自己観察さん-94/「内面での決定こそが現実をもたらしてるのだ」ということを ちゃんと理解する

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158 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 02:29:54 aGwyoWj60

元がここは世界=自分ていう前提が、それが真実であれ何であれ、あるだろ?
君は多分違う定義を持っていたから、そこは疑問に思うのは当然だろうね
君が相手に何かを教えたいとここに書き込む事自体、その世界観からすると矛盾するってことだろうね

君がここに書いて誰かを説得しようと目論む事、質問してみようとする事、
自分を世界から分離した確固たる存在として振る舞う事がここでいうエゴにあたると思ってる

ただ、大事なのは君の様に、何を採用しようと上手く行くことだからね
ここで密やかにまかり通るルールと、君の持つ理論は最初から相入れないのかもね
因みに賢人のアドバイスもエゴじゃないか?は、場合によるがそうだと思う、というのが自分の意見かな

 

161 名前: 158 投稿日: 2011/08/11(木) 02:34:44 aGwyoWj60

≫158
そして書いていて笑えてくるが、これを書いている自分も大きな矛盾を抱えているね

 

170 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 12:59:00 ID:psg5Ebes0

≫161
横失礼。
自分が全体性そのものであるとき、「私」と「他人」がここで意見を交換してるのを見て、
「私」が「私の投影である他人」と意見交換してるから矛盾してる、とは見ないよ。
そのとき「私」であり「他人」であると同時に、「私」はなく「他人」もない、
ただ世界の全体として、「そういう現象が起きている」と見える。そこに矛盾なんてない。

「自分=世界」は「自分という実在の現れである世界」ということなんだけど、
実在である自分は一なるもの、で世界はその「一なるもの」を多様性の中で表現してるものです。
だから自分である「私」と、自分である「他人」がけんかしようと、
何かを教えようと、ただ「そうである」というだけ。

そこに「矛盾がある」とするのが
「全体性として現象を見ることができない個の意識」からの認識です。

だからここで多くの人が認識している「自分=世界」は、「私=世界」でしかないです。
「私」として世界を見るから、そういったことが矛盾に見えるんですね。
ここでの「私」はいわゆるエゴ、全体性の自分ではなく、個人としての「私」です。
だから「自分=世界」という真実の一端でしかないです。

その一端は間違いではないので、願望=実現に関してそこをうまく活用できるといいと思いますが、
一端の部分だけを真実として世界全体を解釈しようとすると矛盾が生じるのだと思います。

 

175 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 14:29:01 9tSUxKpIO

≫170
自己観察さんかな?
いろいろ理解しているみたいだから2つ程質問してもいい?

(1)「エゴ」の明確な定義ってなんですか?
(2)≫170にかかれてる内容は真実の一端ではなく真実の全体像だってことかな?

よろしくお願いします(・∀・)

 

181 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 16:23:35 ID:psg5Ebes0

≫175
(1)エゴ=全体と繋がっていないと認識してる個人レベルの意識、かな。
でもここではそのうちのネガティブな側面だけがクローズアップされて
「エゴ=悪者、不要なもの」的な解釈が多いけど、ポジティブな面はあまり出てこないので、
ネガティブなものだけがエゴだとする偏った解釈になってる人が多いんだと思う。

だから「エゴ」という言葉の認識が、それぞれちがうというのは私もそう感じています。

私自身も思考や感情を指して「エゴ」と書いたりしてる部分も多いので正確には
「全体と繋がっていないと認識してる個人レベルの意識を前提とした」思考や
感情のことだったりするんですが、

ただ「ネガティブな思考や感情」として受け取る方が多いと思うので、
結果、「エゴ=ネガティブなもの」という図式が出来上がってるので、
誤解させてるとこもあると思います。

さっきちょっとうまく書けなかったんだけど、「自分=世界」というのも
『「私」と認識してる個人意識』がその投影として世界を見る、ということ自体は
(1)のエゴの認識の範疇なんだけど、エゴにとってわかりやすい願望実現の解釈のしかただと思う。
isaさんがどこまで「自分=世界」を言及したか覚えてないけど、たぶん、
エゴでわかりやすく解釈できる範囲にとどめていたような気がします。

だからあなたの言う「エゴというのを使って自分=世界を説明するとパラドックスが発生する」
というのはその通りで、そもそも「自分=世界」とすると、自分が世界全体ということだから、
本来なら全体性と繋がってないエゴが「世界全体」を認識できるはずはなく、それ自体が矛盾してます。
だからエゴで認識してる「自分=世界」は、ある意味方便的な表現に過ぎないと思ってます。

≫170で書きたかったのは、エゴで解釈してる「自分=世界」と、
全体的な理解で「自分=世界」をみるのとは、まったく性質がちがう、ということでした。
実際、願望実現への活用としてなら、わかりやすい解釈だと思うので、
エゴのポジティブな側面として利用すればいいと思ってるんだけど、時々話題になる

「自分=世界なのに、他人にアドバイスすることは自分にアドバイスしてるってことだし、
結局自分がアドバイスの対象を作ってるってことだ」

という見方には、「自分=世界」を思考レベルで解釈してることがそもそも矛盾じゃね?
ってことを言いたくなったんです。

でも説明するとなると、やっぱ難しいです。

だから(2)については真実の全体像だと断言できるほど
全体像をつかんでるわけでもないですが、少しはそれに近いと思います。
あとこういう理論的なところは、願望実現に関係なくもないけど、理解必須というわけでなく、
私にとっても実益を兼ねた趣味wなので書いてるだけなので、興味ない人はそれ以上
追及することなく願望の方に集中してくれればいいと思ってます。

 

182 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 17:36:03 d.a5oGL.0

≫181
自己観察さんの言うことが嘘だとか言いたいわけじゃないんだけど
これだけ色々説明してくれるのに、未だに上手くいかない人が多いのは何故だと思われますか?
みんな、べつに実践してないわけじゃないとは思うんですよ
勘違いしてるとかはあるかもですが

 

183 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 19:36:26 ic/qkSJI0

≫182
横でごめんだし、あくまで推測なんだけど、因果関係的に捉えてる人が多いからだと思う。

これまでやってきた当たり前の捉え方。
正しい原因になる事で、適切な結果を得ようというやり方。
自己観察はむしろそういった因果関係の外に出ることだとおもう。

だから自己観察という「正しい原因」になる事で、
因果関係に従って「正しい結果」を得るという風に捉えてしまう気がする。
だからやっぱり正しく適用出来てないってことになると思う。

これまで積み重ねてきた既存の価値観のアプローチとは全然違う方向性だと思うから、
上手くいかない人がいるのはしょうがないと思うよ。
でも上手くいってる人もいるから。上手くいってない人の方がたくさん書き込むというだけで。
むしろ上手くいってる人はROMってると思う。

 

191 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 21:26:27 ID:psg5Ebes0

≫182
うーん、覚悟とか余裕とかですかね?
私がこれまで「うまくいかない」という訴えを聞いてきた感じでは
「深刻な問題だ」としてる人ほど、誰かに何かに縋りたい、でも余裕がないから、
アドバイスの全体像がつかめない、とかそんな人が多い気がします。

基本的な部分を理解できてないで、とにかく何とかしたいから手っ取り早くわからない
(と思ってるところだけ)質問して付け焼刃的にやってる人とか。

本人なりに真剣なんだと思うんですが、急がば回れみたいな、
じっくり取り組む覚悟とかがある程度必要かな、と。
せめてチケット読み直せばいいんじゃないかな、と思う人は結構いました。

結局は「どう実践するか」よりも基本的な認識の部分が大きいと思うんですよ。
ある程度、認識の段階で理解納得できていれば、実践もスムーズなんではないかと思います。

≫183さんの方向性の違いというのとなんだか似てるけど、
エゴはどうしても新しいやり方には反発しがちなので、その新しいことをスムーズにやるには
ある程度のエゴの成熟度(理解や納得)も必要なのだと思います。

それとうまくいってる人が実際多いか少ないかは知りようがないけど、
実際うまくいってる人は質問自体沸かないで自己完結できるだろうなってのはあると思う。

 

226 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/13(土) 15:44:51 ID:psg5Ebes0

≫182
ちょっと訂正というか追記させてください。表面的な感じで書いちゃったから。
何かメソッドなり意図なりしたときに、一瞬くらいは安心感を感じることもあると思うんですよ。
安心感というか、「叶ってるかも」みたいな実現を信じる気持ちみたいなのを。

でもそこで感じたものよりも、目の前に見える状況のほうを信じてるんですよね。
つまり内側で感じるものよりも、外側に見えるものの方が確かなものである、
というところから離れられていない。

外側の現実によって、叶ったかどうかを決定するというのは常識的判断ですが、
「内面の投影が現実である」が前提である以上、常識的判断を採用していると、
外側に決定権があるので、内面はいつまで立っても「叶った」と決定できない、
ということは外側の現実でも「叶わない」、というループでしかありません。^

前回、「基本的なところを理解してエゴが納得していれば」と書いたのは、
ここの部分をいかに納得するか、というのが大きいかと思います。

どこかでループを断ち切らなければずっと「叶わない」が続きます。
それは、「内面での決定こそが現実をもたらしてるのだ」ということを
ちゃんと理解するということです。理解するのはむしろここだけでいいんです。

でも理解しようとすると「どうしてそうなるのか」とか
「それを採用して内面で喜んでて最悪な結果になったら」とか
納得できない理由がでてくると思います。

たぶん、ここの部分で納得できないから質問のループに嵌ったり、
実践しても行き詰まってたりするんだと思います。

それを解消するにはよく言われてることですが、どうでもいい願望から
それを採用して自分の内面の信頼度を高めるとかだったり、または現実を見て
「確かに自分の内面で思ってることが実現してるわ」っていうのを実感することだったりなんですね。

詳しくないですがひねくれさん式というのが、それを実感するためのやり方のはずです。
あとは目の前の現実を疑ってみる、というやつですね。

ここがうまくいかないという人がつまずいて停滞してるところじゃないかと私は思ってるんですが、
これは一方的な見方にすぎないので、これに関して≫182さんはどう思われるかお聞きしたいです。
よろしくお願いします。

 

184 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 20:07:20 9tSUxKpIO

≫181
自己観察さん返答ありがとうございます(・∀・)

≫だから(2)については真実の全体像だと断言できるほど
全体像をつかんでるわけでもないですが、少しはそれに近いと思います。

まず(2)からだけど、「真実の全体像をを掴んでいる訳ではない」この答えが聞けたので一応満足。
ただできれば「全体像を掴んでないのにより真実に近いと言える理由」これがあるなら是非聞きたいな。

≫(1)エゴ=全体と繋がっていないと認識してる個人レベルの意識、かな。
≫正確には「全体と繋がっていないと認識してる個人レベルの意識を前提とした」思考や感情のこと

これが自己観察さんのエゴに対する定義だよね。この定義を前提に話を進めると
エゴ=全体と繋がっていないと認識してる個人レベルの意識を前提とした思考や感情のこと

ここで質問なんだけど、自己観察さんは「世界=自分」を
エゴで認識してるままで構わないって立場ってことかな?

結局、目的は願望達成なのだから自己観察さんの定義でいくと
エゴで認識することをやめる理由がまずないよね?(どっちにしろ叶うんだから)
それなのにエゴで認識することをやめること又はエゴで認識していることに気づくのを
推奨するということはちょっとした矛盾じゃないかな?

結局、
(1)実はエゴで認識したままでは「世界=自分」は存在していない
(2)そもそもエゴの定義が間違い(もしくは不足がある)
(3)現実は非情だ(ry

のいづれかのルートで説明しないと自己観察さんが
アドバイスを行う正当性を失うと思うんだけどどうだろう?

≫エゴで解釈してる「自分=世界」と、全体的な理解で「自分=世界」をみるのとは、
≫まったく性質がちがう、ということでした。

あとこれも(2)と関連するけど、
「真実の全体像を掴んでないのにより性質が違うと断言できる理由」があれば教えて欲しいな。

 

192 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/08/11(木) 21:27:13 ID:psg5Ebes0

≫184
≫ただできれば「全体像を掴んでないのにより真実に近いと言える理由」これがあるなら是非聞きたいな。

理由といえば自分の体験からということになるけど、
≫170でいえば、真実の自己とは「私」であり「他人」であり、同時に
「私」でもなく「他人」でもなくただひとつの存在、ただひとつの意識であった、という感覚です。

真実の自己とは「ただ在る」だけでそこから生じてくる全ての現象は矛盾なく
「ただ起きてるだけ」というのが腑に落ちたから。ということになるのかな。
これがおおまかな全体像になるんだろうなと思ってるけど、まだ私が認識できてるものが
全てとは思っていないので、そこはまだ断言するまではいかないと思ってる。

≫ここで質問なんだけど、自己観察さんは「世界=自分」をエゴで認識してるままで
≫構わないって立場ってことかな?

願望達成が目的なら、問題ないと思う。
でもそれは「自分=世界」をエゴで認識してる人はそれはそれでいいし
(理解することが目的ではないので)もっと進んで、全体性の中にありながら
自分から世界が起きているのを見るのもいいよ、って感じで書いています。

つまり人それぞれでいいので統一する必要はないけど、
より深い理解をしたいという方には後者をおすすめします。

≫結局、目的は願望達成なのだから自己観察さんの定義でいくと
≫エゴで認識することをやめる理由がまずないよね?(どっちにしろ叶うんだから)

私の定義でいくと、エゴという個人意識を取り下げれば、そこはもう
「別の領域」という実現の領域だ、という感じです。

自己観察とか自愛もそうなんですが、エゴで認識してるところから
全体的な認識にシフトするのがキモだと思ってます。
なので、全体的に私の定義とか自己観察について誤解があるかと。

≫それなのにエゴで認識することをやめること又はエゴで認識していることに気づくのを
≫推奨するということはちょっとした矛盾じゃないかな?

エゴで認識すること、エゴで認識していることに気づくことを推奨してるのではなく、
「願望実現に関して不要な」エゴを取り下げることを推奨しています。
そのための前段階として、エゴで認識すること、それに気づくことが必要だという感じです。
どっちにしても自己観察的には矛盾はありませんが。

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