Wildさん_07/熟睡時の何も無い状態がベースみたいなものであり、そこに現象と認識が同時に起こることにより世界が繰り広げられていると考えてます

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731 : 幸せな名無しさん :2016/05/04(水) 19:52:04 M5Q9Wsps0

wildさん
こんばんは、現象です。

書き込み有り難うございます。毎回とても参考になります。

ハーディングの実験は以前、流し読みした程度でしたが、
改めて読んでみて、非常に現象学的(またかよw)だなと思いました。

現象学は、私たちが無意識に自明としているあらゆる前提を取っ払って、
本当に与えられているもの=「事象そのものへ」と到達し、描写する哲学です。
なので、あの実験も、目の前の事象に対する態度が同じだなと。
エルンスト・マッハが描いたイラストも現象学の書籍で見た事があります)

あの一連の実験を素直な気持ちで行うと、「今、ここ」の直接性が体感できますね。
確かに私は、この場所、この視点からしか世界を眺めたことはなかった。これが世界。
そして、与えられたものを解釈し、組み立てて世界は成立している。

最近は、あまりごちゃごちゃ考えず、チカラを抜いてラクに、
エイブラハムが言う「川を下る小舟」の感覚で暮らすようにしています。
すると、いろんな事がスムーズに運ぶように思います。

実現報告スレにも先日書きましたが、
今月支払いがキツイんだよな、どう解決してくれるのか、
と思いながら布団から出て、その15分後ぐらいで解決したり。
いろいろ小さい思いが叶うような。

「なるようになるわー」と思ってると「なるようになる」んだな、
現実ってかなりやわらかそう、と実感しています。
アバウト最強かもw

で本題なんですが(前振り長くてすみません)、
18禁メソについての某氏の返事でガツンときたとおっしゃっていましたが、
どんな内容だったんですか、とお尋ねしようかと思いましたが、
個人的なやりとりですものね。。。
表現や例えを変えてエッセンスをお教えいただけないでしょうか。無理でしょうか。
(私も男ですのであのメソの内容はとてもよく理解できるのでw)

 

735 : wild :2016/05/04(水) 20:58:33 G4jSEPIQ0

≫731

≫現象学は、私たちが無意識に自明としているあらゆる前提を取っ払って、本当に与えられているもの=「事象そのものへ」と到達し、描写する哲学です。なので、あの実験も、目の前の事象に対する態度が同じだなと。(エルンスト・マッハが描いたイラストも現象学の書籍で見た事があります)


ああー!なるほど!
現象学って名前が難しいし、なんか難解そうだなと思ってましたが、そうです!そうです!
今まさに今、ここに出現しているものが真理である。
思い込み、観念に惑わされず、この「公然の秘密」をひとつひとつ解いていく。
それが私の認識の変更なのですが、現象学だったんですねw

同じような切り口でダイレクトパスという手法もありますが、これの現代の提唱者も哲学者でしたねー。
私は知らぬ間に哲学の道に進んでいたのかw
現象学の本、読んでみます!

某氏へのメールですか?
世界との一体化に18禁メソッドが良いというので、毎晩試していたところ、「私は前立腺だった!」とか変な気づきを得てしまい、その感想を送ってましたw
今思うと某氏も「ヤバい奴からメールが毎晩きてるよ汗」と思ったと思いますwww

でも実は返信を頂いた内容はそれではなく、私もいつまで経っても変わらないんで恥ずかしながら泣き言を送ってしまったんです。
もう無理ですみたいな。

そしたら自由意思についての説明を頂いたんです。
内容は730さんにお答えしたような内容ですね。


そしたらですね、宇宙のすべてがなんというか「規則性を持って動いている!」という気づきを得たんです。
ちょうどドブ川の横を歩いていたんですが、ドブ川の波やら音やらが、すきやの意思によって動かされているような、キラキラと目に映ったんです。
なぜそのように感じたのか、よくわかりませんが、知らんさんスゲーッ!ってなりました。

埼玉の聖者は飄々としてますが、非常に優しい方だったのです。

 

736 : wild :2016/05/04(水) 21:08:34 G4jSEPIQ0

そう言えば現象さん、いい感じでアバウトになってますね?
「なるようになる」まったくその通りですね!

なんとかならないなりになんとかなる

そのように出来ているんだと思います!

 


 

750 : 幸せな名無しさん :2016/05/05(木) 18:20:36 yR8WZTLo0

wildさん
現象です。

本来、哲学って何か思想的なものを構築する学問ではないんです。
私たちが普段その上に立っている自明性という地盤を掘り崩して、
どんな風になってんだよ、と考えるもので、最大の謎が世界と私なんです。
いちばん当たり前だと思っていた事が、じつはいちばん不思議だった、と。

知らんさんが哲学なんてどーでもいいみたいなことをお書きになっていましたが、
何かを構築するものだ、という誤解からだとたぶん思われます。
結局、哲学も宗教もスピも、同じことを目指して語っています。
ようこそ哲学の道へw

>ダイレクトパス
グレッグ・グッド「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」でしょうか?
面白そうなので読んでみます。

 


>ちょうどドブ川の横を歩いていたんですが、ドブ川の波やら音やらが、
>すきやの意思によって動かされているような、キラキラと目に映ったんです。

 

一瞬、あっ!、となりましたが遠のきました。むむむ。
なるほど、ぜんぶ湧いているだけは「調和」につながりますね!

コントロールしたいという思いも湧いてるだけ。
認識変更したいもという思いも湧いてるだけ。
いまこうして書いていることも湧いてるだけ。
なんかもうちょっとのような気がするのになあ、も湧いてw、も湧w

 

775 : 幸せな名無しさん :2016/05/08(日) 20:38:55 .RqyPr5w0

wildさん。現象です。

≫750の「調和」に気付きかけてあっ!となりかけた感覚、
なかなかつかめません、惜しかったのになあ。
ぜんぶ湧いてる、という認識がまだ徹底していないんでしょうね。
私もドカンッときて感動したいw

ところで、「意識はただ1つしかない」という表現をよく見かけますが、
(wildさんも≫716でお書きになっていますが)
これは、私の世界を創っているこの意識、の意味ではありませんよね?
私も他者もすべてを含む1つ、のことですよね?

これがよく分かりません。
明らかに私と他者は全く違う存在の仕方をしていますし。
というのは明らかにエゴ視点でしょうけれども。

wildさんのwild視点から見て、
他者とはどういう存在の仕方をしているのでしょうか??

 

776 : 幸せな名無しさん :2016/05/08(日) 21:46:28 cJ0yqGYo0

wildさん

775(現象さん)の質問と被っているかもですが、
wildさんから見て他者(や身の回りのもの)がどう映っているのか、気になります。
愛しい、とかなのでしょうか?
ただ存在しているだけ、という感覚なのでしょうか?

私自身、いまいち他者に興味が持てないので
よく聞く「すべてが自分、愛しい!」とか「他者に愛を送る」とか
感覚が掴めないというか、「他人が愛しくなるってほんまいな…」という思いです。
認識変更の段階で、他者(や身の回りのもの)の見方も変わるものなのでしょうか。


777 : 幸せな名無しさん :2016/05/08(日) 23:16:29 BJII0oso0

≫775
現象さんこんばんわ(^^)

≫ これは、私の世界を創っているこの意識、の意味ではありませんよね?私も他者もすべてを含む1つ、のことですよね?


この辺り、特に前者のところもう少し具体的に教えて頂けるとありがたいです(^^;
よろしくおねがいします☆


778 : wild :2016/05/08(日) 23:29:28 BJII0oso0

777はwildです!
すみません!

≫776
はい。認識の変更したての時は愛がハートから溢れて何から何まで愛でした。
今はすっかり落ち着いちゃって、他人が愛しいという感覚はあまりないですね(^^;
意識すればすべてが私だな~となりますが、普段はけっこう普通ですw

普通なんですけど、根本的な何かが変わったんでしょうね。
そうですねー、やはり物事を常に観照している状態があたり前になってますかね。
しかし愛というより、クリアな感じです。

 

783 : 幸せな名無しさん :2016/05/09(月) 05:18:02 5y0S42bM0

≫777 wildさん。現象です。

 

これは、私の世界を創っているこの意識、の意味ではありませんよね?私も他者もすべてを含む1つ、のことですよね?
この辺り、特に前者のところもう少し具体的に教えて頂けるとありがたいです(^^;

 

言葉足らずで分かりにくい質問でした、すみません <(_ _)≫

仏教の唯識派では、
「一人一宇宙」(各人それぞれが1つずつの宇宙)と考えるそうです。
で、「意識はただ1つしかない」というのは、

A:「一人一宇宙」と同じような意味でしょうか?
(この場合、本当の私=意識=宇宙=世界に他者が現れているのだから、
私=他者、となるのは理屈として理解できます。
他者のみならず、あらゆるモノ全部が私、という理屈も分かります)

B:一人一宇宙ではなく、並ぶもののない「真の意味での唯一」なのでしょうか?
(ある種の「領野」「場」とも言うべき「唯一の意識」が開かれており、
その上に私も他者も事物も現れている)

と、質問を書いてみてから考えたのですが、

<Aの場合>
意識=世界が並列することになります。
しかし、その並列している様子を俯瞰する視点などありません(虚構です)から、
間違いではないかと考えます。

<Bの場合>
私の視点から無数の他者の視点へと自由に飛び回って、
いろんな場所・角度から世界を見ることができるのならBが正解だと思いますが、
他者視点から世界を見ることは事実としてできません。
なのでBも間違いではないかと考えます。

要するに、「今・ここ」で受け取っている事象・情報だけが真実だとすると、
この文章を書いている私(現象です、と名乗っているこの私)だけが本当に存在する、
としか言えないのでは、と思いました。

ですから、wildさんも、ここに書き込んでいる皆さんも、存在しない。
この文章を書いている私だけが存在(独在)する。

というように考えるのですが、wildさん、どう思われますか?
(と、お尋ねするのは矛盾していますがw)

 

787 : wild :2016/05/09(月) 11:26:54 Tsq2.t.w0

≫783
いえいえ、私の読解力がなくてこちこそすみません(^-^;

しかし、さすが哲学に造詣が深い現象さんですね~。
これは私も勉強になります。
私自身、まだ探求の途中であるのでは?と感じているため、このようなご質問は私にとってさらに認識変更するヒントとなります。
詳細頂きありがとうございます。

これは現段階での私の感覚では、
Bに近いC(独在)
かと思います。

≫ですから、wildさんも、ここに書き込んでいる皆さんも、存在しない。この文章を書いている私だけが存在(独在)する。


まさにこの通りですね。

しかし、この「独在する私」は、思考や感情、肉体感覚が組み合わさって構築された「エゴの私」ではなく、それらの出現を可能としている意識、それが「独在する私」だと感じます。

なのでこの、独在する私、意識が

≫B:一人一宇宙ではなく、並ぶもののない「真の意味での唯一」なのでしょうか?(ある種の「領野」「場」とも言うべき「唯一の意識」が開かれており、その上に私も他者も事物も現れている)


このBの意識でもあるということになりますかね。
難しい!w

しかしなぜ他者の視点に移動できないかと言いますと、他者には意識がないからですかね。
他者や事物は、この独在する意識から見ると自分の作った「ただの色」なわけです。
(これは観念なしに見ると本当に色だけが展開しています)
自分の描いた漫画のキャラの視点にはなれないと同じなのではと思いますね。

うーむ…(-_-;)
伝わりましたでしょうか?w

 


 

 

36:現象:2016/05/11(水) 06:00:36 ID:0jUFFgXk0


wildさん。現象です(今回から名前欄に現象と書きますw)

(前スレの内容ですが)
B(唯一無二の意識)かつC(本当の私の独在)ですか。。。熱が出そうですw
これはずっと謎なので、また考えがまとまったらご質問させてください。

ところで、またしてもお尋ねしたいことがあります。

wildさんは、「私」が存在することを奇跡だと感じていらっしゃるでしょうか?
それとも、「私」が存在することは何の不思議もない当然のこと、という感じでしょうか?
(この場合の「私」は、エゴの私なのか、意識の私なのか、自分でも判然としません)

これまで何度か、世界が存在すること、私が存在することを奇跡だと実感したことがあり、
ごく当たり前だと思っていたこの「存在すること」に驚愕しました。
私も世界も、存在しなくてもよかった。
でも現に、いまここに存在している。そのことに驚いたんです。
いま現在は、驚愕の実感はありませんが、頭では何となく分かっている感じ、です。

で、私と世界が存在することが奇跡(ありえない事が起こっている)なら、
これは「絶対的な幸福」ではないでしょうか?

なので、この「絶対的」な幸福という地盤の上で起こる
「相対的」な不幸(エゴ視点の不幸)は、じつは不幸ではないのでは、と思うのです。
なぜかと言えば、「絶対性」の前では「相対性」は無に等しいからです。
つまり、一切の不幸とは誤解で、すべて幸福なのではないでしょうか?

極端な例を挙げますと(ちょっとキチ◯イじみていますが、敢えて書きます)
目の前で愛する我が子が惨◯されたとしても、それは本当は不幸ではない。
もっと言えば、幸福であることに変わりがない、のではないか。
さらに言えば、ひょっとすると、
そういう種類の歓び・幸福のカタチの現れ(意味不明かもw)、なのではないか。

もし私がそんな目にあったらもちろん泣きわめきますし、
真っ青になるぐらい怒りに燃えて犯人に復讐しようと考えると思いますが、
でも、本当は上記のようなことなのではないか。

とまあ、また長くなりましたが、どう思われますか?

 

43:wild:2016/05/11(水) 18:39:15 ID:R73.w.go0

≫36
現象さん、こんにちわ(^^)

そうですよねー、ちょっと混乱させてしまいましたかね?
私も説明が下手くそなんでもっと文章力あげられるよう努力します(^^;

 

≫ wildさんは、「私」が存在することを奇跡だと感じていらっしゃるでしょうか?


ここは奇跡中の奇跡と感じてますね。

気づいた時は幸福感でいっぱいでしたが、しかし今は何でだろ?という疑問の方が多いです。

そこを解明したいという気持ちが私にはありまして、まだ執着があります。

これが落ち着くまで私の探求は終わらないですね…。

もしかしたらそのまま肉体は滅んでしまうかもしれませんが、肉体、思考のエゴがまだあるうちに解明したいなとw

 

≫ なので、この「絶対的」な幸福という地盤の上で起こる「相対的」な不幸(エゴ視点の不幸)は、じつは不幸ではないのでは、と思うのです。なぜかと言えば、「絶対性」の前では「相対性」は無に等しいからです。つまり、一切の不幸とは誤解で、すべて幸福なのではないでしょうか?

そうです!その通りと私も思います!

これがよく覚者が表現される愛ってやつなのかと思いますね。

存在することの愛、絶対的な安心感、何が起こっても根本的には大丈夫という感覚ですかね。

これはハーディングの実験でもわかりますし、「在る」でも起こってきますね。

やはり現象さんは的確だし、説明がうまいなw



でもやはり私も思考と肉体を持ってますから、肉親がそのような目に遭ったら復讐しにいきますね。恐らく。

そのようなストーリーが展開されるかなと思います。

そこでまた何か気づかされるのかもしれませんが、そんなストーリーはやっぱり辛いな…。

 

86:現象:2016/05/13(金) 05:29:00 ID:rU0oF..g0

 

>ここは奇跡中の奇跡と感じてますね。


やはりそうなんですね~。
で、「私が存在することは奇跡だ」と認識しているのはエゴ、ですよね?

エゴって認識変更・引き寄せ関係ではワルモノ扱いされることが多いですが、
もしも、エゴが居てくれなかったら、
世界は闇に沈んでしまうと思うのですが、どうでしょうか?
在るけれども無い、無いけれども在る、というような「明るい闇」に。
明るい闇、と言っても「結局それは闇」ではないでしょうか?

知らんさんは18禁アダルトメソッドで、
動画に没入している時に私=エゴは居ないけれども、
オネーチャンがHしている映像は在る、というような事を書かれていましたが、
没入している時には映像は無い、と思うのです。
映像が在る、と認識している時にはエゴ視点に戻っているはず。

何らかの存在・現象は、「誰か」に対して存在・現象していると言う事であり、
「エゴ」と「純粋な意識」の間を往還することでしか、存在・現象はありえない。
純粋な意識という1枚の鏡だけでは、その鏡に映っている内容は存在できない。
私=エゴという「もう1枚の別の鏡」があってこその純粋な意識、なのでは。

私たち全員は、最初から別の領域に居る、ということを認識するには、
私たち全員は、もともと純粋な意識である、ということを認識するには、
一度その外に出て、再び帰還する必要があるのだなあ、と。

故郷を発見するには、一度故郷を離れることが必要、みたいな。
(「存在と時間で知られるハイデガー」がそんな事を言ってます)

という風に思うのですが、wildさんのご意見をお聞きしたいです。
(wildさんや様々な達人さんの書かれている事と重複している内容でもありますが、
自分の言葉や考えで辿り直してみたいのでいつも書かせていただいてます。
んなこたあ分かってるよ、という方はどうぞスルーしてくださいまし)

 

91:wild:2016/05/13(金) 19:24:49 ID:ZJdxEQ9w0

≫86

ここは奇跡中の奇跡と感じてますね。やはりそうなんですね~。で、「私が存在することは奇跡だ」と認識しているのはエゴ、ですよね?


はい、これはエゴ視点で言っています!

 

≫ 在るけれども無い、無いけれども在る、というような「明るい闇」に。明るい闇、と言っても「結局それは闇」ではないでしょうか?

 

これは私は熟睡時がそうなんじゃないかと現段階では思ってますねー。

 


≫「エゴ」と「純粋な意識」の間を往還することでしか、存在・現象はありえない。純粋な意識という1枚の鏡だけでは、その鏡に映っている内容は存在できない。私=エゴという「もう1枚の別の鏡」があってこその純粋な意識、なのでは。


つまり認識する者がいなければ現象は起きえないということですよね?
ある覚者さんは、鏡自身が鏡を見てしまうという、とても思考では理解できないことが起きることが悟りの瞬間であると言っていますが… ここは本当に難しいところですよね。

私の現段階での理解です。
これから変わるかもしれませんので参考程度で読んでもらえるとありがたいです(^^;

私の考えでは、熟睡時の何も無い状態が本当に一つの状態、ベースみたいなものであり、そこに現象と認識が同時に起こることにより世界が繰り広げられていると考えてます。

ここで言う認識とは、思考を介さない認識です。
例えば「リンゴだ!」と思考が言う前に「赤い何か」が現象として出現しており、またそれと同時に認識しています。

現象があるからこそ認識があり、認識があるからこそ現象がある。
現象=認識
これこそ分別する自我の本質なのかなーと。

この世界とは、現象=認識そのものであり、すごく根本的な自我である。
が、実のところ今私が考えているところです。

目が覚めている間はなぜか現象=認識がポコン!と常時創造されており、そのベースとして、目には見えず感じることもできないですが、常にWildはあるのかなと。

 

93:幸せな名無しさん:2016/05/13(金) 22:30:41 ID:VqM43DDw0

wildさん、≫86,≫91での鏡の話、すごく興味あります。

うまく説明できないのですが、最近
「あれ?自分の世界って鏡張りの世界じゃない?
自分が発した光を鏡(世界)が反射させてる


→その鏡が反射したのをさらに自分が見てる」という感覚があったのですが、
この「見てる」というのは、「見てる(気がしている)」エゴですよね?
なんだか混乱してます^^;

認識を履き違えてしまっているのでしょうか?

 

101:wild:2016/05/14(土) 01:54:30 ID:Z57njqoA0

≫93


深みにハマるので気にしないで下さいw
とは言うものの読んでしまったんだから気になりますよねー!w
私と同じですね…(^^;

しかしですね、私はその見ている者の存在をしっかり確立された方が良いかとなと思ってます。
エゴと言ってしまうとなんだかめんどくさい存在のような感じですけど、思考と距離の取れた純粋な視点です。

今はその視点を無くそうと思ってもできないと思いますので、逆に大事にしてみて下さい。

 

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