201 :もぎりの名無しさん:2011/03/26(土) 12:41:35 ID:bjP9mwmM0
psg5Ebes0さん質問良いですか?
別の領域って「エゴとは」別の領域だから、エゴに気が付いているとき
(つまり、自己観察しているときとか)別の領域にいるんですよね?
ここまではざわついた心が落ち着いているな~と実感できるのですが、
「別の領域に浸る」がいまいち分かりません(実践できてるの?となる)
人それぞれとは思いますが、「別の領域に浸る」について詳しい説明をお願いします
223 :もぎりの名無しさん:2011/03/26(土) 20:45:00 ID:psg5Ebes0
≫201
「別の領域」に対して期待を持ちすぎると、「実践できてるの?」と疑ってしまうんだと
思うんですが、これは私の今までの表現の仕方も悪かったなと思っています。
普段の性格とか状況、そのときの心理状態によって「エゴ」と「別の領域」のギャップが
大きかったりなだらかだったりすると思うし、エゴの反応がわかりやすい人ほど明確な感覚が
あるかもしれないし、逆に穏やか過ぎて物足りなく感じることもあるかもしれないですが、
わかりにくい感覚だからといってダメなわけじゃないです。
私自身も最初はただ心地よく穏やかでいるくらいのもので、それがいつの間にか確信
(というか定着?)できるようになってから、この穏やかさが愛なんだなーと気づいて、
そこから感覚が開けていったような気がします。本当に自然に。
そもそも「別の領域」って特別な体感をする場所じゃなくて、
本来の自分で在る場所、自分の「今」と繋がることなので、
他人の体感を指針にして特別な体感を探そうとしたり自分の感覚を疑ったりするのは、
別の領域=自分の「今」を見失うことになります。
別の領域は無限の領域なので、感じ方も無限にあります。
一言で「愛」といっても、そこには無限の広がりがあると思うし、
だからその時々で感じてることが真実なのです。
最初からいきなり深い感覚を感じる人もいるだろうし、その体感を聞くと羨ましいとか思うだろうけど、
そうやって自分で在るというシンプルなことを、複雑にして難しくしてるだけなのです。
自分なりに感じてる「今」の感覚を信頼することのほうがずっと大切です。
単純にホッとして心地よくある自分を感じてみたり、とりあえず自分の内側にある静かな空間を
感じてみるか~くらいの軽い気持ちでいんじゃないかと思います。
瞑想というほどかしこまったこともなく、姿勢とか呼吸とかのこだわりもないです。
例えばマッサージに行ったり、お風呂に入ったりすると気持ちいいけど、気持ちよくなるために
何かをしなくちゃいけないという条件を作ったら、お風呂なんていつでも入るわけにいかないし。
ただ自分であればいいだけなんです。自分自身のまま満たされてください。
いつでもどこでも、一瞬だけでも出来ることだと思います。
何かを求めて判断したりするんじゃなく「適当でいいや」という単純さ、
ゆるい感じこそが別の領域の属性です。
209 :162:2011/03/26(土) 16:06:02 ID:NaQmnfdU0
自己観察さん、ありがとうございます。≫162です。
詳細に語っていただきありがとございました。何度も読み返しています。
投稿を拝見し、早速ですみませんが、疑問がありましたので質問させてください。
≫それと並行して、「別の領域」に浸って、別の領域を十分に信頼すること。
ここで言う「並行して」という感覚が、分からないです。
簡単にまとめると
「観察者の視点に立つ」=「今」を感じている=「別の領域」を知覚していることになる
だから、その状態を維持する・積極的に感じてみるということが
「別の領域」に浸るという意味だと思ったのですが、いかがでしょうか?
210 :162:2011/03/26(土) 16:12:17 ID:NaQmnfdU0
あと、話は変わりますが、
すでに7章認識の人で、自由自在に実現している人はたくさんいるのかもしれませんが、
「既にある」を軸にしてアドバイスをしている人を見ていると、失礼ですが、
宗教の原理主義者を見ているような感覚になります(チケット原理主義者・108原理主義者)。
本当に7章認識であるということを証明するには、その人が「既にある」と実感しているものを、
現象として手に入れるしかないと私は思っています。それができなければ、ただの夢想家だと思います。
ここでアドバイスされているみなさんが7章認識であるのかは分かりませんが、
自己観察さんをはじめ、7章認識の方(夢想家ではない方)に是非とも教えて頂きたいのです。
私はこういった願望実現法の実践を数年続けてきていますが、
一方でメソッド自体に懐疑的なところもあります。
というのは、「既にある」「私は充足に満たされている」ということを実感できれば、
それらが自動的に手に入るとすれば冷静に考えたとき、あまりにも超常現象的であると思えるからです。
たしかに、「今」に意識が完全に集中すれば過去や未来といったイメージによって
不足を感じることはないということを実践を通じて体感していますし、実際にそういう
瞑想法もあるので不足に焦点が当たらなくなる効果があることは分かります。
ただ、「今」に意識を繋げ、「別の領域」というものを信頼しただけで、ある意味で全てが
約束されるというのは、不思議を通り越して『あり得ないだろう』という感覚に襲われます。
平たく言えば、プロのスポーツ選手、一流企業の経営者、一流芸能人、
になって幸せな生活を送ることに憧れている人がいたとして(何でもいいですが)、
「今に浸る」→「別の領域に浸る・信頼する」→「既にあることが分かる」→???→「実現」
というように実践プロセスを経れば、自ずとそういったものが実現していく、
というのが基本的な考えですよね?
ここで分からないのが「既にあることが分かる」というプロセスを経た後、???と書きましたが、
ここに何が続くのかということです。それは、「後はお任せ」なのか「勝手に道が開ける」なのか
「ただ別の領域を信頼して浸り続ける」なのか「できることやっているうちに手に入る」なのか
「本当に何もしない」なのか…そして、それによって本当に実現していくのか…
しかし上記のような、プロのスポーツ選手、一流企業の経営者、一流芸能人になった人で、
「後はお任せ」「勝手に道が開けた」「ただ別の領域を信頼して…」
「本当に何もしない」という人はいないのではないでしょうか?
そこには程度の差はあれど、何らかの努力があるように思えます。
「努力はエゴである」とまでは言いませんが、完全に自動操縦で
そういった人生を送ってる人はいないのではないでしょうか。
そこで7章認識の方(自由自在に実現している方)にいくつか質問があります。
①7章認識の方には、自動操縦で上記のようなものが実現可能なのでしょうか
(実現された方は、何を実現されましたか?)?
②「既にある」ということが分かったあと、現象化するまでの期間を埋めるものはなんですか
(ただ行動する・忘れる・できることをする等)?
③そもそも、7章認識というのはピンポイントで物事を実現するような状態ではなく
思いもよらない幸運が続く体質のようなものを言うのでしょうか?
7章認識の方、ご返答、よろしくお願い致します。
224 :もぎりの名無しさん:2011/03/26(土) 21:02:58 ID:psg5Ebes0
≫209
≫173の①の通り、本来の在り方として別の領域への信頼は大前提です。
その状態にあれば、そもそも「観察しよう」とか「維持しよう」とする必要はないんです。
だから別の領域に浸ってみて即信頼できて、その状態に在ることが出来るならそれだけでいいし、
また観察してるだけでその状態になれるなら、もちろんそれだけで十分です。
説明上、「観察すること」と「別の領域に浸る」ことを別々のこととして説明していますが、
実際は同じことを分けて書いてるだけです。摂氏0度を融点と見るか氷点と見るか。
氷から見るか水から見るかの違いを説明してるようなものです。
「並行して」というのは、私はそのほうが楽に信頼できるんじゃないかと思ったからそう書きましたが、
他人の一意見として参考にするだけにして、自分にあったやり方を見つければいいだけなのです。
≫210
私は「既にある」を軸としてアドバイスしてるつもりはないです。
「既にある」については、それがわからなくて進めない人とかいつも質問がループしていたので
ちょっと書いてみただけです。ですので特に重要視してるつもりはありません。
チケット原理主義者とか、7章認識であるということを証明するには~とか
そういう意識もないですし、なんだかいろいろ複雑に考えてるなーと思いました。
≫というのは、「既にある」「私は充足に満たされている」ということを実感できれば、
≫それらが自動的に手に入るとすれば冷静に考えたとき、あまりにも超常現象的であると思えるからです。
えっ、そうですか?
現象なんて内側の投影で幻想だとわかってれば、不思議なことが不思議でなくなります。
「超常現象的」なんて表現は、固定した現実を前提として見てる古い観念からの表現じゃないでしょうか。
内側のリアルさに比べたら外側で起きることなんて単なる辻褄あわせなんだから、
多少不思議でもいいんじゃないですかね。
プロスポーツ選手云々も、他人の人生を推測することに全然興味がないのでわかりませんし、
何をもって完全に自動操縦っていうのかもよくわからないですが、努力したければするだろうし、
何をしようがしまいが、全く関係ないです。
≫「今に浸る」→「別の領域に浸る・信頼する」→「既にあることが分かる」→???→「実現」
そもそも「願望=実現」なので「願望→実現」ではないです。
たとえ物理的に「願望→実現」に見えたとしても、本当に自分の内側で起きてることは
「願望=実現」です。→の部分は単なる辻褄あわせですから。
日常の生活と願望を結び付けて考えすぎてるんじゃないかと思いますよ。
①自動操縦ってどんなのかわかりませんが、「欲しい」と思ったら普通に買うし、
その時買わなくても後から手に入ることもあるし、そのままどうでもよくなることもあるし、
そのときの自分の気分優先で行動したりしなかったりするだけです。
②私の場合は、あまり「願望を持った」という自覚はなく、ただ人生の流れが完璧に調和してるな
という感じなので、「現象化するまでの時間」というものの感覚がありません。
③7章認識というのは私にとって、「今の自分が完璧なんだ」という実感に過ぎません。
完璧な私にふさわしい調和のとれた人生を生きてるだけです。
すごくエゴの固定観念で固まったところからの質問なので、求めてる答えと
はずれてるかも知れませんがこんな感じです。
全体的に、7章とかチケットとか「既にある」を特別視しすぎてると思いました。
チケットに書いてあることは他にもいろんな表現でいろんな人が言ってるので、
「ありえない」こととは思いません。私自身は本来の在り方だと思っています。
チケットはすごくシンプルで、読み手の自由さがあるので素晴らしいと思っていますけどね。
前の質問とかを見て、実践してる方だと思ってたのですが、これから実践しようと思ってる方なのかな。
こういう疑問を他人に答えを求めることは単にエゴを満足させるだけのことですし、
わからないことをも明け渡して、そのループから抜け出すことこそが、
自分自身を知ることに繋がっていくんです。
「理解しよう」とか「理解できない」とかのエゴを超えていくということです。
頭で理解できる世界じゃないんです。
理解しようとするから、理解できる範囲のせまーい現実しか体験できないんです。
こういう疑問を持ったときこそ、自分を観察してる視点に立つことを実践してみたらいいと思いますよ。