間を共有させて頂きありがとうございました。

*もし上の解釈中ずれがあればご指摘、もしくは遊んで頂けると嬉しいです(^^)

 

663 :幸せな名無しさん:2013/12/18(水) 22:57:02 ID:CrCgkXVU0

≫654

≫虚構ではあるが、思考が全く不要な訳ではなく、必要な思考(道具として?)は当然あるし、

≫すればよいししなくてもよい、でも不安ならすれば?、って感覚です。

そうですね。虚構だからって仕事や時間が消滅するわけじゃないので、

特に「問題」といえるようなことがないなら、そんなに気にする必要はないと思います。

 

一旦錯覚だと気づいてしまえば、意識していなくても全てがそうとしか見えなくなります。

「気づいてる」ことってはじめは確かに意識して「気づいていよう」としないとできないかんじなんですが、

一旦「それは常に在るものだったのだ」と決定的に気づいてしまうと、

別に意識していなくてもよくなるんです。

「私」と「仕事」分けてる何かがなくなると、仕事という経験が直接あるだけになります。。

サッカーでどこにパスすればいいかボールの軌道まで完全にわかって、

絶妙のタイミング絶妙なパスを出せるみたいな、その空間?全体が全部自分というかそんなかんじですね。

でも普通の感覚もちゃんとあるので、そんな凄いものでもないんですけどね。

 

661 :642:2013/12/18(水) 14:41:43 ID:wOPLA3Xo0

≫自己観察さん

自己観察させていただいています。ヘルメス・J・シャンブという人の「それは在る」

という本を最近読んだのですが「これは自己観察さんか?」と思うほど

話の内容がかぶっていて面白かったです。

お暇があれば是非読んでみてください。僭越ですがwとても面白かったので。

 

664 :幸せな名無しさん:2013/12/18(水) 22:58:57 ID:CrCgkXVU0

≫661

へ~そうなんですね。本屋さん行ってみますね。ちょっと興味あるかもw

 

667 :幸せな名無しさん:2013/12/19(木) 00:01:53 ID:v9/eQ5yg0

自己観察さん、こんばんは。

いつもレスを、素晴らしいなぁと眺めております。質問してもいいですか??

私はとてもエゴが強かったみたいで、ようやく、別の領域みたいなものを

ここ半年くらいで感じられるようになってきたものです。

昼間、エゴに翻弄されて苦しかったので、じっとその声を聴いていたら、

「絶対絶対叶うわけない」「もう無理なんだ」「これでいいのか?」

「本当に叶うのか?」「ここじゃなくてもっと大きな視点に気が付いて…」

「あれ、待って。視点に気が付こうと『してる』よね?いいのかこれ?」

という具合に、「既にあるという視点に立とう立とうとすることで、叶えようとしている自分」に気が付きました。

(~しようとしていると何かとても苦しかったです。抵抗する感じで)

同時に、「絶対絶対叶うわけない」というのを「でも既にあるんだよね」と

蓋をしている感じで苦しいなと思いました。

それで逆に、「もう絶対絶対叶わない」と思ってみたんです。

そしたら「だったらもう何もできないよね。どうしようもないし。なんかすっきりした」という状態になりました。

手放した感じ?すっきりした感じ?空白な感じ?というんでしょうか。すがすがしい感じです。

きっとこれも別の領域だなって感じるのですが、「もう絶対絶対叶わない」なんて

なんというか真逆な感じの文言で、これでいいのか?なんて気持ちも芽生えてきたりして、

すっきりしつつもちょっと困惑しています。

すっきりした感じを優先しちゃっていいんだろうなって思いつつ、

なんとなく不安なので何かアドバイスをいただければと思いました。

宜しくお願いします。

 

700 :幸せな名無しさん:2013/12/20(金) 23:19:33 ID:ctbHqlOY0

≫667

エゴは対立した意見があることで活発に動けるから「絶対絶対叶わない」という

エゴの予想を超えた答えを出されて、戦闘意欲がなくなったとか?

感覚的にすっきりしたというのなら、そっちのほうでしょう。

言葉にたいした意味はないと思います。

実際、相対を超えた意識の領域では「叶う」「叶わない」にたいした意味はありません。

 

668 :幸せな名無しさん:2013/12/19(木) 00:16:48 ID:AMLuGSnI0

私は本願についての失敗したというフィルターというか観念に縛られてると思うのですが、

失敗は嫌だ、もう繰り返したくない、怖いみたいな感情があります。

このままだと本願の失敗が繰り返し再配達され苦しまされる人生ということですよね?

再配達が怖いので自己観察すればいいんだ、みたいな考えもあります。

私の理解では、再配達=不安の的中、大凶のおみくじや悪夢が当たった、みたいに理解しています。

再配達という言葉が怖くてたまりません。

だから自己観察という立場を積極的に増やそうみたいな感覚だから私は苦しいのかな、とか

気づいたりしてます。そんな心構えではとんでもないかもですが。

それとも再配達という概念をいったん忘れるしかないでしょうか?

 

700 :幸せな名無しさん:2013/12/20(金) 23:19:33 ID:ctbHqlOY0

≫668

再配達。これは自分の中にある「否定してるもの」を、いつまでも認めないから

何度も見せられるというものだったかと思います。

「否定しているもの」を否定せずに「ただそういう感情、不安がある」と

「ただあるもの」として見れば全然怖いものではありません。

≫それとも再配達という概念をいったん忘れるしかないでしょうか?

自己観察とかレッテル剥がしとかの意味を全く理解してないんだと思う。

「再配達=不安の的中だから怖いもの」と自分でレッテルを貼っただけ。

「自己観察という立場を積極的に増やそうみたいな感覚だから私は苦しいのかな」という思考がある、それだけ。

そのレッテルやら思考にそのまんま従って

「怖いレッテルがあるから怖い。不安な思考があるから不安。苦しい感情があるから苦しいです。」と言ってる。

「怖いもの」というレッテルを貼ったまま忘れようとしてもそれこそ再配達されるだけかと。

概念や思考自体には全く何の問題もない。

それを「私のものなのだ」と一体化するときだけ問題になる。

私が書いてることはこの一行に凝縮されてると思うんだけど、あなたの質問?は

「怖いレッテルがあるから怖い。不安な思考があるから不安。苦しい感情があるから苦しいです。」だよね。

その噛み合わなさっぷりに気づいて欲しい。

多少気づくことは出来るのかもしれないけど、一体化しないということがわかってないのでは?

どれだけ実践してるのかわからないけど、実践してる中でこういう質問が出るということなら、

自己観察だけで行くのは難しいかもしれないと思います。

セドナや自愛併用してる人とかいたけど、思考感情の比重が高い人は

そういうほうが楽なのかもしれないですね。

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