335:現象:2016/06/21(火) 05:19:29 ID:9EYi7vdU0
≫332
真昼さん
「全体が私」というよりは全体に溶け込んでいる、私という感覚すら極めて希薄な印象です。
ご存知かもしれませんが、知らんさんの下記メソッド
ttp://siran.gjpw.net/Entry/74/
これについてどう思われるでしょうか? 私は本質を突いていると思うのですが。
本の紹介ありがとうございます。是非読ませていただきます。
真昼さんは頭で現象学を理解されているのではなく、
現象学を生きていらっしゃる、現象学が言っている事を体感されている、ので、
「この程度の事を書いて大哲学者だと? フッサール」
みたいな事になるのかも、と思ったりw
あまり構えず、思われた事、感じられた事を、テキトーにどしどし書き込んでいただければ、
ピコン!とくる人も居るのではないかと思います。
337:真昼:2016/06/21(火) 13:03:09 ID:IF8jih0Q0
≫335
現象さんレスありがとうございます。
「ミラーマンメソッド」ですね?
これは僕も思い出した時にやっています。自由意思がないということをダイレクトに実感できますね。
関係ないかもですが、僕はこれをやっているとき必ず思い出すことがあります。
中学のころ、友人が「太陽を挟んで180度向こう側にもうひとつの地球があって、鏡の世界で繋がっている」というトンデモ話。
鏡を見たときに見えるのは向こうの地球にいる自分。もしかするとそっちが自分の本体でこっちが鏡の世界。向こうが主でこっちが従。
ミラーマンメソッドをやってるとその友人の話もあながち…なんて気にもなってきますw
また、昨夜の「創造、認識、存在」についての現時点での私見です。
私たちが創造しているのは記憶だと考えます。もっと言えば私たちは「創造してる」のではなく「思い出している」ということです。
朝目を覚ませば、「ここはどこか?自分は誰か?」を思い出している。
人に会えば、「この人は家族であり、昨夜ケンカして少し気まずい」と思い出す。
あるいはその記憶がその人を自分の視界に映し出しているとも言えそうです。
自分のカップも、車も車の運転の仕方も、天気も、出会う人も全ては記憶を再生しているのではないかと思うようになってきました。
そして、記憶の創造と再生がこの瞬間に同時に行われているのでないか?
そして真の創造性とはその記憶の外側にあると思っています。
「思っても見なかった方法で解決した」とか「なんだかよくわからないけど上手くいった」といった表現にみられるように、記憶にはないものが入って来る瞬間にこそ創造があるのではないかと。
あれ?また自分で何を言ってるのか解らなくなってきましたwすみません。
あとこれも関係ないですが、ハイデガーといえば歎異抄ですね。
ハイデガーをも唸らせた親鸞の思想。他力本願、絶対他力、悪人正機。どう繋がるのか興味があって「存在と時間」を読んで撃沈した記憶がありますw
338:wild:2016/06/21(火) 20:46:08 ID:WXiyO8xc0
≫329
真昼さん。
遅くなりました(^^;
≫ 以前誰か宛のレスで空(くう)と色(しき)のバランスについて書いてらっしゃいましたよね?これは非常に重要な考え方だと思います。
これは単純にWild視点に振りすぎもいけませんという意味でした。
空に入り浸りでご飯を食べなければやはり死んでしまいます。
達磨さんもそれで手足を失ったのかなと思いますw
空も大切ですが、色という現実世界も私なんですから大切にしましょうよという意味ですね。
しかし真昼さんの①②の考察は鋭いなと感じました。
やはりアプローチの仕方の違いかもしれませんね。
①は開放型、②は集中型。
どちらも自我が薄くなる点では同じです。
しかし何というか、質感がやはり違いますよね。
なんとなくアドヴァイダ系と禅系のアプローチの違いでもあるような気がします。
この「全ては外側」と「全ては内側」の融合点が「全てはWild。そしてWildこそ自分」という事なんでしょうか?
ここ、ハッとさせられました!
以前見た覚者らしき人の言葉にもありましたね。
没頭と観察の中間視点。
そこが鏡が鏡自身を見る所だと…。
私も没頭にもっと主力を置いてみようかな。
アレです…知らんさん開発の18禁メソwww
私の場合は外側を見てる観察者も外側であると気づいた時に「すべてがWild」となりました。
ですから没頭と観察の中間視点なのかどうかはっきりしないところなんです(^^;
headless(頭がない)=没頭している状態なんだと思い立ち、単に目の前に没頭してればいいんだと思ったんです。
これは私も気付きませんでしたねー。
確かにそうですよね!
そう考えるとハーディングの実験は開放型、集中型の両方に対応しているとも言えますね。
というか、ハーディングの実験はバチン!とはまると両方兼ね備えた状態になっているのでは?とも思います。
ここは再度実験してみようかと。
かなり参考になりました。
ありがとうございます!
341:真昼:2016/06/21(火) 23:11:25 ID:En8J2OqY0
≫338
wildさんレスありがとうございます。お疲れ様です。
≫しかし何というか、質感がやはり違いますよね。
なんとなくアドヴァイダ系と禅系のアプローチの違いでもあるような気がします。
僕には、このアドヴァイタというのが曲者というか、よくわからないんですよね。
観察者視点すらあまり実感としてドカンと来てないのに、さらにその先の話をされても…みたいな感じになってしまいます。
その反面、禅系というのは僕もそう思って②を書きました。まさしく禅的なアプローチです。道元禅師の言う「修証一等」。悟りと修行は一体不可分である。修行とは喫茶喫飯行住座臥、生活の全て。その修行のなかに悟りを見るという姿勢。僕は好きですね~。
18禁メソッドですかw僕の個人的なポイントは「我に返らない。賢者モードにならない」ということでしょうかね。これはこの辺にしときますw
僕の場合、ハーディング実験で集中できると没頭(headless)状態になります。
このとき、観察者はいません。純粋な行為者、もっと極端に表現すればスクリーンに入り込んで、スクリーンそのものを体感したこともありました。
目で目を見てるような感じ、正確には目に写っている映像が目そのもの。映像=目。
目で目を見て、映像が映像見てる。あー上手く表現できません。
要は映像しかないわけです。wildさん風に言うなれば、色が色を見る。音が音を聞くといった感じでしょうか。
現象さんの話も絡めて続けたいと思います。
342:真昼:2016/06/22(水) 00:17:05 ID:BB4U6akg0
現象さんの≫324のレスは耳慣れない単語に面食らってしまって即座に理解できませんでしたが、ゆっくり読み返して見ると、以前僕が「分かったかも」と言っていた内容が整理できてきました。
≫私たちはまず「存在してしまっている」。その上で、存在とは何か、という問い・思考が生まれる。
あるいは、「世界の開け」というこの「場」が私たちに「到来した後」に問いも思考もある。
僕が「全ては終り続けている。後は全て事後の遊び」と書いた内容はまさにこれです。
あらゆる問いや、疑問、後悔、不安などは、全て終わった事後の世界から見た印象にすぎず、「既に存在してしまっている」ものとは関係がない。その印象の中での遊びである。故に、
≫人間側から存在を問うというのは、問いの方向が逆ではないか、ということです。
また、「言葉が消えた世界とはどういう世界だろう?」というこを考えてみます。まず言葉とは単独で存在できません。言葉は「それ」と「それ以外」を分けるもの、と考えれば分かりやすいと思います。例えば「自分」という言葉を立てれば、同時に「自分以外」も立ちます。「猫」という言葉には「猫以外」という言葉(概念)が必然的に生まれます。
つまりはこの世から言葉が消えたら、あらゆるものが渾然一体となった世界を見ることができるはず。
既にある世界が、既にある……
ウ~ン。なんかあと少しの感じがするんだけどなー。
僕でもハイデッガー読めるかも!などと浮かれて、本棚を探したのですが見当たりませんでした。ブックオフに行っちゃったのかもしれませんwそしてさっきネットでハイデッガーの解説を読んでもよく分かりませんでした。単に現象さんの解説が分かりやすかっただけだったようです。
ともあれ、なんか色々理解が深まってきて皆さんには感謝です。ありがとうございます。
勢いで書いたので文法めちゃくちゃで読みにくかったらすみません。
343:現象:2016/06/22(水) 04:57:11 ID:xmL/KzMI0
≫337
真昼さん
こちらこそレスありがとうございます。
>私たちが創造しているのは記憶だと考えます。
>もっと言えば私たちは「創造してる」のではなく「思い出している」ということです。
>記憶の創造と再生がこの瞬間に同時に行われているのでないか?
上記のことは、たとえばこんな風に言い換えることも可能ですか?
我々が「物(例えばサイコロ)」として認識しているのは、
変化・流動しつづける現象の中に現れてくる「規則的な構造」のことである。
サイコロが目の前にあります。
(1)真正面から「1」の面を見ている時、他の側面は見えません。正方形の面と、赤い点がひとつ見えるだけです。
(2)少し視点を右にずらすと、見えなかった「2」の面が見えてきます。
(3)つづいて視点を少し上に移動すると、「4」の面も見えてくる。この時点で「1」「2」「4」の3面が見えています。
(4)ぐるっと裏側へ回って見ると、見えていた「1」「2」の面が見えなくなり、替って「5」「6」の面が見える。
(5)再び(3)の視点に戻ると(3)の状態が再現される。
(1)~(5)まで、現象は次々と変化しました。
各々の場面で、与えられている現象はまったく異なります。
でも、この(1)~(5)を何度繰り返しても、常に同じ現象の展開が起こる、
規則性がある、つまり安定した「現れの構造」がある。
この安定した「現れの構造」によって、我々は「立方体のサイコロ」という物を認識する。
認識するというか、「解釈する」という方が正確かもしれません。
「6面すべてを一度に見ることは出来ない」のに、立方体のサイコロ、として認識(解釈)しています。
我々が普段、「気付くことなく」意識を向けているのは、
各々の側面(様相)ではなく、流動する経験の中で、
その経験のプロセスが示す安定した規則性=構造のことである。
連続的な現象の変化の中から構造が認知され、それが「物」として認識(解釈)される。
こうした認識の仕組みは、あまりにも当たり前(自明的)なことなので意識されません。
我々の意識は「この物は何だろうか」を主題としており、
上記の事柄は「非主題的」なバックボーンになるため意識に上がらないんですね。
とまあ長々と書いてしまいましたが、どう思われますか?
こんな時間になってしまったので、他の事柄についてのレスはまた今日明日にでも。
345:現象:2016/06/23(木) 05:41:15 ID:pihWJbDc0
真昼さん
343をいま読み返すと、一体何をお尋ねしたいのか分かりにくいですね。
サイコロの例で書いた(1)~(5)のような現象の移り変わりから「現れの構造」が認識されて、
それが立方体という「概念」を形成する。
同じような「現れの構造」を認識した時に、立方体という概念が記憶から呼び出されて、それを当てはめ、これも立方体だと認識する。
これが真昼さんのおっしゃっている記憶の創造と再生なのでしょうか?というお尋ねでした。
>この世から言葉が消えたら、あらゆるものが渾然一体となった世界を見ることができるはず。
「言葉=概念=レッテル=パターン認識」が無くなればそうなると思います。
言葉って世界に亀裂を入れるものですから、亀裂が無くなれば、すべてはひとつになりますね。
この場合、それが「何であるか」が言えず、「これ」とか「このこれ」とか言うしかなくなります。
もっと言うなら、「このこれ」と言う者も居ないでしょうから、無(横溢した無?)なのかも。
343のサイコロの例は「現象学という思考」(田口茂)からのパクリですw
この本、現象学の入門書なのですが、予備知識も不要でヒジョーに分かりやすいです。
斎藤慶典氏の著書よりも、この本の方がいま真昼さんが感じていらっしゃることを整理するのに役立つと思います。
>ハイデガーといえば歎異抄ですね。
歎異抄など仏教哲学は西欧哲学より深そうですが全く知らないんです。
ハイデガーは道元の「正法眼蔵」を読んでいたとかいなかったとか、
時間論がよく似ているとかは何かで読んだ記憶がありますが。
>ネットでハイデッガーの解説を読んでもよく分かりませんでした。
入門書などで専門用語・造語の意味を理解すれば読めます。
外国語と同じです。まず単語。基本はこれです。
私もハイデガーやフッサールのほんの一部分を齧ってるだけで、分からないことだらけです。