66 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/04(土) 00:55:37 u0SszPGA0
自己観察さん、質問です。
つい2、3日前にふと高校の時の後輩を思い出しまして、
「・・・あいつ知らぬ間に結婚なんてしやがってるかも」とか
「抜けがけで知らぬ間に『結婚するっす』なんて報告来そうだな。ケッムカつくぜ!」
なんて思ってたら、今日そのバカ後輩からTELありまして、まさにその通りになっちまいました。
もうイライラするし、嫉妬100%です。
これで嫁可愛かったら後輩ぶん殴るか、その場で嫁を鬼の如くさらっていきそうな勢いです。
マーフィーの潜在意識からエイブラハムからチケットとある程度の事は分かってて、
いわゆる「シンクロ」とか逆引き寄せになっちまってるのは分かるんですが、
これは自己観察さんから見てどうしてこんな事になっちまったんですかね?
いわゆる、「別の領域に留まっていた時」に「後輩結婚。え? ガビーン!」を感じて
「選択」しちまったからですかね?
逆引き寄せになっちまいましたが、これを本願に応用出来たらいいと思いまして。
68 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/04(土) 02:04:47 ID:psg5Ebes0
≫66
私は基本的に「どうしてこういうことが起きたんだろう」ということは考えないです。
≫ いわゆる、「別の領域に留まっていた時」に「後輩結婚。え? ガビーン!」を感じて
≫ 「選択」しちまったからですかね?
別の領域にいるときにある程度雑念はあると思いますが、そういう
≫ 「後輩結婚。え? ガビーン!」を感じて~…に気をとられていたのなら、
それは「選択」でもなんでもなく、思考ど同化していたのではないかと。
私にとっては「シンクロ」も「逆引き寄せ」も、
ただ起きたことに後から意味を持たせただけくらいにしか思えないので興味がないです。
27 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/02(木) 04:57:19 NbuQwLJw0
自己観察さん、質問させて下さい。昨日こんな気づきがあったんです。
一枚の絵があるとして、その中には自分が欲しいものもそうでないものも、
自分が認識できる全てが既に描かれています。そしてその中には自分自身の姿も描かれているのです。
絵の中の自分がエゴで、描かれている紙、もしくはキャンバスが真の自分です。
絵の中の自分、つまりエゴと自分を同一視すれば、自分には足りないものだらけで、
それらを得るために幾重もの壁や条件をクリアしなければならないように思える。
しかし、そんなエゴの思惑に気づき、自分が本当キャンバスだったと悟るなら、
もし、真の自分がキャンバスだとするなら、条件や壁は一切なくなり、
全てが自分の創造物、所有物だと思えるわけです。
そう考えて、ある特定の願望を浮かべた時、充足感、快の感情が湧いてくるのですが、
これもまたエゴが感じているものなのでしょうか?
もしそうだとすれば、このエゴの判別作業、基準にも気づくべきなのでしょうか?
そして、そうした時に、多分今まで快と判断してきた願望がそれを浮かべた時に今までと違って、
無機質な味気ないものに感じられるような気がするのですが、これはこれで良いのでしょうか?
前に自己観察さんが、お金を思い浮かべても、単なる物質にしか感じられないから
自分は充足感を感じているというようなことを言っていたと思うのですが、
それもこういうことでしょうか?
それとも、願望はエゴではない、という主張の通り、
願望を思い浮かべた時に感じる快の感情は正しいものなのでしょうか?
なんかはちゃめちゃな文章ですいません。
53 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/03(金) 02:30:15 ID:psg5Ebes0
≫27
まず「願望はエゴではない」についてですが、願望はエゴではないけれど、あなたの内面を
エゴが支配してる限り、あなたが深いところで望んだ「本当の願望」を、エゴは巧妙に取り繕って
「エゴ仕様の願望」に見せかけています。
お金の例で言えば、本当に望んでるのは充足や豊かさ、安心した生活だったりしますが、
エゴはその充足や安心を知らないので、過去のデータの中から
「お金が10億くらいあればそんな生活できるんじゃね?」という情報を見つけて
限定された願望に置き換えてしまいます。
エゴは知らないことをデータ化できないので「10億円」という分析できる対象が必要なんですね。
なので「本当に望んでること」をわからないままにしていると、
その願望はエゴの支配権から抜けられないので、実現は難しくなると思います。
ということを踏まえて、
≫ そう考えて、ある特定の願望を浮かべた時、充足感、快の感情が湧いてくるのですが、
≫ これもまたエゴが感じているものなのでしょうか?
うーん、充足感を感じているのであれば、そんな風に思わないのではないかと思うのですが
どうしてエゴが感じていると感じたんでしょうか。
≫ もしそうだとすれば、このエゴの判別作業、基準にも気づくべきなのでしょうか?
エゴの判別作業ってエゴがしてるかどうかを見分ける作業ってこと?基準っていうのはナンだろう。
「これはエゴがしているのではないだろうか」っていう思考自体がエゴなのは気づいてる?
≫ そして、そうした時に、多分今まで快と判断してきた願望が
≫ それを浮かべた時に今までと違って、無機質な味気ないものに
≫ 感じられるような気がするのですが、これはこれで良いのでしょうか?
これは上の説明通りですが、その願望について「エゴのレベルで認識している願望」なのか
そうではなく「本質的に望んでいるもの」なのかを理解すればわかると思います。
絵についての気づきはよかったと思うんですけど、
質問になったとたん、急にエゴ満開って感じで難しく考えすぎてるなーと感じました。
「これでいいのだろうか」という不安はなかなか解消しづらいかもしれないですが、
あくまで「そういう自分に気づく」というスタンスでやってみることが大事ですよ。
せっかく素敵な気づきが合ったんだから、もっと自分を信じなきゃもったいないよw
57 名前: 27 投稿日: 2011/06/03(金) 19:27:42 GFh/pelI0
自己観察さん、素晴らしいレスをありがとうございます。
>どうしてエゴが感じていると感じたんでしょうか。
何というか、絵のキャンバスになったと感じた時に、それは「全て自分のもの、創造物である」
という意識なのですが、あるものは「良い」と感じ、また別のものを「嫌だ」と感じるわけですが、
もし本当に「自分の創造物」であることが得心いっているのなら、そんな風に「好き/嫌い」の
区別ができること自体がおかしいと思ったのです。
だから、それってエゴの判断、基準をまだ持ってることだよなーって思いました。
更に言うと、そういう絵とかキャンバスとかいう概念を用いて、充足感を得ている以上、
それはつくりものなんじゃないか?って思ったのです。
本当の私は美人を見ても、大金を見ても何も感じてはいないんじゃないか、という風に。
例えばですね、テレビで可愛い子を見て「あぁ、これも俺の創造物なんだ、かわいいなぁ」
と思った後に「なんか自分の創造物だと思うと存在してくれてるだけで、ありがたいなぁ、ありがとう」
なんて感謝の気持ち、良い感情、充足感があるのですが、
一方で、自分が嫌だと思っているものを見て、「あぁ、これに対しては嫌だと感じている、
あれ?なんで好き嫌いがあるんだろう?まだエゴなんじゃね?」とか思った次第であります。
また充足感と自分で言っておりますが、
「これって単なる期待じゃね?期待したっていつも叶わなかったよなぁ」
「ってことは、ポジティブな感情状態より、フラットな淡々とした意識のが正解なのかも?」
とかも思いました。
うーん、なんか自分で書いてて、本当エゴの塊だなと思いますがw
多分お聞きしたいのは、願望のイメージやらを浮かべた時に湧いてくるポジティブな感情は
是か否か、という一点に尽きるかもしれません。
59 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/06/03(金) 20:27:21 ID:psg5Ebes0
≫ 願望のイメージやらを浮かべた時に湧いてくるポジティブな感情は是か否か、
是も否もないですwそこを判断しようとするのがエゴ。
「これでいいんだろうか」という思考に同化してるからそんなことで悩んでるだけ。
そこに気づけば「自分はそう考えてるんだなー」で終わればいい。