Wildさん-31/「自作自演メソッド」すべてがオートマチック&ノーコンロールだとわかると、エゴの介在する余地はありませんね。

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543:wild:2016/09/24(土) 22:24:17 ID:6it/pZTQ0

ちょとメソッド投下します。
名付けて、
「自作自演メソ」!

・まず自分の周りに起こること全部「私の意識の中で起きている」として見ます。

目の前のパソコン、表示されてる文字、周りの人、動物、部屋などなど…。
これも全部私の意識の中で起きているとして見るのです。

・次に音や、物を触ってる時などの感覚。これも全部自分の意識の中で起きていると見ます。

BGMの音、周りの人の話声などの音。
キーボードの固さや椅子の固さ、柔らかさ。
これらも全部私の意識の中で起きました。

・最後にここが重要なのですが、
自分の身体の動きや思考(これ特に重要)も、私の意識中で起きているとして見ます。
起こしているではなく、起きている。

「自分がすべてを起こしている」でも別に良いのですが、私は「起きている」の方がわかりやすいです。
何がかと言いますと、エゴは幻想だと言うことでしょうかね。

全部私の意識の中で起きています。
私の中で物事が起き、私の中でそれを感じ、私の中でそれを判断している。
そして次の行動が起きる。

全部が全部自作自演。
私=世界

すべてがオートマチック&ノーコンロールだとわかると、エゴの介在する余地はありませんね。

暇な方はぜひ遊んでみて下さい☆
この板の住人の方はこんなの当たり前ですかね?(^^;
でわ。

544:498:2016/09/25(日) 14:00:02 ID:4GXXi5Rk0

≫540
wildさん
できるんじゃないでしょうか?その辺の神通力だと思いますw私はできません
まあ、それが別の領域etcの本質ではないので魔境ということですね。
ここ数日とらわれまくりだったのでwildさんの書き込み見れてよかったですw

ダイレクトパスは知りませんでした。ご紹介ありがとうございます。ダグラスハーディングは桑田さんが紹介していたので名前を聞いたことはありましたが。
エックハルトトールでは私は理解ができませんでしたねえ・・・。まあ今となっては懐かしいというかw
結局言葉じゃなくて理解する必要があるんだけど、理解するために!ってなると理解できないという・・・
エゴ的むりげーにはまってしまいましたw

あれですね、神通力とか直観とか、五感を超えてwildに気づかせてくれるためのwildからのツール程度にとらえておいたほうがいいのかもしれませんね。
(まあこれももちろん勝手な意味づけなんですが)
エゴ的にそれを手に入れよう!となるとループ。
時間が止まったことはないですが、自己観察でものすごい爽快感が頭部に訪れたことがあって、
その後それを再現しようと躍起になって停滞したことをwildさんの書き込み読んで思い出しました。

 

545:498:2016/09/27(火) 23:56:32 ID:8YMa9/m20

≫536
真昼さん

どーーーにもひっかかる部分があるのでもう一度レスします。
「幻想」がさす言葉の意味、及び言葉の選択です。

幻想と言われると、何か「幻想でないもの」がどこかに存在するような印象を受けました。
これは真昼さんの意図するところと違うと思いますがいかがでしょう。
むしろ、今までいろんな方がおっしゃっている「錯覚」という言葉のほうが私はよい気がするのです。
エゴの視点を通して、「それ」を限定的な見方で見させられている。
真実はそこにあるのですが、ないように見えてしまう。

「幻想」だと、なんだか全く別のところに真の実在なるものがあるような印象を受けてしまうのです。
≫477≫480の痛みの話を例にとると、痛みで指し示されるその感覚自体が幻想(痛みなんてない)というようなふうに私のエゴはとらえてしまうのですが。

そうでなくて、痛みで指示されるその「感覚」はあって、「痛み」という「言葉のレッテル」、そこから派生するもろもろの観念(例「痛みは好ましくない。消したい!」)が幻想、ということですよね?

≫509の、

>表と裏とは対立的な概念ですが、同時に依存関係にもあります。そして、本質的には同じものです。表を向いていようと裏を向いていようと百円玉は百円玉です。
>同様に、有ると無いは対立的な概念ですが、依存的でもあり、本質的には同じことです、たぶん。そこに「空」という本質を垣間見ることができると考えています。

を例にとりますと、
錯覚ならば、「表も裏もエゴによる限定的な見方、錯覚です。百円玉があります。」
ということですが、

幻想だと、
「百円玉は幻です。それは実は五百円玉です。」
っていうふうにも取れてしまいます。
わかりにくいですねwすいません。

≫475

>私たちは本来、分離なんてしてないのではないはずです。

っておっしゃってますよね。ならばやはり、幻想という言葉のチョイスがふさわしくない感じがします。幻想という言葉はもろに僕の分離感をあおりましたw

ですので、なお「幻想」という言葉を使われるのなら、
「幻想が一体何から何までを指すのか」ということをご説明いただきたいと思います。

ーーーーーーーーーー

今、≫473-475を再度読み直しています。

>まず五感についてですが、突き詰めれば、五感なんてないんですね。一感ですね。「感」だけです。

感・・・というと、「誰が感じるの?」という疑問が出てきますね。(「・・・ているのは誰か?」という質問は、問いかけて放っておくととても面白いですよ)
そうではなくて、
五感も何もかも、同じスクリーンの上の顕現、多種多様な顕現で本質的には同じもの、ということだと思いますがいかがですか?

>「私がこの世にいる」という存在感て何かな?と。一番掴みにくい「感」ではないですか?もしかしたら、それは「感」ではないのかもしれません。

「私がこの世にいる」と感じているのは誰か?ですね。
これはマハルシの問いかけの方法です。
仮に答えが私として、「ではその私を感じているのは誰か?」と再度問う。
カメラが自分を移せないように、感じられているのが私ならば、感じているのは私ではないのです。
では、私とはどこにあるのか?というのがこの質問の本質です。問いかけて放っておきます。
・・・と思ったら≫480でもう気づいてらっしゃいましたね。
一応書いたのでそのまま投下しますねw

ーーーーーーーーーー

いろいろ読み返して書いてるうちにひらめいてしまった・・・

>我々の背景が「無」

背景が無・・・はたしてこれはそうでしょうか!?
この時点で無のほうにFOCUSしてますよね。

ですから、私たちの背景は・・・
「無と有が”同時に”存在している」(無と有の相関ではなく、まさしく同時に)
のでは・・・?

すべての可能性が同時に存在しているのでは・・・
これ、「パラレル」では!?
なんかはっきりしない。何だろこれ。
これはぜひ皆さんの考えをお聞きしたいです。
私の直観では無視できる問いではないと思いますが、ふたを開けたら私が見当違いだったという結論でもいいので。

546:498:2016/09/28(水) 00:11:22 ID:bqp9NcPU0

最後のは言い換えれば、
「無数の世界線、可能性、パラレルワールドが存在するのではないか」
「量子的飛躍があり得るのではないか」
ということになります。

 

547:wild:2016/09/28(水) 20:55:02 ID:cPIVfhz60

≫544
498さん

≫ ここ数日とらわれまくりだったのでwildさんの書き込み見れてよかったですw

それは良かった!
しかし私も囚われまくりですよw
すぐストーリーの中に埋没しがちです。
でもこの顕現世界をやっている以上は仕方ないと思ってます。
顕現世界をやってるって意味不明な表現ですが、
感とか、有などの在る世界(肉体感覚を伴う私個人を含む)が、顕現世界であり自我の根本であると最近思うところです。
それがわかれば、まあこのままでいいやとなるんですけどね。

≫ 時間が止まったことはないですが、自己観察でものすごい爽快感が頭部に訪れたことがあって、その後それを再現しようと躍起になって停滞したことをwildさんの書き込み読んで思い出しました。

そうなんですよねー。
「あの感動をもう一度!」がハマりやすいですよねw
もうその快感は訪れないとしておいた方が良いかもしれませんね。既にそうしておられるのかもしれませんが…。
私も何度もハマってますが、以前と同じ爽快感はなくとも実は同じ状態になってたりしますよね。

ところで真昼さんへのご質問で

≫ 五感も何もかも、同じスクリーンの上の顕現、多種多様な顕現で本質的には同じもの、ということだと思いますがいかがですか?

とありますが、まさしくこんな感覚ですね。
さまざまな顕現が展開するスクリーンがこの現実世界であると感じます。
顕現の素はスクリーンなのでしょう。
ですから鳥が鳴いてると、鳥が鳴いてるようでもあり、スクリーン自体が鳴いてる感覚でもあります。

548:wild:2016/09/28(水) 20:57:03 ID:cPIVfhz60

続き

≫この時点で無のほうにFOCUSしてますよね。ですから、私たちの背景は・・・「無と有が”同時に”存在している」(無と有の相関ではなく、まさしく同時に)のでは・・・?すべての可能性が同時に存在しているのでは・・・これ、「パラレル」では!?

これは難しい…w
なんとなくな私の考えですけども、本当に無にFOCUSができるのかどうか。
例えばフィルムの1コマ1コマが瞬間瞬間のFOCUSだとすると、何も無い1コマにFOCUSした途端、気絶してしまうのではないかと考えます。
今、私の背後や視界の外は無と言えますけども、これは無という「考え」にFOCUSしてると感じます。
言えることは言えるんですけどね(^^;

もしフィルム的な考えを採用すると、何も無い1コマは熟睡中とも言えますね。
この間はFOCUSがない。
しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。
ですから有と無はON/OFFの表裏一体のスイッチ的なものであり、意識があるときは起動してるだけなんじゃないかなと考えてます。
熟睡中は無という1コマがあるのではなく、途切れてしまっている。
でもそうなると相関とは言えないのかな…こ、混乱ですw

パラレルはいろんな世界が並行してるのではなく、スクリーンにどんな顕現でも映せるという意味ではあると思いますねー。
あまりまとまりのない意見ですみません…この辺りはまだまだわからんことだらけです(–;)

549:498:2016/09/28(水) 21:37:46 ID:bqp9NcPU0

≫548
書き込まれた瞬間見つけたみたいですw

≫なんとなくな私の考えですけども、本当に無にFOCUSができるのかどうか。
例えばフィルムの1コマ1コマが瞬間瞬間のFOCUSだとすると、何も無い1コマにFOCUSした途端、気絶してしまうのではないかと考えます。

どうなんでしょうね?それは個が完全に消滅した世界でしょうから想像もつきませんねw気絶、かな?認識する主体がなくなって、完全にオートマチックに動いているかもしれませんねw(これは身体がある限り分離なので生きてるうちはわからないと思うので、あんまり興味がないですw)

ただ、純粋な無というのはありえないと感じます。

「無というスクリーン」は、私なりに言えば「無属性のスクリーンが在る」となります。

「有る」は「無い」との対比で分離、対して「在る」は分離の無い不動の一者を表すという意味で使いました。
「無い」が純粋に存在することはないと思いますね。「在る」の上に有る無いが現れるという感じですね。

≫しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。
不動の一者に還るんだと思ってます。どういうことなのかは想像もつきませんがw熟睡と表現するなら永遠の熟睡、ですかね?

≫しかし私の中では、有の世界(顕現世界)で囚われが滅し転生も起きなくなると完全な無、熟睡(涅槃?)になると考えてます。

正直、パラレルの話は分離の話なのか在るの話なのかすら見当がついていないです。
ですが、上の理論でいくと、「既にある」という言い回しに疑問を感じませんか?
おそらくみなさん、不足が無いというのはわかってらっしゃると思います。

ですが、そのことをもって「既にある」というのは論理の飛躍がありますよね?

ずっと疑問だったんですよ。既にあるってどこにあんねんて。目の前にあるってどこやねんて。

スクリーンにどんな顕現でも写せるというのなら、写る前はやっぱり無いじゃないですか。
それがパラレルなら説明がつくんですよ。

今があらゆる世界線を含んでいるなら、目の前にあるんですよ。スクリーンは今ここで、あらゆる可能性を含んでいるんだと思います。

550:498:2016/09/28(水) 21:43:01 ID:bqp9NcPU0

≫549
スクリーンは不動として在りますが、やはり顕現は有る無いがありますよね。写る前は、無い。写ってから、有る。
でも、「既に有る」んですよ、きっと。目の前に「有る」世界線が在る(?)。
知覚、認識は、一つの世界線を選び出しているんだと思います。108さんの言うパラレルシフトって在るんじゃないかな…
確信したわけでは無いですが。

552:498:2016/09/29(木) 00:09:44 ID:zkxq/FqQ0

何度もすいません!
≫547飛ばしてました。

顕現世界をやってるってなんかいいですねw
オカルト気味になりますが分離を体験したくて生まれてきたのかもしれませんね。だからこの世界には自我がつきものだと。

あの感動をもう一度!はやりますよねw
変化に伴う刺激が大好きなんですよね、エゴは。
なんでも初体験は気持ちがいいものですw
でもそれは変化に伴う落差にたいする反応だから、無常なんですよねえ…。
状態としては同じ、わかります。というか、不動の一者はいつでもここにありますからね。エゴるとわからないだけでw

スクリーンのお話。
同じような理解ということで嬉しいです。
スクリーンが鳴いているはまさに。スクリーンに映る、と以前は理解していましたが、スクリーン自体がその形をとって現れている、と言うことができる気もしています。

 

554:wild:2016/09/29(木) 23:19:04 ID:EXCO6GYY0

≫550
498さん、こんばんは!

≫ただ、純粋な無というのはありえないと感じます。「無というスクリーン」は、私なりに言えば「無属性のスクリーンが在る」となります。「有る」は「無い」との対比で分離、対して「在る」は分離の無い不動の一者を表すという意味で使いました。「無い」が純粋に存在することはないと思いますね。「在る」の上に有る無いが現れるという感じですね。

おっしゃりたいことはよ~くわかりますよ!!
寝てる時も膜が覆うように「気づき」があると言う覚者も多いですしね。
ON/OFFが起こる大元、土台の「気づき」が在るということですね。

私も以前はその考えでしたが、縁起と自分の直接の体験(意識ある時ない時)を観察し、照らし合わせているうちに先の考えになりました。

確かにON/OFFが起こる無属性の土台がないと理屈として通らないですよね。
有が起こる何かしらの要素が無にないと有になりませんし、またそうなると無とは言えませんしね。

しかしここはもうどうにもわからない。
ただ単純に私というひとつの意識は、ON時には様々な場面を連鎖的に映し出し、OFF時にはまったく何も無い。
と言うことしか今の私の「直接の体験」(思考の介入のないあるがままの体験)からは知ることができません。
より知ろうとすると考えが顕現してしまう…。
なので私とはそのような存在なんだろうなということで私の中である程度落ち着かせてますw

とは言うものの、正直まだその答えに迷いが多く残るのは確かです。
釈迦の「己」とは一体どのことなんだろう?
もしかしたら不動の一者のことかもしれませんね。
では絶対の存在を否定したのはなぜなのか?
もしかしたら口伝、訳自体が間違いかもしれません。
否定していないとも言われてますからね。
ここは自分でもっと深く体感し納得するしかなさそうです。
私が生きているうちにはっきりさせたいものですが…
次のターンに先送りになっちゃうかなw

≫ずっと疑問だったんですよ。既にあるってどこにあんねんて。目の前にあるってどこやねんて。スクリーンにどんな顕現でも写せるというのなら、写る前はやっぱり無いじゃないですか。それがパラレルなら説明がつくんですよ。今があらゆる世界線を含んでいるなら、目の前にあるんですよ。スクリーンは今ここで、あらゆる可能性を含んでいるんだと思います。

なるほど、不動の一者は虚空像にあたるわけですね?
やはりこれも意識ON時の創りだした夢、考えの具現化のようなものであり、夢は様々な夢を見れることが可能なように、いろんな可能性を備えているスクリーンと捉えてます。
ですから真我、感覚、引き寄せ、普通の現実、寝てる時の夢、エゴ、今この瞬間、すべてこのスクリーンなんだなと。

あれですね、
498さんと私との考えの違いは、スクリーンが絶対の大元なのかどうかですねw
ここはお釈迦さまの口伝通り絶対なものはない!と言い切りたいところですが、ご存知の通り私は時間を止める魔境の男ですからねw
まだまだ検証中の探求者なのでそんな考えもあるんだ程度で収めといてくださいw

(しかし不動の一者とはカッコいい名前。
不動明王はこれを表しているのか!?ドーン!!と以前テンション上がったことがありますw)

555:wild:2016/09/29(木) 23:20:52 ID:EXCO6GYY0

続き

≫顕現世界をやってるってなんかいいですねwオカルト気味になりますが分離を体験したくて生まれてきたのかもしれませんね。だからこの世界には自我がつきものだと。

そうですよね。
分離をしたくてしたという意思や愛も感じますし、ただそうだからこうなってるという無意思な機械的な感じもありますね。

≫ 変化に伴う刺激が大好きなんですよね、エゴは。なんでも初体験は気持ちがいいものですwでもそれは変化に伴う落差にたいする反応だから、無常なんですよねえ…。

498さんはやはり実践者さんなんですね!
是非とも迷いのない境地まで達して頂き、私に教えていただけるとありがたいですw
あ、私もがんばりますw

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