423:真昼:2016/07/31(日) 19:16:39 ID:YAILfeYM0
あとですね、個人的な気付きなのですが「自愛」についてです。
僕はisaさんのまとめは一度読んだだけなので詳しくはありません。正直、自愛をしようとしてもピンときませんでしたし、自己愛みたいなのって独りよがりな感じがして馴染めませんでした。
でも、自己観察を続けているうちにピンと来たことがありましたので、少し書いてみます。特に、
・自分を愛するってどういうことかピンと来ない
・人の顔色をうかがってしまう
・人から言われたことをいつまでも気にしてしまう
こういった、僕のような人wにお薦めです。
まず「自愛をする」ことと「自分を愛している状態」というのは、僕の中では少し違います。
これは瞑想でも言われることですが、瞑想をすることと瞑想状態であるのは違うということと同じです。
「自愛しよう」すると、そこに「愛せない自分」がいることになります。
愛せない自分がいるということは、「自愛できてない」「自分を愛している状態ではない」ということです。
では、「自分を愛している状態」とは?
ここで僕は考えるのが面倒くさくなり、放置しました。「よく分からんから、自愛はもういいやw」
そして自己観察を続けていて気づいてきました。
それは「自分を愛そうとするのではなく、他人を自由にさせる」ということです。
例えば、自分の家族でも友達でも恋人でもいいんですが、今目の前にいない人は今どこにいるのか?を探してみます。
さて、はたしてそれは本当でしょうか?
頭の中のイメージで推測しているに過ぎませんよね。
正しくは、その人は自分の頭の中、イメージの中にいるわけですね。内なる他人がいるわけです。
その内なる他人や目の前の他人に自由を与えます。他人には好きなことをやらせて、好きなことを言わせる。好きなことを思わせておく。他人の勝手で生きさせる。他人に自由を与えていく。
これを暫く続けていると、「昨日あの人にあんなこと言われた」ことを思い出しても、あの人に自由に言わせておくことができてきます。
目の前の人が何かを話していても、好きなように話させておく。「僕はきっとこの人からこんな風に思われているんだろうな」と考えたら、そんな風に思わせておく。自分ではなく他人に自由を与える。勝手にさせておく。
そうしてるうちに気づいたんです。「誰も僕のことを責めてないし、自分はとても自由な存在なのではないか」と。これが僕にとっての「自愛状態」だったんです。
「与えたものが返ってくる」と引き寄せ界では言われますが、まさに自由を与えたら自分が自由になったw
以前なら「なんでこの人はそんなこと言うんだろう」「あの人を怒らせたのではないか」とか思ったりしましたが、「それでいいんだよ。好きにやっていいんだよ」という気持ちになることが増えました。でも、やはりまだ直接中傷されたら、凹んだりイラついたりしますけども。あとから思い出す回数は減りました。
それが自分に優しくする、ということではないかと思います。
と、書いてみたもののこれって僕だけかもしれませんけどw
長々とすみませんでした。
425:wild:2016/08/01(月) 18:12:59 ID:t3fxql5o0
≫423
真昼さん。
≫ 自分や他人や現象に自由を与える立場なのだと。だから今は、「自分という役を演じている」ということを実感して、全ての起こりに自由を与える立場を体感しようと試みています。
これってどういうことなんだろう?自由?また真昼さん新たな気づきがあったのかな?と思いましたが、≫423を読んでわかりました(^^)
起こる現象をそのままに、観ている私は何もしない、ただただこの流れを見ていることですね!
なるほどー、自由にさせるっていう表現もありましたか。
これが委ねる、任せるなんですよね。
以前私も自己観察と自愛は同じものなんだなと実感しましたが、真昼さんも感じたんですねー。
この視点のポイントは「私個人」も起こりであり、思考や感情、肉体という映像も自由にさせることですよね。
最近整理が付きつつあるのですが、その状態を忘れたしまった時、つまり同一化してしまう思考が現れている時が、囚われを掴んでいる時であるとはっきりわかりました。
同一化している時は次々と囚われが囚われを生むという連鎖が起き、業を積んでいます。
そしてこれに気づかないと、また同じ現象を見たとき苦しむことになる。
別の表現だと、業から再配達という現象を生み出してしまう。
この囚われに気づき観る、もしくは同一化せずに掴まない、自由にさせる。
そうすれば苦の連鎖は起きないのかなと考えてます。
で、これを逆に引き寄せに利用できないかなと…ムフフ
と言いながら↑これも囚われであり観るべき思考なんですけどね(^^;
ウナギのワクワク、いいですね!
私も最近ワクワクしてないので何かワクワクを探そうと思いました!
428:幸せな名無しさん:2016/08/01(月) 23:28:07 ID:i1fRlHcY0
≫425
wildさん、レスありがとうございます。
最近の僕のテーマは自由と責任です。僕は頻繁にテーマを変えますw
言葉は生物(なまもの)だと痛感しておりまして、ピンと来た言葉も使えるのは3度目までですね。
それ以降は思考的になり、エゴの餌になるだけです。例えばニーチェの「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」を読んだときは凄く響いたものですが、今はもう知識としてその言葉を知っているだけで、( ´_ゝ`)フーンといった感じですw
なので何かにインスピレーションを受けたら、それをテーマにしています。賞味期限が切れるまでなので、すぐに終わるテーマがほとんどです。答えは出しません。鮮度が切れたら終わりです。
このスレッドにはピンと来るものが多いので助かっています。
wildさんの気付き、楽しみにしております。
429:真昼:2016/08/01(月) 23:29:57 ID:i1fRlHcY0
上のは僕です。無駄レスすみません。
431:wild:2016/08/03(水) 00:42:02 ID:xQF9scac0
≫428
真昼さん。
今のテーマは自由と責任ですか。
そのような探求のテーマってありますよねー!わかります。
インスピレーションで降りた言葉には何かオーラがありますよね。
内容以前に輝きのようなものがあります。
数日するとその輝きも失せてしまいますけど、確実に気づきの螺旋階段を昇ってる感じがしますね~。
私の今のテーマは苦と願望実現でしょうか?w
結局のところはあれやこれやと考えるのは思考であり自分の作った幻想と言えますし、その渦から抜けて観れば「ただそれだけ」の世界。
しかしエゴエゴで探求してみなさんとシェアするのも楽しいですし、悪くはないなと。
私もこのスレ、ためになってますw
433:真昼:2016/08/04(木) 00:01:20 ID:57e6ncJ60
≫430
現象さん、こんばんは!飲んでても哲学できるなんて、凄いですね。僕は無理だwww
よしおさんですか。僕も好きですね。折に触れては読み返したりしてます。
よしおさんというと「そんなの関係ねえ!」がクローズアップされますが、僕は447名義の書き込みがとても参考になりました。
例えば、「自分が本当に望んでいるものを知り、自分の向いている方向に願望を合わせる」などは、潜在意識開発の極意ですね。
447の時はとにかく自分と向き合うことを薦めていて、僕も願望の根底にある不足に目が向いていたことを自覚できました。
また、「関係ねえ!」の真意について個人的な考察ですが、「ある」と「エゴ」は関係していないという意味だととらえています。まあ、もしもよしおさんがこれを見たら「いや、全然違うから」とか言われるかもですがw
現象さんのハイデガーの解説文の言葉をお借りするなら「現存在」と「存在者」には何の相関関係もない。(言葉を間違えてるかもしれません。あしからず)
また、直近の書き込み(と言っても一年以上前みたいですが)を読むと、エゴって何なの?食えんの?みたいな表現をしています。確かに、エゴエゴ言ってますが、エゴとは一体何なのか?
個人的な見解では、エゴとは「こわばり」の事だと思っています。僕はメルロ=ポンティからラジニーシ和尚などを読んで、「身体」というものへ意識を向けるようになりました。身体的なこわばり、思考的なこわばり、感情的なこわばりの総称を「エゴ」と名付けている。
あくまで、私見です。
僕はとにかく、何かに詰まったら基本に戻ればいいと思っています。
引き寄せの基本「それ自身に似た者が引き寄せられる。つまりハッピーなところにハッピーがやって来る!」
僕は混乱してきたら、ここに戻ることにしています。
やや纏まりのない文章になってしまいました。ワケわからなかったらすみません。
434:真昼:2016/08/04(木) 00:07:15 ID:57e6ncJ60
≫432
wildさん、レスありがとうございます。
≫内容以前に輝きのようなものがあります。
数日するとその輝きも失せてしまいますけど、確実に気づきの螺旋階段を昇ってる感じがしますね~。
そうですよね!その時のインスピレーションみたいな言葉や考え方がありますね。その言葉に囚われ始めるとマインド主体になり、以前の輝きを失ってしまいます。
かつては僕も自己啓発書などをよく読みましたが、最初はよく効くんです。7つの習慣なんかを読んで、「よっしゃー!人生変えたる!」なんて思ったものです。でも、暫くすると従来型の自分に戻っていて効かなくなってくるんですね。そして次を読んで、効いて、効かなくなって、そしてまた次、次と中毒者のようでしたw
すると、もう読んでも全く効かなくなってるんですね、中身が大体同じような内容なので。やはり、自分を見失っている(マインドレス)状態ではこの繰り返しなんだと痛感しました。
また、wildさんにお訊きしたいことがあります。
それは、起こる現象には自由意思はないけれども、意識には自在性があるのではないか?と考えてるのですがいかがでしょう。
何に意識を向けるかは、ある程度自由になってるのではないか。
つまり意識には自在性のある有意識とオートマな流れの無意識という二面性があるのではないかと考えています。もちろん有意識ですらwildからのものなのでしょうが、明らかに意識状態が違いますよね。
つまり、主体的に生きるということが意識の自在性を目覚めさせ、自分が望むものに意識を向けることが可能になるのではないでしょうか?
僕のこの文章で通じるでしょうか?w
wildさんの探求の邪魔にならない範囲でお答えいただければと思います。面倒な時はスルーで全然オッケーですよw
435:wild:2016/08/04(木) 14:24:17 ID:pzsAgxUk0
≫434
真昼さん。
自在性のある意識とは、意識のスポットライト、意識の矢印のことですかね?
例えば、意識を頭から足に移したと言う時の意識、つまり注意みたいな感じでしょうか。
普段の生活の中では普通、
「現象が目に入ったから意識した」
といった感じで意識していると思います。
つまり「現象→私」で、
初めに現象があって、それを私の目で捉える感覚。
しかし気づきが進むと、
「見る(意識する)から、現れた」という感覚となります。
意識の矢印としては
「私→現象」といった感覚で、
私が見た(意識した)から現象が現れるという感覚。
現象を見ると必然的に「私→現象」のような意識の矢印が発生しますが、実は私も現象であり、一方的な意識の矢印は思考の一種で現象であると考えてます。
実は「私現象」で、
もっと簡略すると「現象」のみ。
現象という私のみになります。
例えば、テーブルのリンゴに意識を向け、その次に私の頭に意識を向ける。
という一連の流れがあるとしたら、厳密に観ると、
リンゴ→私→思考→リンゴ→思考→私→思考→頭→…
(ここの→は流れのことです)
といったように、ひとつひとつのシーンだけ、または現象だけがババババッと勝手に現れ流れ続けている…と言うのがこの私という存在であると感じてます。
となると、やはり自由意思はなく、起こることが起きているだけなのかなと思います。
ここまで書いて、真昼さんの質問はこのことなのか心配になって参りましたw
私としては、それはそうなんだけども、どうにか次に現れる現象を希望通りにできないのか?そこには何があるのか探求中です。
結局わからんのかい!w
ワケワカメ酒な文章だったらすみませんw
439:真昼:2016/08/04(木) 23:25:15 ID:57e6ncJ60
≫435
wildさん、レスありがとうございます。
閃光が走りました。感動しています!
僕の質問が通じて良かったです。
僕には今、いくつかの仮説が生まれています。
少しまとめてみようと思います。
僕の質問のレスに書いた、「有意識」と「無意識」について。
この2つは本質的に同じなんですね。違いはONかOFFか、光があたっているかいないか、ということなんですね。
そして意識は元来自由に、縦横無尽に動き回っているわけです。動き回っているし、大きさも形も自由自在。何もかもが自由。なんの制約も受けていない。
その動きに光が灯っているか否かで有意識と無意識に分けられます。
そして、意識は何を原動力に動いているのか?それが苦ですね。苦がエネルギーになり意識は動く。
そして、意識に寄り添っているとき(有意識であるとき)、苦しみという流れそのものとなります。それは、「私=苦しみ」を意味します。私が苦しみそのものとなる、という事です。するとどうなるか。
光が自分を光と認識できないように、自分の目が目を見ることができないように、私が苦しみそのものであるとき、苦しみを認識できなくなります。私が苦しみですから、目の前から苦しみは消えますね。これ凄くないですか?目の前から苦しみが消えるんですよ!
要は、意識的、自覚的であるという存在の仕方が本来の自分へと立ち返る道であろうと思われます。
U4さんの言う「意識的に生きよ」。
447さんの言う「自分の向いている方向を知る」。
中村天風先生の言う「有意注意力の重要性と積極的在り方」などなど。
あらゆる教えが繋がってきました!
釈迦は言いました「自灯明(自分を灯りとしなさい)」。
そのためには意識をONにして光とならなくてはなりません。
故に、自由意思はあります。それは自我としてのものではなく、私たちの意識というものの特性だと考えています。なぜなら意識は初めからずっと自由な存在ですから。
私たちの思考によって(思考の内容にばかり意識を向けることによって)その自在性に制限をかけてしまっているので、自由に見えないだけだと、現時点では考えています。
なんか一人で興奮してはしゃいでますがw
これはあくまで仮説なので、これから検証していきたいと思います。
とにかくwildさん、ありがとうございました!
441:wild:2016/08/05(金) 01:53:55 ID:ZEyDyOtk0
≫439
真昼さん。
あれ!w
また私より深い智慧が降りましたね?www
≫ 意識は何を原動力に動いているのか?それが苦ですね。苦がエネルギーになり意識は動く。そして、意識に寄り添っているとき(有意識であるとき)、苦しみという流れそのものとなります。それは、「私=苦しみ」を意味します。私が苦しみそのものとなる、という事です。
そうです!
お釈迦さまの「一切皆苦」とは「人生苦しみばかりだよ」のみならず、正しくは私という存在の根本原理のことだと気づきました。
「一切」とは、見聞味触嗅念のこととおっしゃっていたそうです。
つまり私に起こる現象すべてであり、つまり「私=苦」であります。
≫ 光が自分を光と認識できないように、自分の目が目を見ることができないように、私が苦しみそのものであるとき、苦しみを認識できなくなります。私が苦しみですから、目の前から苦しみは消えますね。これ凄くないですか?目の前から苦しみが消えるんですよ!
なるほど確かに!!
しかし真昼さんの洞察力には頭が下がります。
私は理由はわからないけど、楽だなーと言った感じでしたw
≫ 釈迦は言いました「自灯明(自分を灯りとしなさい)」。そのためには意識をONにして光とならなくてはなりません。
OFF状態が無明ですよね。
常に正見正念でなければならない。
お釈迦さまの「気づいておれよ」の言葉ですねー。
≫ 私たちの思考によって(思考の内容にばかり意識を向けることによって)その自在性に制限をかけてしまっているので、自由に見えないだけだと
ここは真昼さんにぜひ体現して頂きたいところです。
しかし書いて良かった(^^)
443:真昼:2016/08/05(金) 12:49:34 ID:3jtLeshE0
≫441
wildさん、レスありがとうございます。
なんか色々と繋がって理解が進みました。なぜかとても感動してしまいましたw
チケットの七章にあるように「既に願望は叶っていて、幸せの絶頂にいる」というのがデフォルトなんですね。
逆に、目の前に苦しみが見えているのはおかしいんですね。私が苦ですから、見えるはずがない。
苦しみを認識できるはずがない。それなのに、目の前に苦が見えるなら、それは自分から離れているということです。
そして、その苦こそ自分なので、それを受け取り拒否しているとそれはずっと自分の前に見え続ける。これが再配達の理論ですね。
なので、苦しみを認識してるうちは「喝!」という事でしょう。
やはり、「自分を知る」ということが、あらゆるメソッドの基本だなーと改めて思いました。
「今・ここ・自分」の三点を外さない。そしてそこに居続けると「存在」という一点に集約されてくる。自分という存在がはっきりと顔を出すとき、この世から苦しみは消える。
目の前には叶った世界・平安な世界が見える…はず。
後は案ずるより産むが易し、実際にやってみることですね。そして、やってみたら分かります。言うは易し行うは難し。どないやねん、とw
そして、これを体得したあとには、意識の次元を上げるという作業が待っています。
三次元から高次元へと意識を上げて次元間を自由に行き来できるようになる、という特殊能力wを得ていく予定です。こう書くと、だいぶ怪しげで、すごくバカっぽいですねw
ではまた。