Wildさん-56/私とは「ひとつの意識」であるという認識が強まるにつれ、この世界は本当に自由であり、意識を向ける、信じることがそのまま現れているな~と考えるようになりました。

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631:wild:2016/11/02(水) 19:11:03 ID:KVeyL.w20

≫630

こんにちは!

≫wildさん、探求を続けることで、一見願望が実現してないように見える時でも、自我を超えた神の意志というか自然な流れが粛々と現実化されています。そして、それ以外のことは起こらないのに、自我は何とかして神の意志と反する自我の意志を現象化しようともがいています。メソッドや、考えられる努力で何とかしようともがくけど、起きるべきことが起きるだけです。正解のあみだを選べば正解にたどり着き、不正解のあみだを選べば正解にはたどり着けません。

以前こちらのスレで私は、
「神が完璧なら、神の創ったエゴの思うこと、やることなすことすべて完璧であります。
なのでエゴの行為に間違いはなく、すべて正解であり達成に向かってますよ。
だからどんなことが起きても完璧です。安心して下さいね。」
とお伝えしてました。
完璧認定ですね。

エゴの強い人、認識の変更がよくわからない人などにはこれが一番簡単ですし、私も実際に後になって「あの時の出来事はこれに繋がってたんだ!」という経験をして確信を深めました。
とにかく神を信じるが楽です。

しかし最近感じているのは、「 神が完璧なら、神の創ったエゴの思うこと、やることなすことすべて完璧であります。」という叶う世界を自分で創ってたのかしら?
ということです。

私とは「ひとつの意識」であるという認識が強まるにつれ、この世界は本当に自由であり、意識を向ける、信じることがそのまま現れているな~と考えるようになりました。
しかしその反面、そのような考えになるように神から仕向けられたのかな~とも思いますw
ここはいつまでも答えがないように感じますねw
意識視点、エゴ視点の立ち位置の違いかなとも思いますが。

・全部神の意思だから間違いはなく安心。
・間違いはないを信じているからそのような世界になる。だから安心。

いずれにしても安心、楽に過ごすことでしょうね。
今今でも良いですし、自愛でも良いと思います。
楽になろうなろうと必死になって苦しかったら、「苦しくても完璧」か、「楽になろうストーリー」にいたことに気づくことですね。

632:幸せな名無しさん:2016/11/02(水) 23:51:30 ID:8BGOsohE0

≫631

 

wildさんのおっしゃる意識を向けたもの、信じたものがそのまま表れるのも、
そこに意識を向けたことも、それを信じられたことも神の意志だと私は学習していたんですが、wildさんのように実際に悟ってみると判然としないものだったんですね。

 

私のように体感を得ないままあまり追求すると、頭でっかちになりそうなので、追求は止めます。

≫なのでエゴの行為に間違いはなく、すべて正解であり達成に向かってますよ。

ここは神の作った達成に向かっているわけですから、エゴが強いとエゴの願望を実現したい、実現したい、まだかー・まだかー、と苦しみます。私は苦しんでますww

>「苦しくても完璧」か、「楽になろうストーリー」にいたことに気づくことですね。

今今は昔やっていた時大変で大変で1日でやめてしまったので自愛をしようと思いますが、自愛で気づけるものですか?

633:wild:2016/11/03(木) 01:31:53 ID:oDLhoHss0

≫632

全然わからないことだらけですよ。
でも悟りってある意味、「わからない」を認めることでもあると思うんですねw

意識を向けたところが現れる。
これは簡単にわかります。たぶん。

目の前にリンゴを見つけた!=リンゴを創った!
ですw
はあ?となると思いますが単純にそうなんです。

私たちは普段、意識がスポットライトのごとくあちらこちらと向いてるかと思いますが、スポットライトを当てたところが現象として現れています。
逆に言うと、スポットライトを当ててないところは存在してないはずです。
リンゴを見つけた瞬間は「私」も存在していません。
「私」にスポットライトを向けるから、「私」が現れるのです。

ここでさっきの疑問なのですが、
スポットライトを自分で向けるから現れるのか?
世界から向けさせられているのか?
ここはよ~く観察しても「どちらとも言える」としか言いようがないのです。
これ以上考えるとドツボに嵌まるのでこの辺でw

≫今今は昔やっていた時大変で大変で1日でやめてしまったので自愛をしようと思いますが、自愛で気づけるものですか?

今今メソをやりつつ生活するのは難しいですよね。
自愛、完璧認定をしつこくやり続ければ不足がなくなります。
苦しい場合は良いと思いますね。

私としてはやはり、ハーディングの実験をおすすめします。
自愛、自己観察、今今…
すべてを含んでますし、なにより「私とは意識である」が運が良ければ一発でわかる。
またその後も様々な気づきが降りてきますよ。

もうすでにやられてますかね?
もしやられてなければ、ぜひぜひ(^^)
ttp://www.headless.org/japanese/experiments_japanese%E5%AE%9F%E9%A8%93.htm

634:幸せな名無しさん:2016/11/03(木) 11:19:13 ID:HTCqG1FQ0

≫633

分からないを認めることが悟りとは理解できませんが、
スポットライトを当てたところに現象が現れるは半分分かります。

意識が私であるとはまだなってませんので
私はまだスポットライトを当てたところが見えるだけです。

>ここでさっきの疑問なのですが、
スポットライトを自分で向けるから現れるのか?
世界から向けさせられているのか?

ここはよ~く観察しても「どちらとも言える」としか言いようがないのです。
これ以上考えるとドツボに嵌まるのでこの辺でw

はい、そういうものだで終わりにしておきます。

ハーディングは、名前だけは何度も潜在意識掲示板で見てきましたが
実践はしてませんのでやってみます。
一発で分かったらラッキーです。

635:wild:2016/11/03(木) 18:32:20 ID:8MODp9b20

≫634

いえいえ、少し時間があったのでズラズラと書いてしまいました(^^;

書き忘れましたが、今が苦しいのなら苦しみから逃げようと考えるのではなく、今ここで受け入れて認めてみて下さい。

創ってしまった不足を否定して、充足を求めること自体が不足を際立たせることになります。
「充足を求める不足ストーリー」が始まってしまいます。

これは願望も同じであり、
今は「願望達成を求める不足ストーリー」を創り続けています。
ですからその不足もOK、完璧であるとしつこく認め受け入れ続けてみて下さい。
それが不足ストーリーを終わらします。

「完璧、自愛をやること自体が不足ストーリーになるのでは?」と疑問も湧くと思いますが、それも認める。
しかしある段階で気づきます。
「トゲを抜くのにトゲを使った」んだなと。

ついでにハーディングもw
ストーリーを客観視できるようになりますよ。

636:幸せな名無しさん:2016/11/03(木) 22:12:46 ID:HTCqG1FQ0

≫635
受け取らないと再配達が来るとよく言われる奴でしょうか?
分かりました。今日も母とグチグチお茶を飲みながら日ごろつもりに積もった
家族の悪口を言って発散しました。

こういうとすごく性格の悪い人間に思われそうで怖いですww
現実、感じたこと、思ったことすべて受け止めてみます。

こんなこと考えちゃダメとか、いやあの人の立場になればこんな風には言えないとか
考えず受け止めてみます。
ハーディングは時間がなくてできてませんが、折を見て取り組んでみます。
wildさん、お付き合いくださりありがとうございました。

 


637:真昼:2016/11/06(日) 17:21:23 ID:/s5vG9ok0

wildさん、皆さんお久しぶりです。お元気ですか。
最近は、ほとんど頭を使わなくなって、もはや禅僧と化しております。
そのままの自分でグングン進むことだけになっております。
動いているのに止まろうとするから重くなる。
全ては静寂の中を通りすぎて行くものです。
そのままがそのまま、そこにある。

なんか全然中身のあること書けませんwすいません。
とりあえず、生きていますw
寒くなって来ましたので、どうぞご自愛ください。

638:wild:2016/11/07(月) 13:09:51 ID:J9YhpqeE0

≫637
真昼さん。
お久しぶりです!(^^)
生きておられましたか!w

禅僧!
頭を使わずに生活する…。
この言葉だけ見ると少し心配になりますがw
NO FOCUSで思考や起きることに焦点を当てない、それを掴まない、ということですね。

最近めっきり寒くなって私も外出時の服装を失敗しがちですw
真昼さんもお身体気を付けて下さいね!
また何か気づきありましたら書き込みお願いします(^^)

639:M:2016/11/20(日) 16:01:01 ID:qMmX3YlI0

ちょっと気づきがあったので独り言のようなものですが書きます

神は自分でも持ち上げられない岩を作ることが出来るか
という全能者のパラドックスというものがありますよね

これは言い方を変えれば全能である者は全能でなくなることが出来るかと言い換えることが出来るわけですけどこれはそもそも前提が崩されるのでおかしい訳ですね

では全能である者は全能でなくなることが出来るかに関しては定義的に不可能であるはずです

そこで仮に全能なるものが全能ではないという状態をどこまで出来ることが可能かを考えると

全能であるものは全能でなくなることは出来ないが全能でないと思うことが出来る
さらに突き詰めると全能であることを忘れてしまうことが限界です

ですがもし本当に完全に忘れてしまっては全能であるという状態に戻ることが出来なくなるわけで実質全能である者とは言えない状態になってしまいます

なので全能であるという記憶を忘れてしまっているが思い出し元に戻ることが可能であるという余地が残っている状態

これが全能者ができる最大限のところなんですね

だからこそ神や完璧を思い出すということそちらに意識を向けることが重要なんですね

ACIMでは聖霊を父と子の絆であり天国の記憶という表現をしているのですがそういうことかと昨日突然腑に落ちました

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