416:もぎりの名無しさん[sage] 2011/01/22(土) 17:00:04 ID:lN6BKD.6O
桑田さんに質問です。
例のベニヤ板の例え分かりやすくてありがとう。
ただ、ビー玉が行きたいなら板である腕(空間)が右へ傾けりゃいいのは分かりました。
でも、その腕(空間)には自由意志は無いのですよね?
なのに右へ傾けれる自由意志はあるのですか?
自由意志が無い空間なのに誰が?どう?板を傾けるのでしょう?
そして、それを現実に応用するならば、どう例えられますか?
板の上でビー玉が「彼氏彼女が欲しい」とします。で、桑田さんがおっしゃられるビー玉は「何もしない」というか、何も出来ないでしょう。
欲しい立ち位置からのアクションになるので反って分離を生んだり、過剰ポがかかったりするでしょう。
で、さぁここで「周りの全てが自分だ!」という意識サイドに立ったとします。
そこで「自由意志もクソもない」と桑田さんがおっしゃられるベニヤ板の腕(空間)、つまり「周りの全てである自分」だが、ここでベニヤ板を傾けるとは、この立ち位置でどうアプローチすればいいのでしょう?
自由意志がないのにベニヤ板はどういう作用で傾くのでしょう?
「何もしない」のにビー玉は右へ傾くのか?
いや「何もしない」のにベニヤ板はどう?なぜ傾くのか?
「周りの世界が自分」でもこの世に肉体として生を受けたビー玉の事も愛しく、ビー玉の望み、意志も聞き入れ、尊重し、ビー玉の願いも叶えてやりたいのだ。
それがここの板の全ての人の願い、意志だと思うんですよ。
是非教えて下さい。
526:もぎりの名無しさん 2011/01/26(水) 23:19:52 391VQqOM0
≫416
上記の内容の補足みたいな感じにもなりますが・・・。
これについては転がってる玉(エゴ)を無くしてしまえば良いのです。
「玉を転がす」という書き方がいかにもコントロールが必要な印象を与えてしまったようで、これは私の文章がただ単に下手なだけです。
実際は認識が変われば玉(エゴ)自体は無くなります。
私程度ではまだまだエゴが完全に無くなっていませんが、既にエゴと自分を同一視は
まったくしていない(出来ない)ので子供のイタズラを笑ってスルーするような
愛おしさをエゴに対して感じています。
ある程度認識が変化してきた人でも、何かその人の中で譲れない、これだけは無くしたくないという、いわゆる「本願」とか言われているものが根強く残る場合が多いようです。
例えば家族をとても大事にしている人が認識の変化を経験し
「実は生まれてなんていなかったでござる、全部エゴのまやかしだったでござる」
「ああ、全部完璧でござる。ニンニン」と言っているとします。
その人に対し「あなたは本当は生まれても無いわけだから奥さんや子供も本来は存在しないんですよね」とか言うと「とんでもない事を言うな、喝ーーーっ!!」と過剰に反応する場合があります。
これは認識の変化によって居場所を失ったエゴが、最後のあがきとしてその人の最も大切にしている願いを利用しているケースです。
つまり「私は世界が自分であると認識した!ウヒョー」に対し
「じゃあそれを利用して本願を叶えましょうや!ウヒョー」と知らず知らずの内に巧妙にエゴが寄生するのです。
認識の変化の初期は強い幸福感を感じるものです、その幸福感に紛れ「こんなに幸福なら本願だって叶うよ、イヒヒヒヒ」と潜り込むのです。
これでは「優秀なメソッドを探すでござる」→「見つけたでござる」のエゴの堂々巡りと何も変わっていません。
叶えるという概念がある以上、それは不足を求めているのと同じです、ただ単に言葉が変わっただけで認識は1ミリも変わっていません。
では自由意志を越えた領域に潜り込むにはどうすれば良いのでしょうか、潜り込むというか、結局前と同じ内容を表現を変えて書くだけですが。
誤解を生む可能性があるので、願望実現という言葉はあまり使いたくないのですが、願望の実現を言葉にせよと言われたら「静寂の中で静寂を知る」行為と言えます。
静寂は、それを静寂と認識するものがいないと静寂になり得ません。
それと同じく空間も、それが空間であると認識するものがいないと空間となり得ません。
呼吸も、それが通過する肉体(と認識しているもの)が無いと呼吸となり得ません。
では何故まわりが静かだと「静寂」を創れるのでしょうか。
何故、空を見上げると「空間に」青空が広がっていると感じるのでしょうか。
何故、「呼吸」すると「呼吸」という概念が瞬時にわかるのですか?
何故「お金」という言葉を見たり聞いたりすると一万円札が
浮かぶのでしょうか(500円玉でも良いんですけど)そもそもなんで一万円札とわかるのですか?
色でわかる?形で?紙だから?諭吉のオッサンが書いてあるから?
じゃあそれらの概念を瞬時に創っているのは誰ですか?
そして瞬時に今は未来だと過去だとか判断しているのは?
「時間」も「時間」を感じるものがいないと「時間」は成り立ちませんよね。
そして今は「それを持っていない」とか「持っている」とか判断しているのは?
一体誰が静寂を静寂たらしめ、誰が空間を空間たらしめ、誰が呼吸を呼吸たらしめ、
誰がお札をお札たらしめているのでしょうか?
自由意志で「行っている」と思っている誤解の元の全てはここにあります。
「何々をやろう」「何々を得よう」というのは瞬時に浮かんだ思考やイメージに操られているに過ぎないという事です。
ちょっと文章にするのが難しいですが、普段、普通に呼吸する時は特に何も考えてないと思います、呼吸した後に「呼吸」という思考・概念・イメージを「それ」(この場合は呼吸という行為)にくっつけて、「ああ、呼吸している」と感じるわけです。
なんで「それ」が浮かぶんでしょうか?自分が創ったからですね。
そして名前を付けられない「それ」に思考や概念・イメージをくっつけて、いかにも「これがあなたの真実だよ」みたいな顔をしていたのがエゴだったんです。
世界は、自分の内面で創った「それ」がそっくりそのまま投影されていただけだったのです。
自分こそ「それ」だったのです。
「それ」に気付く事が出来れば、紛れも無くこの世界は自分であり自分だけ、という真実が見えてきます。
良いも悪いもなく、全ては完璧としか言えない宇宙が、本当の自分です。
625 :もぎりの名無しさん:2011/02/01(火) 23:37:32 ID:1p0tIfYIO
桑田タソ、認識の変化を起こして
「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う」
そうすればエゴではなく「世界」が、あなたという「現実世界での取りあえずの形」を通して動き出すでしょう。
ってゆーのがよくわからぬのですが、どしてとりあえずの形で動くの?
自我はいないのに? というか自我と世界はまるごと私なのに?
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626 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 00:26:38 ID:391VQqOM0
≫625
「起こって欲しい事、他人にして欲しい事を自分から周りに対して行う」
これは≫366をもう一回読んで頂きたいのですが、別にやるやらないは大した問題ではないです。
認識が変われば他人という概念は薄くなるので、自然と親切になるという事だけです。
「やらなくてはならない」メソッドとかでは無いのでその辺は誤解しないでください。
そうすればエゴではなく「世界」が、あなたという
「現実世界での取りあえずの形」を通して動き出すでしょう。
ちょっとわかり辛いかもしれないですが、
例えば「あなた」が前に歩けば前方の空間がどんどん「あなた」に吸い込まれていきますよね。
「あなた」と世界がまるごと同じだからです、そしてそれらの概念を創っているのが本当の自分です。全てを創っているわけです。
627 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 01:20:26 ID:1p0tIfYIO
≫626
レスありがとです
自分はまだ自我の枠から出たり入ったりしてるけど、それもただ眺めるでいいのかな?
>例えば「あなた」が前に歩けば前方の空間がどんどん「あなた」に吸い込まれていきますよね。
>「あなた」と世界がまるごと同じだからです
え!wこれは一体?ww
叶ってるという言い方はおかしいかもだけど、世界で叶ってるのに自我(現実世界での自分)の自分でも叶って見えるってのがなんか二重に叶ってるように思ってしまう
イミフだったらすまぬよ
628 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 01:50:13 ID:391VQqOM0
≫627
別に「え!wこれは一体?ww」と感じ、意味がわからなくても大丈夫です、
意味がわからない方が却って変化のチャンスでもあるかもしれません。
ですから私の書いた文を説明書やメソッドを学ぶような感じで読まない方が良いです。
こんなもん流し読みで十分です。
今、≫626で私が書いた文を見て「え!wこれは一体?ww」と思ったのは
今までエゴが作り上げた経験則その他で判断し、「意味わからん」と思ったわけです。
まさに「意味わからん文章」を瞬時に創ったではありませんか。
これで全ては自分の内面の投影であり、全てを瞬時に創る事が出来ると証明されました。
その創ったものがエゴがによって脚色されているか、そうでないかだけです。
≫526で書いた「それ」は常にあるんですが、エゴによって気が付けないだけなのです。
631 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 04:36:41 ID:pLA8e/RI0
桑田さん
何処にもいなかった意識ってなんですか?
640 :もぎりの名無しさん:2011/02/02(水) 23:35:32 ID:391VQqOM0
≫631
「あなたの両親が生まれる前に、あなたは何処にもいなかった意識としていた」と言われ、「何が何だかさっぱりわからん」と浮かぶなら、それが正しい答えです。
あるいは「いや、拙者は伊賀の里にいたのでござる」と浮かぶなら、それも正しいです。
この質問の狙いは、その答えが浮かぶ前の「意識」を感じて頂きたいのです。
ですから以前書いた映写機云々やその他の内容も、この「意識」に対するフィーリングを感じて、単純な認識の変化を感じて頂きたいのです。
昨日も似たような事を書きましたが、私が書いた内容を「メソッド」の類と思ってそれらを体現しようとしてはいけません。
「メソッド」を追い求めると高い確率で「メソッド」によってエゴまみれになります。
「私、メソッド知ってる(出来る)人・あなた、知らない(出来ない)人」という
明確な「分離」が始まるからです。
ただ「認識の変化云々」とか文章で書いてしまうとどうしても
「メソッド」的な表現になってしまうのが苦しい所ですが。
本来は最初から「在る」のです。
何故なら「在ると感じている」ものしか自分が創造している世界には現れないからです。
じゃあ何で俺の願望は叶わないのでござるかって?
それは紛れも無く自分自身が創ったから望み通りの世界が出来ただけです。
「時計」を見れば「時間」を創り、
それに伴い「過去」「未来」を創り、
それに「他人」が絡んでくれば「あの人」を創り、
「あの人はこういう性格で云々」と創り、
「だからあの人がいると~何々で嫌なんだよな」と創り、
「ああ嫌だ、願望実現の本でも読もう」という連続ストーリー(に見える物語)を創り上げています。
実際は瞬間瞬間にエゴが介入し、いかにも続き物のような話を創り上げているだけです。
何度も書いてる気がしますが、全部エゴのまやかしです、それに気付けば良いのです。
エゴストーリーと本当の自分には何の関連性もありません、
本当の自分は連続ストーリーを眺めているだけで、ずっと静止しています。
文章で書くと誤解を招くかもしれませんが、「豊かさ」や「愛情」といった感覚も感じようと思えば感じられるはずです。
エゴが勝手に話を進めても、本来関係ないのですから、それによってそれらの感覚が妨げられる事はありません。
なんで「豊かさ」あるいは「愛情」という感覚を感じられるのに
わざわざ「何々をしなければ何々を得られない」
あるいは「いつか、そのうちに」とか「もっと優れたメソッドを」とか
「桑田の顔になれば・・・」とかのレッテルを貼るのですか、感覚を感じられるって事は「在る」から感じられるわけですよ、無かったら感じられるわけ無いですよね。
花を見て美しいと感じられるのは花が美しいのではなく、あなた自身が美を持っているからです。
お金を見て豊かさを感じられるのは、あなた自身が豊かだからです。
世界は常に自分自身です。
ですから最初からおきあがりこぼしのように完璧なバランスがとれているのです。
おきあがりこぼしを立たせたかったら、あれこれ押したり引いたりせずに「何もしない」のがベストなのです。