Wildさん-29/エゴは何もわからないくせに自分基準で勝手にここがダメだとかああなったらとか言ってるけど 今展開しているものが本当に自分にとって不都合なのか論理的に証明することも出来ない

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505:M:2016/09/14(水) 21:11:24 ID:T5Sj9LMs0

連続レスですみません

自由意志がなくすべては完璧に起きてるとしたらと考えてみた時に今展開しているものに対して不満を言っているのはエゴだという感覚もわかってきました
エゴは何もわからないくせに自分の基準(それも結局外から得た基準)で勝手にここがダメだとかああなったらとか言ってるけど
今展開しているものが本当に自分にとって不都合なのか論理的に証明することも出来ないんですよね

まだすべてが完璧だとわかったという認識にはなってないんですがなんかわかりそうな気はしてきました

≫501
またまたACIMの理論ですがそちらでは梵我一如思想をとってますね
現実=神と神の子の一体
この世界=神の子が見ている悪夢
であり悪夢を見ている私たち神の子は目覚めて神と一体になるという考えです

神の使者ではブッダは神の問題を取り扱わなかったことにより悟りはしたけどあと1度だけ輪廻転生したという話をしてましたがここに関してはまぁ僕にはよくわからないのが正直なとこですがw

506:498:2016/09/14(水) 21:35:28 ID:ZKN0053w0

≫502
ACIMはビッグバンについてそんなことを言ってるんですか!
いやはや、私たち個体としては知りようもない世界ですね・・・
ここはブッダ流に無記として扱うのがよさそうですね。

≫504
自由選択の意志ってのは、選択肢は勝手に与えられるけれども
その中で選ぶことはできるという意味ですね。

Mさんは詭弁さんから何か得られそうな気がします。

 

>桑田さんは願望も勝手に湧いてきてるんだからそれを願望などと呼んで自分から切り離すな的なことを言ってたような記憶が

そんなこと言ってたんですね。さすがだわ・・・w

 

>考えても答えは出ないんでしょうがw

考えて答えを出すものでもないでしょうw

≫505

>まだすべてが完璧だとわかったという認識にはなってないんですがなんかわかりそうな気はしてきました

いいですね!

ACIMの話は・・・ますます考えないほうがいいような気がしてきましたw

≫491≫496

無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) – 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。

行(ぎょう、巴: saṅkhāra, 梵: saṃskāra) – 志向作用。物事がそのようになる力=業

識(しき、巴: viññāṇa, 梵: vijñāna) – 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元

名色(みょうしき、nāma-rūpa) – 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前

六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) – 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意

触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) – 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。

受(じゅ、vedanā) – 感受作用。六処、触による感受。

愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) – 渇愛。

取(しゅ、upādāna) – 執着。

有(う、bhava) – 存在。生存。

生(しょう、jāti) – 生まれること。

老死(ろうし、jarā-maraṇa) – 老いと死。

十二因縁をWikiから引用してみました。
ふと気づいたんですが、
カップやキャンディーのたとえって、まさに識→名色の因縁を表してるのではないかと!
物事を分別区別することで(カップと感覚、飴と舌)、形と名前が生まれてくるという部分に相当するんじゃないでしょうか。

十二因縁の面白いところは、現実世界の感覚(触、受)に先立ってこういう分別があると説いているところですね。

507:M:2016/09/14(水) 22:21:32 ID:T5Sj9LMs0

≫506
詭弁さんは以前読んだのですがまた認識が変わってきたので見てみます
完全なる自由な意思はなくいくつかある選択肢の中から選ぶという自由はあるということですね

確かに例えばAとBどちらにしようかなという選択をするときCという選択肢だってあるはずなのに心に浮かばなかったら選択の自由はあるけど選択肢を作る自由はないってことですね

つまり願望=実現は決まってるけどどんな願望を持つかは自分では選べないということですかね
叶う願いは思いつくが叶わない願いはそもそも思いつくことが出来ないと言えるのかなぁ

ACIMのイエスもブッダと同じことを言ってると思うんですがブッダはこの世界の視点から真理を語っていてイエスはこの世界の外の視点から真理を語ってるのでブッダは思考をもって理解できるけどイエスは理解できないんじゃないかな~と思ってますw

508:M:2016/09/14(水) 23:05:05 ID:T5Sj9LMs0

またまた連続レスすみません
あまりこういうことについてアウトプットする機会がなかったので結構話したがりになってるかもしれませんw

先ほどは自由意志がないなら感情ナビとかアファとかリリースとかも意味がないということになると考えましたが詭弁さんのを見る感じ願望=実現の抵抗をなくすという選択肢として与えられているという感じでしょうかね
つまり願望=実現ということは決まっているがその間にこれらの選択肢を選ぶルートがあるという感じですかね
まぁそれすらも何もしないというのが一番の近道であると詭弁さんもおっしゃっていますがw

 

509:真昼:2016/09/14(水) 23:52:31 ID:1n1I2Fpc0

≫501
レスありがとうございます。
なんかスゴい人がたくさんいらっしゃるw

そして、僕が501さんのレスを読んで一つ分かったのは、これは僕の敵う相手ではないなとwww
それでも、501さんのレスは今の僕にとってはとてもタイムリーなお話しです。僕の今のテーマは「存在」なんです。

その上で、

≫無はそもそも実体ではなく想念の中にしか存在しないはずです。

これは仰る通りだと思いますが、同時に「形あるもの(有)」も実体などなく想念の中にしかないものだと思うんですね。そうすると、無と有は対立的な概念であると同時に、同じ概念なんだと思えます。つまりは無と有は同じことだという理解ですね。それを包含するものに敢えて名前をつけるなら「空」と呼びましょうと。

「受・想・行・識」というものも、あくまで「概念」であり、有るとも無いともいえるつまりは、それらも空です。
つまりは説明はできるけど、実体として有るわけでもありませんし、そういう「概念」としてそのように位置づけているに過ぎないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

また、

≫「最上位概念」というところも疑問符がつきます。
ブッダが排した永遠の実体(ブラフマン)に関する論争に戻っていないでしょうか?

これは逆で、梵すらも空の中に包含されるということです。
全ては「有ると言えば有る、無いと言えば無い。有るとも言い切れないし、無いとも言い切れない」ものに包含されている。でも確かに最上位概念とはそれ以上がないので、概念という表現は違うかもしれませんね。

≫あると無いを個別に分けて空即是色があてはまらないとするのも、なんか見当違いな感じを受けます。

表と裏とは対立的な概念ですが、同時に依存関係にもあります。そして、本質的には同じものです。表を向いていようと裏を向いていようと百円玉は百円玉です。
同様に、有ると無いは対立的な概念ですが、依存的でもあり、本質的には同じことです、たぶん。そこに「空」という本質を垣間見ることができると考えています。

つまりは私たちの現実とはあくまで「現実感」にすぎず、実体があるわけではない。
言い換えれば言葉と記憶と情動が織り成す幻想です。幻想ならば、執着しようとしまいと全て自由です。望むものを得るもよし、得るものを望むもよし。全てよし、です。

と、書いてみたものの、これ以上は僕の頭では無理です。ごめんなさい。
ともあれ、501さんのおかげで個人的に整理されたところもあり、501さんの深い見識に感謝です。

少し頭がぼや~っとしてきたので、寝たいと思いますw
話がまとまってないかもしれませんが悪しからずご了承下さいませ。

510:真昼:2016/09/15(木) 00:11:58 ID:CNAPQqVs0

≫506
追記ですが、十二縁起の解説とても参考になり助かりました。
ほとんどを忘れてしまっていたので、これを期にもう一度詳しく調べてみようと思います。
どうもありがとうございました。

 

 

512:498:2016/09/15(木) 00:50:47 ID:utk5pPY20

≫509
レスありがとうございます。
私はわかったふりして書いてたので、実のところよくわかってませんw
また、苫米地氏の主張を詳しく知らず勝手な解釈で批判してるので501はちょっと卑怯な言い分です。

私も真昼さんの書き込みで新たな発見があるので嬉しいです!

≫「形あるもの(有)」も実体などなく想念の中にしかないものだと思うんですね。

今の僕のレベルでは、「有るもんは有るだろう」としか思えないのでまだまだ追いついてないですねw
ただ、有ると認識する対象が無と相補的関係というのはわかってきました。
あって当たり前のものは何かわからないですもんね。(魚にとっての水)

≫つまりは説明はできるけど、実体として有るわけでもありませんし、そういう「概念」としてそのように位置づけているに過ぎないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

ここについて一つ思いつきました。
たしかに概念としてはおっしゃるとおりだと思います。
ですが受・想・行・識という言葉が指し示すものはやはり在るとしか言えないと思います。
もちろん概念としては有るとも無いとも言えます。
ですが今ここ、言葉すら追いつかない今ここでは、色・受・想・行・識とよばれる「それ」が「在る」だけではないでしょうか!
(現代アドヴァイタの受け売りですがw)

うん、やっぱり、
「有る」という言葉で指し示される「それ」がただ「在る」というほうが私はしっくりきますね。
で、認識などをする私を取っ払ってしまえば(無我)、「それ」が「在る」だけだと。

自説ばっかですいません!

≫これは逆で、梵すらも空の中に包含されるということです。

これは、空を苫米地氏(あるいは真昼さん)がどういう意味で定義しているか知らないと何も言えないですね。

≫つまりは私たちの現実とはあくまで「現実感」にすぎず、実体があるわけではない。
言い換えれば言葉と記憶と情動が織り成す幻想です。幻想ならば、執着しようとしまいと全て自由です。望むものを得るもよし、得るものを望むもよし。全てよし、です。

これは大いに賛同します。

ですからたぶん、私と真昼さんとの間で、「有る」という言葉の意味が少しずれていたのかなという感じがします。

「言葉と記憶と情動が織り成す幻想」という言い回しを読んでピンときました。
たぶん真昼さんはエゴの幻想的性質を強調してらっしゃったのかな、と。

私は自愛から入ってエゴ全許容マンなので、
エゴも今ここに現れるものとして(別の領域の一部として)捉えてるんです。

518:wild:2016/09/15(木) 03:01:45 ID:lEeKjRPY0

≫498
498さん、初めまして!
遅くなりましてすみません!

wildスレを読んでらっしゃる方がいたとはうれしい限りです。
レスありがとうございます。

しかし498さん、圧倒的な知識と知性、洞察力をお持ちのようで私もまったく敵いそうにありません…。
まるでセントバーナードに吠えるチワワの気分です。
しかしチワワはチワワなりに私見の縁起を吠えてみますw

十二縁起ですが、これは自分に起こる現象のサイクルに名前をつけたものと思っています。
私も十二縁起の連鎖をすべて認識してやろうと頑張りましたが、無理でしたw

しかしながら非常にざっくりですがわかったことは、
自分とは、衝動(苦と私は呼んでいます)を原動力として一瞬一瞬の場面を創っている存在であり、
苦は衝動、エネルギーとも言え、ひとつの場面にとどまることはできずに湧いては消えることを繰り返しながら自分という存在が展開していると認識しました。

衝動のきっかけが場面に起こると、それを解放しようと行動(思考、感情も含む)という現れが場面に起こります。

場面展開としては、
きっかけ→衝動→行動①(思考)→行動②(肉体的行動、感情)→解放
となっています。
これを細かくしていくと十二縁起になるのではと考えています。

自分を含めた世界はひとつの意識みたいなものとして私は捉えてますが、自分を内側と外側に分けて考えてみますと、

例えば、
外が何かを出現させる。
内が気づく(出現と気づきは同時)
内に「ん?なんだろう?見よう!」という衝動が微かに起こる。
「見る」という行動が起こる。
外が鳥をはっきり現象化させる。
「あ、鳥か」と納得し衝動が解放される。

この一連の場面展開がひとつの意識、存在内で展開しますが、それが先に書いた「鏡」という比喩です。
細かく見れるようになると、鏡に十二縁起の場面場面がババババッ!と連鎖して現れていると考えます。
また、衝動が完全に解放されないといずれまたきっかけとして外に起こると考えてます。

このように自分で衝動を起こし、解放しようと鏡の場面を連鎖させ展開させることが有としての私の目的というか存在の働きなのかと思いますね。
衝動が消えてしまうと、あとは存在の消滅に向かうだけなんじゃないかなと思ってます。

連鎖をきっかけや衝動、行動などで表現していますが、これを一番シンプルに表現すると「感」になります。
実は有るのは「感」だけだった!というのが最近気づいたところです。
この呼び方さえも思考という感が他の感に名付けたものなので正確ではありません。
なんとも言えない「それ」ですよね。

長くなりましたが、これが有としての私の側面であり、感が起こるベース?と言いますか、そのようなものを現している場所と言いますか、それが無としての私の側面なんだなと感じています。
ハーディングの頭のない実験で言うと、
需要能力の外側の「何も無いところ」です。
「何も無いところに有る世界が浮かんでる…」
というのが私の正直な感覚ですね。

と、ここまで書いて私の知性のない文章にガックシですw
非常にわかりにくい文章で申し訳ないですのですが、今はこのような感じで自分というものを捉えております。

完全な自説披露ですみません。
498さんのレスで「仏典買わないとついてけないぞこれは…」と思った次第ですw
勉強になります!
ありがとうございますm(__)m

 

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