362:真昼:2016/07/08(金) 17:40:47 ID:1FEdEAlI0
ご無沙汰致しました。
しばらく、実験的にいろいろなことを試していました。
wildさんがおっしゃるように、自己観察のように気付いていくことは外せませんね。
やみくもに没頭し続けることも、それはそれでOKだとは思いますが、せっかく生きてるわけですから、本当の自分を見つけられたらそれは素晴らしいことですね。
実は僕はここ最近、「言葉忘却メソッド」をやっていて(やっていて、というか僕が作ったんですけどねw)、何となく分かったことがあります。
例えば、この世界から言葉を使う生命、つまり人間が忽然と姿を消したとしたらそこはどういう世界だろうか?
個と個が独立していず、全てが渾然一体となった世界。まさしくWild(野性)。
本来は私達が今生きている世界だって同じものなはずです。
ところがなぜ、そこに「私という苦しみ」が生まれるのでしょうか?
現時点での私見ですが、私達は言葉に縛られているだけなのではないか?
本来私たちが使う「道具」であるはずの言葉に、逆に縛られている。
言語による束縛から自由になることが、私たちの本来性に気付く鍵なのではないか。
野性こそ、悠久のときを生き抜いてきた遺伝子の力に直結したものなのではないか。
なぜなら野性とは獲得するものではなく、もともと備わっているものだから。
言葉忘却メソッド(一種の思考停止法ですね)をやっていると、上手くはまった時には活力が湧いてくるのを体感できます。
もちろん人と話しているときや、理解しなくちゃいけないときには言葉を使います。弊害として文章力が落ちたりするので、ほとほどにしといた方がいいかもですが。現にこのレスも四苦八苦しながら書いてますw文法とか滅茶苦茶かもしれないので、読みにくかったらすいません。
また逆に徹底的に言葉を使うのも大切だとも思っていまして、哲学等はその訓練に最適です。今はメルロ=ポンティとかが面白いです。
野性、理性、知性。人間にもともと備わっているものと後から獲得するもの、偶発的に得られるもの。(言葉の定義が少し分かりにくいですが)
これらの性質の高まりが人生をより豊かなものにする…のかな?
まとまりのない文章ですが、近頃はこのように思っています。
368:wild:2016/07/12(火) 16:18:05 ID:iXACYAFE0
≫365
真昼さん。
いつもお気遣い頂きありがとうございます(^^)
またレスが大変遅くなってしまい申し訳ございません(^^;
今この苦しみは、なるべくしてなった流れとしか言いようがないなと感じています。
今までのフワフワした性格から、急にヒリヒリとした剃刀のような私となってしまいました…汗
いろんな自分がいて面白いものです(^^;
いつまで続くかわかりませんが、これもWildの導きと信じておりますし、ここを抜けたらまた新たな気づきがあるのかなと少し楽しみでもあります!
≫ 現時点での私見ですが、私達は言葉に縛られているだけなのではないか?本来私たちが使う「道具」であるはずの言葉に、逆に縛られている。言語による束縛から自由になることが、私たちの本来性に気付く鍵なのではないか。
私ヲタ?の私も正にそのように考えてます。
全体から、言葉がまるでハサミのように切り出して物事を分離させている。
この私自身も切り出されたものですね。
本当は常に全体と渾然一体であり、分離は幻想であることを見抜くこと、もしくは一体となることが野性に戻ることかなと思ってます。
なぜ人間だけがこのような分離の世界に身を置く流れになったのか不思議ですねー。
≫ 弊害として文章力が落ちたりするので、ほとほどにしといた方がいいかもですが。現にこのレスも四苦八苦しながら書いてますw
真昼さんもそうなってしまいましたか!w
あまり行きすぎると論理的思考も鬱陶しくなり、時に仕事もままならなくなります。
つまり、おバカになりますw
前にセドナを極めた人のブログを見たら、やはりおバカになっていましたw
野性に戻ると人間社会的な生活が少し崩壊するのは仕方のないことですけど、まあ何とかなるでしょうw
哲学を読んでバランスを保つのは良いアイディアですね!
今私は思考フル回転で自我と向き合ってるので図らずもバランス保たされてます(^^;
380:現象:2016/07/18(月) 17:17:48 ID:yi4reb0M0
真昼さん
お久しぶりです。
長い旅から戻ってまいりましたw といっても認識変更したわけではありませんが。
≫362でお書きになっている
>私たちは言葉に縛られているだけではないか?
「ダイレクトパス ユーザーガイド」の実験をひと通りやってみて、
我々は常に概念や意味という解釈した結果を見ているんだな、と実感しました。
私がいま居るこのカフェも概念ですし、私がカフェだと「思っているだけ」なんですよね。
この事はいま体験している全てに当てはまりますし、
言葉を忘却すれば感覚の奔流にもなるのでしょう(私は体感できませんが)。
全ては単に「思われたもの」。
自分が単に思っただけのものなのに、それを本当に存在すると勘違いしてしまう。
その思っただけの物事の中で、喜んだり苦しんだりしているだけ。
言い方を変えれば「言葉に反応しているだけ」なのですね。
>メルロ=ポンティ
「知覚の現象学」序文で、「作動する自我」を認識へともたらすこと、
それこそが哲学の果たすべきべき使命だ、みたいなことを書いていますが、
ほとんど読んだことないので、どこまで解明したのか知りません。
気づきを得られた真昼さんの視点から、
面白かった内容などがありましたらまた書いてみてください。
384:真昼:2016/07/18(月) 21:26:57 ID:7hws8S760
皆様ご無沙汰です。真昼です。wildさん、現象さん、レスありがとうございます。
何か新しいことを書ければと思っていましたが、特にそういったことがなくて恐縮ですw
チケットでお馴染みの「何もしない」ということについて考察してみようと思います。
何もしないとはどういうことか?
普通の頭で読めば、「何もしないようにして」しまいます。
何もしないことをしてしまう。
そうではなくて、「何もしない」とは全てを「放っておく」という方向性だと思うんですね。
言い換えれば、何の感想も持たないということ。
目の前の空間に映る映像をただ流しておく。感想を持たない。感想らしきものが流れてきてもそれについての感想を持たない。
イメージとしてはニコニコ動画を見てるような感じですかね。
映像の上にコメント(思考)が流れている。自分にとっての一大事が映像として流れるとコメントがブワーっと流れて何が映っているかですら定かではなくなります。
私たちはつい、そのコメントに目がいってしまい、時に映像よりもコメントばかり読んでいる。
でも、そのコメントは元々自分が書き込んだものではないし、基本的に映像とは何の関係もない。
どんなコメントも映像には影響を与えるものではない。でも、そのコメントに感想を持ってしまうとそれに伴ってコメントが増える。
そしてまた、コメントにコメントするようになり、頭の中がコメントでいっぱいになる。映像そっちのけで、コメント合戦をしている。
「思考をしない」というのは、そうしたことに気づくことができるメソッドのひとつですね。
まずコメントの総数を減らす。映像に感想を持たない。コメントしない。ただ見る。それこそ、「何もしない」ということだと思います。
それがどうした?といえば、よく覚者さんが言う「世界とは自分の心が生み出している」というのが分かって来るかと思います。
感想を持ったということは、映像に対して興味があるということだから。例えば、自分にとって思わしくない映像が映ったとして、それを「これは思わしくない」という感想を持ったとき、その映像に興味があるという意思表示になっている。
興味があるのだから、それに伴った映像が流れて来るのではないか。それが良いものだろうが悪いものだろうが、興味を持っているものが映像として流れて来るのではないか。これはまだ僕の中では仮説段階ですが。
現象さん、僕はメルロ=ポンティについてはまだ解説書止まりなんです。
密かに現象さんに解説をお願いしようかな…などと厚かましいことを考えていましたw哲学的言い回しに面食らっしまって頭がぼや~っとしてきて「ポンティさんちょっと何言ってんのかわかんない」状態に陥ってしまうものですからw
もし、機会なとがありましたら読んでみてください。本当に余裕があったらでいいですから。ちょっと厚かましいですね、気分悪くされたらすみません。
メルロ=ポンティのテーマは「身体」です。
身体は認識するものであると同時に認識されるものである、という両義性を持っています。
個人的に解釈を広げると私たちの身体とは宇宙そのものであり、その身体からの情報を内面世界として形成しています。僕が動くとき、世界が動いているのであり、僕が身体感覚を感じるとき、世界そのものを感じている。
身体への信頼性こそが、世界に対する信頼であり、動くに任せるとき、それは世界の動きとなる。いかがですか?
長くなってしまいました。ではごきげんよう。
387:wild:2016/07/19(火) 12:35:21 ID:HvhmueQI0
≫384
真昼さん
≫ まずコメントの総数を減らす。映像に感想を持たない。コメントしない。ただ見る。それこそ、「何もしない」ということだと思います。
シェアありがとうございます(^^)
これこそ純粋な自己観察であり、お任せですね!
ニコニコ動画のコメントとはわかりやすい。
コメントが流れている画面だけしかないんですよね。
だから感情や肉体感覚もコメントのように画面に浮かび上がっている。
私自身が画面に浮かび上がっているということですね。
こうなると画面を見ている者は何者?となりますが、ここが探求として面白いところです。
≫ 身体は認識するものであると同時に認識されるものである、という両義性を持っています。
なるほど~。
身体=五感ですね。
私がリンゴを見るとき、リンゴもまたこちらを見ている。
私がリンゴを触るとき、リンゴもまた私を触っている。
ですね。
私はこれを実感する時、私とは本当に無色透明で変幻自在な存在なんだなと実感します。
なぜならリンゴを見るとき私そのものは見えず、視覚はリンゴのみになっています。
またリンゴを触るとき、手には私の感触はなく、リンゴの感触だけが手にあります。
ということは私がリンゴを作っていると同意とも言えます。
こういった話、難しいけども楽しいですねw
390:真昼:2016/07/19(火) 15:56:03 ID:hQyAzju20
≫387
wildさん、レスありがとうございます。
実は僕も今、少し苦しみの只中にいまして、基本的な所をおさらいしながら向き合ってる最中なんです。
wildさんに教わった「私を知る」というブログも参考にさせていただいています。自分を見る、やっとそれに取り組めるところにきたのかなと。
ご存じかもしれませんが、ラジニーシOSHOのサイトも参考になります。動画などを見ると、とても異様な雰囲気を醸し出していてちょっと怖いですけどねw目は開いていながら、どこにも焦点があってないような。あの方は一体何を見てるのかがとても気になりますw
とはいえ、僕はまだ苦しみを受け入れる覚悟を決められずにウンウン唸っていたりするのですが…
392:wild:2016/07/19(火) 23:15:42 ID:462gxIzQ0
≫390
真昼さん。
すでに直面されてるようで、さすが真昼さん早いですね(^^;
追求される方は必ず訪れるようです。
しかししばらく今の段階を楽しむのも良いかと思いますがいかがでしょう。
願望実現もしやすい段階なのかなと経験上感じます。
そうは言っても自然とそちらの方に導かれるんですよね。
不思議なものです。
真昼さんもあまりご無理なさらないで下さいね。
OSHOはまったく手付かずだったのですが、興味はありましたのでこれを機に調べてみようと思います(^^)
ありがとうございます。
399:現象:2016/07/21(木) 18:59:17 ID:UxV5vokU0
真昼さん
>ニコニコ動画
この例え、wildさんと同じく、分かりやすい!と思いました。
そうなんですよね、感想が感想を呼び、それがまた感想を呼ぶ。
気がつくと思考にどっぷり。もう思考しか見ていない。
>映像に感想を持たない。コメントしない。ただ見る。
>それこそ、「何もしない」ということだと思います。
引き寄せのコツ、みたいなことでもよく言われることですよね。
真昼さんは、引き寄せ・願望実現ってどう思われますか?あまり関心はないですか?
>メルロ=ポンティのテーマは「身体」です。
なかなかフランス現象学までは手が回らず。。
「見えるものと見えないもの」だったかを数年前に読みましたが忘れましたw
「肉」という概念を使って、認識されない自我極を言語化しようとしていたような。
「知覚の現象学」は序文だけ読んでほったらかしです。
また暇を見て読みたいと思いますがちゃんと理解できるかどうか分かりません。
もし理解できたらその時は書き込みさせていただきます。
400:真昼:2016/07/22(金) 12:34:35 ID:9706d4T.0
≫392
wildさん、レスありがとうございます。
≫しばらく今の段階を楽しむのも良いかと思いますがいかがでしょう。
そうします!手放したと思ったら、後ろで何かを掴んでいる。それを離したと思ったら、また別のものを掴んでいる。反対に、何かが分かったと思ったら、それを忘れている。何かを得たと思ったら、それは大したことではなくなっている。
この流れを楽しんでみようとおもいます。
wildさんは何か大きな囚われの本体に気付かれたようですね。「概念」ですか。
概念とは実体があるわけでもなく、一体何なんですかね。概念とは、一体どういう概念なのか?それも概念ですね。ガイネンガイネン……分かりません!w
でも、wildさんの仰ることは何となく分かります。その何となくを維持しつつ、過ごしてみようと思います。
また何か大きな気付きがありましたらお願いします。
401:真昼:2016/07/22(金) 13:04:00 ID:9706d4T.0
≫399
現象さん、レスありがとうございます。
≫引き寄せ・願望実現ってどう思われますか?あまり関心はないですか?
ガンガンに興味ありますよ。むしろそっちがメインですから。大幅に遠回りしてますがw
個人的な見解では、引き寄せのキモは「記憶」だと考えています。
アファメーションやイメージングなどは、よく言われる
「fake it! until you make it(それになるまで演じ続けろ)」ということであり、
「既に叶っている」という記憶を作ることなんだと思うんですね。
これは力技で記憶を作っていく。ひたすらアファメーションする。なので、途中でしんどくて辞めちゃうんですよね。
それで、手放し系に行き着いたわけです。
こっちは僕なりに表現するなら「引き離し」ということになります。
現状を引き離す。リアリティーを薄めて、記憶の影響を減らしていく。
すると願望の難易度が下がって、願望が転がり込んでくる。みたいなかんじで。
それでも、なかなか現状は好転しない。もう全部お任せしよう。
もうこうなりゃ、悟るしかねえ!w⬅今ここです。
≫なかなかフランス現象学までは手が回らず。。
厚かましくてすいません。無理なく、暇のできたときにでもお願いします。形而上の話だと、とかく軽視されがちな「身体」ですが、やはり何かを体感したいので、身体(五感)というもの少ししっかりと掴みたいと考えました。
無理なくやって参りましょう!