Wildさん-25/私がバンバン引き寄せを体感してた時期はハーディングの頭のない実験をずっとしている時でした

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467:真昼:2016/08/25(木) 23:45:24 ID:MJbTW5OY0

wildさん、現象さん、みなさま、ご無沙汰しております。
ちょっとこの板を離れて旅をしておりますw

新たな気づきなどは特にないんですが(ないんかい!w)
やはり○○のために△△をしているのではなく、○○のために○○をしているんですね。
そしてその流れの最先端に意識をおくことで、現実など単なる遊びと化してきます。
どんなに困ったことでも、そういう遊びをやっている、って前に戻ってしまってますが…。

 

≫何もルールが無い、ということは「どんなルールでもOK」ということ。
≫つまりは、「あらゆるルールが在り」ということ。

そうですよね。ルールはあくまで事後の世界に意味を与えるひとつの規則のようなものなのではないかなと。あくまで僕なりの言葉なので伝わりにくいかもしれませんが。

また、ハーディング実験を行うと、頭の後ろの空間には目に映っているものがそこにあるのではないかと思うようになってきました。

流れに身を委ね、起こりを起こらせておく。常に意識的に、自覚的に動く。
思考は道具ですから、その使い方を熟知しておく。止めたり、静かにしたり、思考でものを考えたりという自在性を獲得する。
こんなことを最近は思っています。

願望はとりあえず脇においたままですwというより、あまり願望の影響が少なくなってきています。
はからずも、元祖1式のような状態です。
755さんは今のところまだ読んでいませんので、読んでみようと思います。
なにやら結構忙しくなってしまって、頻繁に書き込みできませんが、みなさんのレス楽しく読んでますよ。時々読み返したりして。

残暑厳しいので、お身体大切に。ではまた。

468:wild:2016/08/29(月) 00:28:09 ID:.m8RRsEE0

≫467
真昼さん。

レスありがとうございます。

≫ やはり○○のために△△をしているのではなく、○○のために○○をしているんですね。そしてその流れの最先端に意識をおくことで、現実など単なる遊びと化してきます。

なるほど~、今この瞬間に在ると目的があって行為が起きているのではなく、ただそのように起こっているとしか言いようがなくなりますね。

今ここで思考が起きているときは私が思考そのものになります。
でも思考に巻き込まれている訳ではないんですよね。
ここが自覚的と言われる所なのかなと思います。

そういえば最近ブルーベリーさんが復活されて「原因ない」を提唱されてますが、これも前後裁断の今を知るのに良い在り方だなと感じましたねー。
非常に簡単で秀逸だなと。
私も何か提唱したいな、かっこいいやつw

「私はとは前立…」
あ、イカンイカンこれは間違って感得したやつだwww

そろそろ涼しくなって参りましたが、夏の疲れがどっと出てくる時季ですので、真昼さんもお身体ご自愛下さいね!

 


 

469:真昼:2016/09/05(月) 12:52:33 ID:4ZOFlTkw0

こんにちは。ご無沙汰です。
ちょっと僕も一段落したので、少し書き込みさせてください。

一段落というのも、僕なりの奥義を体得したからです。名付けて「無極」w
要は、極を持たないってことですね。極があるから分別ができますし、分離も起こります。常時、極を持たないことを意識してるんです。

「集中しないこと」に徹底的に集中しています。続けてると、表層を形作っている深部が見えてきます。それが欲です(wildさんのおっしゃる「苦」と同義です)。

突き詰めれば、「今の自分でありたい」という根元的な欲があります。

つまりは、願いが叶っている状態なんですね。常に。

その極に立って認識してるんだろうと思っています。

例えば、何かが叶っていない状態を欲しているという現状があるとして、その極から認識していると、叶っている状態は常に、その極とは違う場所に位置しなければならないわけです。

なので、「見ざる言わざる聞かざる」というようにどの極にも立たない方向が、wildにお任せの状態と言えます。

すると、「wildにお任せしていることが望ましい」という極が見えてきて、その極から外れると「wildにお任せして何かを得たい」という欲が見えます。

こう書くと、欲があるから悪いんだ、と思うかもしれませんが、その欲は単なるふつふつと沸いてるエネルギーに過ぎません。その極から外れるといわゆる「無極」が体感できます。(伝わるのか?こんな表現でw)

僕が感じるのは、「エゴ・自我」への愛着です。

離すのが名残惜しいんです。「情にほだされている」状態なんですね。(ほだされるの意味は、1 情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる。2 身体の自由を束縛される。ということだそうです)
つまり「感情」とは感じたものにほだされるということなのではないかと思っています。

とはいえ「無極」で居続ける必要もありません。社会とはあらゆる極の集合体ですから、今自分がどの極に立っているのかを自覚していれば十分だと思います。

ってこのスレの論旨からズレてますかね?w

470:wild:2016/09/05(月) 23:44:28 ID:az7WVjhU0

真昼さん、
奥義の披露ありがとうございます!

いえいえ、元々このスレには論旨など決まったルールはないつもりですので自由にいきましょうw
誰かの引き寄せに活かせるヒント、悟りに至るヒントになればなと思います。

太極から抜け出たところが無極であると思いますが、この無極、それは潜在意識、宇宙からも抜け出た所、まったき今。
それは時間を羊羮だとすると、羊羮を切った時に出来る切れ目のような溝…つまり真我であると悟りをしゃぶりつくすサイトの中島タローさん語られてましたね。

真我については人によって解釈がいろいろあるようでなかなか判然としませんが、
最近もしかしたらそうなのか?と考えていることがあります。
いわゆる唯識の世界、識の世界は全て太極であり、潜在意識の世界。
未だ如来の掌の上。
そこを突き抜けた先が無極なのかなと思いましたけどどうでしょう?

ですからハーディングの言う頭のない実験は空を実感するための方法とも言えますが、識の奥底にある第八識を実感するものなのでは?とも考えました。
私個人は消えても識はある。
ここまでは八識目であるアラヤ識の段階であり、これすらも概念であると見抜いた先に無極があり、これこそ真の悟りであるのかなと。
つまり唯識も極論を言ってしまうと自我、概念の範疇であると考えてます。

しかしながら第八識は目の前の現象を作りだす張本人であり、それこそ引き寄せに多いに関係ある究極の自我と考えますがどうなんでしょうね?

私がバンバン引き寄せを体感してた時期はまさにハーディングの頭のない実験をずっとしている時でした。
もしかしたらそうなのかもw
ハーディングの実験も、しばらくやっているとこの受容能力さえも考えであり、概念であることがわかり突き抜けてしまいますけども。

観るものは観られるものが無極なのか、依然太極なのかはよくわからない所ですが、
無極に既に至った真昼さん…
師匠と呼ばせて下さいwww

具体的に無極に至るには、やはり何事にも囚われない、現象を掴まない、流すままってことなんですかね?
そしてそれを何かを成し遂げようという目的をもってやる時点で片方の極に立ってしまっている。
そのことに気づくことが無極に抜け出る秘訣と解釈しましたが、方法を用いてしまうと無極ではないんですよねw

 

 

 


472:真昼:2016/09/06(火) 12:45:14 ID:8BCrFhEI0

≫471
すいません。まだいますw

≫470ありがとうございます。
師匠なんてとんでもないですよ。あの時あのタイミングでハーディングを知ることができたのが、僕の理解を深めてくれたんですから。むしろ僕がwildさんを師と仰いでるんですよw

というか「無極」って調べたら道教の世界に既にあるんですね。恥ずかしながら知りませんでしたw僕のはそういった高尚なものではなく、単に無集中を集中するといったニュアンスです。

ゆえに「無極」ではありませんね、これは。「NO FOCUS」という名前に変更しますw(これも既にあったりして)

確かに真我というものの定義は色々あるのでわかりませんよね。その話も含めつつ少し僕自身のまとめも兼ねて書いてみます。

まず五感についてですが、突き詰めれば、五感なんてないんですね。

一感ですね。「感」だけです。

何かを感じているというのが、私たちの見える世界の全てですね。

さらに、「感」のみがあるというのは、つまりは達成などなく、達成感だけがある。

充実ではなく充実感、劣等ではなく劣等感、満足はなく満足感。感しかないんです。

そしてその特定の「感」を求めているにすぎないわけです。

お金を求めているのではなく、満足感、安心感、優越感を求めているというのが本当のところではないでしょうか。

しかし、それはあくまで「感」であり、それを得たところで、満足、安心、優越はそこにはない。

 

例えば、宝くじの高額当選者の破産率が高いというデータにも現れていると思います(そのデータの真偽は置いておきます)。

得られるのは「感」だけですから。

当然、別のなにかに(マンションや高級車を買ったり、海外旅行行ったり、散財し尽くすなどのように)充足や満足、優越を求めて行くんでしょうね。

どこまでも追いかけても辿り着かない蜃気楼のようです。僕は10億円を手にしたことはないので、実際はどうなってるかわかりませんけどねw

僕個人の卑近な例ですと、iPhoneなんかがそれですね。

10年くらい前にスティーブ・ジョブスがiPhoneを発表した時などはとても未来的な機械に見えて、感心したものです。

でも今現在、僕もiPhoneユーザーの一人ですが、別に何か僕自身が進化したわけでもなく、ガラケー時代同様に、電話とメールとインターネットしかやってないんです。

それを得てから暫くは高揚感や満足感もありましたが、今はそれを持っているのが「普通」でな何の「感」も湧きません。当時は夢の道具に見えたんですけどね。

今は新しいkindleが欲しくなっていますwそんなものです。

長いわりに中身が薄かったですが、要は五感も思考も感情も、「それを感じている」だけで、それはあくまでも「感」に過ぎないものだということです。感が漂い移ろっている。

なんか話が噛み合ってない気もしますが、書いてしまったので、このまま投稿しますwww

473:幸せな名無しさん:2016/09/06(火) 14:02:12 ID:/vkgrnVE0≫472

空気読まず、横から。

感があるから、生きていると認識すると思ったのでつい。

肉体を持つことと五感は深い関係があると思う。五感がなければすでにこの世にはいれないだろうから。例えば痛みとかは肉体を生かす上で素晴らしいセンサーの役割りを持つ。
痛みがあるから、恐怖もある。
感は素晴らしいツールだけど、その特性ゆえ無の側面からみたら、思考していると気付いたりするのかな? また分離していると教えてくれるのも感だったりするのかな?と思った。

多分ズレていると、思うけど今の感覚や感情、感動を大切にしたいとエゴがうるさいのでレスしてしまった。すいません。

475:真昼:2016/09/06(火) 15:57:32 ID:8BCrFhEI0

≫473
レスありがとうございます。
いえいえ、全くズレてないです。今の感覚や感情をよく見るのは大切ですよね。むしろ、それ以外に大切なものなんてないくらいです。

感覚や感情が生まれたのを見て、それがそこにあるのを見て、それが消えていくのを見る。別の表現をするなら、感覚や感情がやって来るのを許し、そこにあるのを許し、なくなっていくのを許す。

すると、エゴを見ている何か、許可をしている何かが垣間見えますね。これがいわゆる自愛の本質だと考えます。これが僕が書いた「NO FOCUS」です。

 

≫五感がなければすでにこの世にはいれないだろうから。

おっしゃる通りです。同時に僕は473さんのレスを読んで、考えされられました。
「私がこの世にいる」という存在感て何かな?と。一番掴みにくい「感」ではないですか?もしかしたら、それは「感」ではないのかもしれません。

 

≫例えば痛みとかは肉体を生かす上で素晴らしいセンサーの役割りを持つ。

この痛みという感覚も恐らく非常に微妙なものだと僕個人は感じています。
例えば、頭が痛い時なども、完全に何かに意識がとられているときって痛みの程度が和らいでいたりします。

つまりは何かしらの「感」がまず先にあって、それに「痛み」というラベルを貼っている、ような気がしますね。「痛み」というラベルが張られているものの実体とはなんでしょうか?

とはいえ殴られれば痛いですw。痛みという感覚は生体的にリアルに感じなくてはならない感覚だと思いますので、無理にラベルを貼っていることに気付く必要もないのかもしれません。

私たちは本来、分離なんてしてないのではないはずです。例えば、地球に自我があったら、地球の上の出来事は全て自分のことであるように。みんな自分のことです。
完璧というスクリーンの上に生じるものの一つにフォーカスすることで、分離して見えているだけのように思うんですね。なぜそこにフォーカスするのかというと、愛着があるからであり、無意識的な習慣、癖のようなものです。多分w

僕の方こそズレてますかね(汗)。

 

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