13 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/16(木) 18:02:59 ID:qRN.gaQ20
自己観察さんが言う不足が幻を深く体感したい
最近は無になる時間が増えてきました。
ここにいる時間が増えれば自然と全てある、や不足は幻が腑に落ちる時がきますかね?
15 :幸せな名無しさん:2014/01/16(木) 19:11:04 ID:N0KJ6B/k0
≫13
「腑に落ちる」必要さえなかったんだ!と腑に落ちるかもしれません。
言葉遊びみたいですけど、「求めてるもの」が本当はいらなかったんだ、ということなんですね。
だから何かを求めてる思考に気づいたら、「それはどうでもいいものだ」と思考を掴まずに、
無とか心地よさのほうに意識を向けるといいと思います。
≫11さんは、それ↑が出来てないんですよ。
17 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/17(金) 00:25:56 ID:BURbsZZQ0
自己観察さん、こんばんは。
前スレ≫995は自分も疑問。
995 :542:2014/01/16(木) 01:25:50 ID:aDGpLr.o0
>叶えるためという不足を前提としたアプローチをやめる
何かを欲求すること自体が、それを意図と呼ぼうが願望と呼ぼうが、
今ここにないもの、または今と違う状況を欲していることを、暗示していると思うのですよ。
不足を前提とするのと、そうでないのとはどう違うのか、ちょっとわかりにくいですね。
不足とは、私はもっていないということかな?
そうでないアプローチとは、今ここにはないけど隣の部屋にはあるから取りに行こうって感じかな?
例えとして、自分は車を持っていてすぐにでも運転できることを知っていますが、
運転(体感)しようと願った場合(当然運転できることは知っているので、不足感からではない)
あることを知っているだけでは、運転(体感)はできないです。駐車場に行かないと。
そうなると、全てあることを知ってる+それを見るための意図なりアプローチの
方向付けかなんかがあるのでは、と思ってしまいました。
そんなことしなくても、あるを前提として安心感、無を感じてると、
その辺も自動的に汲み取ってくれて「勝手に起きる」という感じになるのでしょうか?
・・・まあ、理論だと「分かろうとしないこと」となるかと思います。
ただ上記を踏まえた上で、実践の方向性としてはやはり、「意図はあってもなくてもよくて、
思考には気づきつつ、安心感、無を感じる」のみでよいのか、改めて確認させてください。
くどくてあれですが、思考すること自体は悪ではないと思うので、
自己観察さん、ちょっとだけお付き合い下さい。
28 :幸せな名無しさん:2014/01/17(金) 03:42:53 ID:n4.vI9k20
≫17
世界が勝手に動くといっても、駐車場から車が勝手に来るわけはないので、
当然「私」が駐車場に行くわけです。ただ「私という個体性が歩いていく」のではなく、
「駐車場に行くということが起こっている」という感覚です。
自分とは個体性ではなく、世界全体としてそれを見ている意識のほうですから。
行為者はいません。存在するのはその映像を見ている意識だけです。
行為者がいないんですから、「叶える人」もいないし「叶えるという概念」もないんです。
それを見る、ただそこに目(意識)を向けるだけです。
意図という言葉さえ強すぎるかもしれません。
それくらい微細な感覚なので、それは自分が思考に影響されていない状態でないと気づけません。
純粋でニュートラルな意識が目覚めた状態です。
無とか静寂とか広がりとか(人によって様々ですが)そういった属性です。
全てがが統一された一つであるものなので、そこにあるとかないとかの二元性はありません。
不足を感じることはありえません。
≫実践の方向性としてはやはり、「意図はあってもなくてもよくて、思考には気づきつつ、
≫安心感、無を感じる」のみでよいのか、改めて確認させてください。
この意図は何に対する意図でしょうか?
思考に気づくのは、あくまで無用な思考に巻き込まれてることに気づくということなので、
思考に注目するのではなく、思考に気づいてる自分のほうに気づくということです。
安心感、無に関しては、「安心感」に拘らずに大体そんな感じでというか。
それは無限性そのものなので、その感覚の種類?も無限にあります。
「安心感」はただの言葉にすぎず、無限性をあらわせるものではありませんから。
自分がこれでいいと思えばそれでいいんですね。
18 名前:前スレ542改め3 投稿日:2014/01/17(金) 00:58:16 ID:FTqZKIjI0
自己観察さん、≫15 での
>だから何かを求めてる思考に気づいたら、「それはどうでもいいものだ」と思考を掴まずに、
>無とか心地よさのほうに意識を向けるといいと思います。
ここの部分ですが、私は、思考に気づくことはできても、あなたが上記レスでいわれる
「無とか心地よさ」には気づくことができません。
それゆえ、無とか心地よさのほうに意識を向けることはできません。
無とか心地よさとは、どういうところ(?)あるいはどういう方向(?)またはどこ(?)にあるのでしょうか?
無とか心地よさに気づくためにはどうすればいいのでしょうか?
既出の質問かと思われますが、この質問の文脈で改めて教えていただけましたら助かります。
29 :幸せな名無しさん:2014/01/17(金) 03:43:32 ID:n4.vI9k20
≫18
前スレ930さんは私ではありませんが、とても参考になるレスだと思います。
930 :幸せな名無しさん:2014/01/14(火) 01:12:46 ID:cpYvPdBQ0
「気づく」って、その「納得したい」という思いを握りしめている自分に気がつくことだと思います。
頭で、ああ、握りしめてるなあ、と分析することではなくて、
もっとハッと握っている自分に気づく感じというか。
ものは試しに、「あ、私納得したいんだ」って声にして言ってみてください。
そして、自分の中に起きる反応を(分析するのではなく)見てみてください。
「誰々さんのレスなら信頼できる」とかの思考を採用することによって
「誰々さんは信頼できる素晴らしい人だけど、私はそれが出来ない凡人である」という世界を投影してます。
≫無とか心地よさとは、どういうところ(?)あるいはどういう方向(?)またはどこ(?)にあるのでしょうか?
≫無とか心地よさに気づくためにはどうすればいいのでしょうか?
無とか心地よさは、それらを求める、探している思考の領域の外にあります。
或いは、それをわかろうとすることを諦めたときにあります。
それに気づくためには、「気づくためにどうすればいいのか」という思考に囚われない自分でいることです。
「どうすればいいか」は「どうすればいいかを考えなければいい」としかいえない性質のものです。
パラドックスですね。
なぜなら、絶対性、全てが一つ、一以外ないという領域の話ですから、
「ただそうあるだけ」以外ないんです。
「○○だから△△になる」とかの関連性が成立しないし、
出来てない状態から出来る状態に変化することも出来ない。
あと文章が回りくどくてわかりにくいといった意味ではなく、質問自体が筋違いという意味です。
「何かを理解することが実践上で重要だ」ということ自体が間違いです。
たしかにマインドでの理解が、実践する上で役に立つ場合はあります。
それは「ただ気づくだけ」というマインドにとって退屈で落ち着かないところで
「ほんとにこれでいいの?」と不安や迷いが生じたときに、
そこで安心していていいんだということがわかってると無用な葛藤しなくてすむからです。
ですがあなたの場合は「ただ気づくだけ」という静寂や無に留まるためではなく、
そこから逃れるために必死で思考を掴むんです。
マインドからすれば自分の主導権を静寂に取って代わられるとたまらないからそうするしかないんです。
そうやって何度も何度も「これを理解することが重要だ」といい続けてるんですよ。
それは「気づき」や「無」「静寂」を必死に打ち消してるだけです。
質問をして何かをわかったような気になって、マインドにどんどん餌をやって太らせてるんですよ。
マインドが太れば静寂から逃れることが出来るから。
それがマインドが、自分が生き残る方法だと考えてるから。
そのマインドの主張をすっかり鵜呑みにして質問を繰り返してるだけです。
そこから繰り出される質問ですから、当然「実践上の重要な質問」なんかじゃありません。
そして私だけじゃなく他のたくさんの方々が的確なレスを下さってますが、肝心なところは届かないようです。
一応信頼してくださってるようなのですがw他の方と大して違うことは書いてません。
これもどこまで通じるかわかりませんが、そういうことです。
つまりあなたが重要だと思ってることは、どーでもいいことだということです。
あと≫23≫24さんの仰るとおりです。
23 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/17(金) 02:36:18 ID:UtmvtrAA0
『願いを叶える為』にやっても意味無いって言ってなかったっけ≫自己観察さん
つまり「自分が」望む現実を生きたい!という場合はこの方法では狙えないんじゃ。
単に観察して絶対的安心で在るだけ、という趣味というか。
だから現実がどうなろうとも知りませんって感じだと思うよ極論。
その後の意図を「自分から」発するとなると自己観察の区分じゃないだろうし、
何処まで行っても私(自分)はいないってことになってるから、願いなんて持てないじゃん?
だから3さんには現段階では合わない気がするよ。
24 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/17(金) 03:10:28 ID:TqoJA64g0
≫3さん
自分の思考をたんたんと見ることができてるなら、エゴとも同化せず心地よく過ごせてそうなのに。
そんなに理解しようているのは誰なのでしょうか?
それについての返信を見る限り(というか今までのレスでもわかってたけど)
自己観察というものを誤解しています。
31 名前:3 投稿日:2014/01/17(金) 04:19:49 ID:FTqZKIjI0
≫29
自己観察さん、どうもありがとうございます。
ところでこれは蛇足ですが、どうやら私は、自己観察さんと
会話レベルで上手くコミュニケーションが取れていないみたいです。
今回いただいたレスには、正直私の質問の意図が届いていないなと思われる個所や、
それは違うのではなかろうかと思う個所もありとても残念に思います。
しかし、ここまでの流れからして、それをこれ以上細かく聞くのもいかがなものかと思われますし、
会話レベルでのコミュニケーション不在は私の傲慢のなせる業かもしれません。
しばらく再度あなたのレスをよみ、要点をつかみたいと思います。
もちろん掴めないということは教えていただいております。言葉であえて表現すればということです。
色々と教えていただき誠にありがとうございました。
104 :幸せな名無しさん:2014/01/19(日) 19:41:19 ID:Mw3V5ZdQ0
≫31
いえいえ、別に傲慢だとは思ってませんよ。
自分が認識している範囲を超えたことは、なかなか簡単には受け取れないものです。
気づきにしろ願望の実現にしろ、探し物は「今ここ」にしかありません。
「見つけるためには、何かをしたらいい」と考え始めると「今ここ」にはいられません。
このパラドックスから抜け出すために、私は「何もしない」ことを提案してますが、
何かをせずにいられない人は、他の方法と併用するとかもいいと思いますよ。
あと私の文章を読んでわかったといってくださる方は、
もともとわかってたけど、整理できていなかったことが整理できたという意味に近いんじゃないかと思います。
で、私が書いてることも、わかりにくい部分は誰かがわかりやすく解説してくださってます。
その一つの流れの中に、気づきはどこにでもあります。
すばらしいものがあるとしたら、(あなたも含めて)流れ全体がすばらしいものであって、
私の書いてることがすばらしいものではないんだと思います。