Wildさん-43/願望が叶って欲しいが達成後に不安要素があっても叶うのか

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765 : 幸せな名無しさん :2016/05/06(金) 21:32:21 I/uYaWfs0

wildさん、認識変更された方々にご質問です。

私にはある願望があります(ここではAとさせていただきます)。
もちろん叶えたいのですが、Aが叶った場合少し不安な事があります。

この不安な事がある場合、Aは本当の意味で願望ではないため、

願望=既にある、という概念の対象外になってしまうのでしょうか?


それとも、Aが叶った場合発生する不安の有無にかかわらず、Aという願望について認識できる時点で「既にある」のでしょうか?

達人さん達のおっしゃる「願望=既にある」は、

私の場合Aが叶ったら不安要素も発生してしまうため、

本当の意味で「願望」ではなく即ち「既にある」わけでもないのかと少し不安になってしまいました。


願望が既にあるのか、Aという事象を認識出来る時点でAを選びさえすればそれは既にあるのか、どちらであるのか教えていただきたく書き込みしました。

分かりにくくて申し訳ありませんがよろしくお願いします。


766 : 幸せな名無しさん :2016/05/06(金) 23:56:01 mjekx0hk0

765さんと同じかどうか分からないけど関連して


俺の願いにも2種類あって
・こうなりたい系の願い(ポジティブ系)
・こうはなりたくない系の願い(ネガティブ系)
この違いってなんだろうね

何が幸せなのかによるのかな?
悩みがない状態を幸せとするのか、喜びに満ちてる状態を幸せとするのかによるのかな?
そこで右往左往してる状態。

そこがアファをやっても続かないし、認識の変更、悟り系にも専念できない。

でも、今のままじゃ変わらないし
どうすりゃいいのか、取り敢えず寝よ

 

769 : wild :2016/05/07(土) 02:14:43 mon/WBXg0

>>765
なんだかすごく難しいご質問ですね…汗
答えになってるかどうかわかりませんが、私の体験が参考になれば幸いかと。

 

前にも書きましたが、憧れくらいの感覚で「あの地位にいけたら最高だろうな~」と思っていたら、あれよあれよという間に棚ぼた式でなってしまいました。


しかし憧れてた時期に若干の不安もあったのです。
「あの地位になったらすごいけども、超激務が嫌だな」と。

結果、超激務でしたw

超激務だけどもやりがいがあって楽しいし、やっぱモテモテだから頑張ろ!と充実した日々を送っていたのですが…

いつしか「もうちょっと仕事減らないかな」「休み多いほうがいいなー」と思うようになりました。


またここでも「この地位を手放したら収入おもいっきし減るよな」という不安がよぎってましたね。

それでも「忙しくてもまあいっか!」でがむしゃらに頑張ってたのですが、寝耳に水、急転直下の事態が起こり、本当に休みの多い生活となってしまいましたwww
収入も大幅ダウンですw

ですから「不安要素も既にある」で叶ってしまう可能性がある…が私の答えとなりますかね。

しかしですね、私が思った不安は、結果としては起きて良かったなと思えることでしたね。
超激務の中で非常に大事なことにたくさん気づかされましたし、仲間が増えました。

また暇になったら自分の興味のあることに注げる時間ができましたし、何より家族といれる時間が大幅アップしたことが嬉しいですね。

本当に救いようのない不安は実現せず、エゴにとっては不安だけども後々結果オーライな不安は実現するのかなと。
常に最善が与えられてると思います。

他の認識変更した方のご意見も聞いてみたいですねー。

 

772 : 幸せな名無しさん :2016/05/07(土) 21:25:14 hHsU.rEA0

>769ありがとうございます。

社会的な常識として、激務=高給取りもしくは激務=安月給ですが、事務的な仕事をしてる人が安月給で休みが多く、責任が重くなるにつれて給料ってあがってきますよね?

 

んで、自分の考えだと、責任が重い仕事をしてない自分は能力がないのだと考えてしまいます。
楽をしたいけど金はほしい。周りの役職者をみてると、休みが少なく激務でただ、給料がいいだけでどこがいいんだかって感じです。


今流行ってやるユーチューバーなんかは、自分の趣味から発展してる人が多くそれなのに高給取りです。休みは自由に取れますし。

その人たちに比べたらやりたくない仕事をやりそれなりに激務で安月給の自分が惨めに思います。勿論内情はわかりませんが、隣の芝は青く見えます。


773 : wild :2016/05/08(日) 01:24:52 vmnR2wVM0

確かに隣の芝は気になりますよね。
自分ちの庭はなんてしょぼいんだと嘆くばかりでどんなに頑張っても青い芝なんか生えてこない。
絶望的です。

しかしですね、視点を変えて見れば良いかと。

隣んちの芝だ。
自分ちの芝だ。

しかしそのような境界は人間が勝手に決めたものであって、本来芝は誰のものでもないですよね。
芝は芝です。
あえて言うならば、自然の所有物であります。

その自然の立場になってみれば、全てが既に在ります。
全てが自然の所有物です。

「いやいや、そういうことじゃなくて!」という考えもよくわかります。

しかしどんなに自分が芝を育てようと努力しても、青い芝を生やかすか、枯らすかは自然に決定権があります。
人間、エゴの私がどんな水をあげまくっても、太陽が出なければ芽も生えませんね。

もちろん水をあげているときに太陽が出る時もあります。
そんなときはすぐに青い芝が生えてきて「叶った!」と思うかもしれませんね。
でも雪が降っていたら何も生えません。
しかし人間の私は青い芝を生やそうという焦りでいっぱいで、雪が降っていてもお構い無しで水をあげてしまうんです。
で、「なんで叶わないんだ!」となる。


そんな人間の私も自然が作り出したものであり、私そのものが自然であるという視点。
そんな視点に立てた時、すべてが調和、愛しかなかった世界が見えてきます。
水をあげまくっていたのも、実は自然への愛ゆえだった…。

そして人間はすべて諦めて自然に委ねた時、ふと自分ちの庭を見ると、いつの間にか大きな果実がなってたりするもんなんですね~。

でわでわ(^^)

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