Wildさん-54/意図すら自然にわいているのだからなにもすることはないと認識が進んでる人がよくいうので意図が自然にわいてきてもうそれで終了というのが真実なんでしょうね~

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606:wild:2016/10/27(木) 11:14:16 ID:GkiSlkEY0

≫605
Mさん。

ACIM理論は私は全く詳しくないのですが、昔あるACIM実践者の方から聖霊の声を真剣に聞いてみて下さいと言われた経験がありますw

で、実際に真剣に聞いてみたんです。
何回も何回も真剣に耳の奥に集中して聖霊の声を聞いてみた。
そしたら…
何にも聞こえないw

でもこの時初めて気づいたんです。
世間の喧騒、雑音の裏に広がりる無音の世界。
自分が不足と充足のどちらにも片寄ることのない平穏な静けさに没入していたことにハッと気づきました。
聖霊の声とはこのことか!?
と驚きましたが、

 

≫ACIMは神との完璧な一体である天国が現実でありこの世界は神の子が見ている二元性の夢であって神を思い出すことで二元性相対性の夢から現実である神の絶対性の天国に目覚めるという感じなんですよね

これってその時の状態と同じかもしれないと思いましたがどうなんでしょ?
違うかな~w

607:M:2016/10/27(木) 11:51:54 ID:xMqm0eew0

≫606
非ACIM実践者に聖霊の声を聞け!と言うのもなかなかぶっ飛んでる感じもしますねw
聖霊の声を本当の意味で聞けるという人もいるけどそう多くはないと言うように書いてあったはずですしw
声というよりはインスピレーションのようなもので与えられたり他人の言葉を通して聖霊が教えてくれるという方が多いと言うような感じのようです

聖霊の声を聞くとは聖霊に問いかけ答えてもらうということも出来ると思います
そういう意味では108さんのいう別の領域への問いかけとも同じことなのではないかと感じます

あとはACIMでは心の平安というのをとても重要視していますからwildさんの体験も大いに関係あると感じます

ACIMと108理論の共通点として二元性相対性の世界はエゴが作った錯覚であり神の世界は絶対的充足である
そこで本当の現実である神の完璧を思い出すことで錯覚が消えていき絶対的充足の世界が見えてくる
ここが個人的に大きなポイントだと感じてます

608:wild:2016/10/28(金) 19:52:19 ID:Tf3tqyWs0

Mさん。

実践者さん「必ず聖霊は囁きかけてきます。」

私「せ、聖霊!?はぁ…」

後日、
私「聖霊の声とは音の裏の音のことですよね!?」

実践者さん「聖霊も良いですけどね、それよりハーディングの実験というものがありましてね?」

という流れでACIMのことはよくわからぬままいつの間にかハーディング実践者になってしまったという…。
あの時の実践者さんは今いずこへw

当時の私は常に心の安らぎを求めてましたから、この時は本当に安らぎが答えとして返ってきてたことに驚きました。
今考えると神とはやはりひとつの意識「これ」のことであり、聖霊とはエゴの私に働きかける「これ」の顕現かなと思います。
宗教的背景のため普段見慣れた表現とは違いますが、同じことなんでしょうね。

しかしあれですね、エゴとは別の領域に気づいた時に訪れる安らぎ、ハートが開いた感覚のことを皆さん「充足」と仰ってるんでしょうかね。
そう言えば最近は別の領域って言葉をあまり見かけませんがw
強力な引力を持つエゴから離れた充足の領域に留まることは、やっぱり在り方としては大事なのかもしれません。

その位置から私に意図が起こり、私の世界が動く様をただ観る。いの間にか実現する。
初めはこれなのかな~。
それも条件と叱られそうですがw

609:498:2016/10/28(金) 22:09:30 ID:7KKocKa60

≫608
ひょっとすると私は、願望をもつことすら自分に許してなかったのかな、なんて思い始めました。

意図ってなんなんでしょうね。誰が意図するんでしょう。自分?世界?自分=世界だから、自分から意図しようが湧いてきた意図であろうが同じなのかな?7章なら願望(意図)=実現ですもんね。これ、wildさんはどう思われますか?

610:wild:2016/10/28(金) 23:36:36 ID:Tf3tqyWs0

≫609
意図…そうですね、

またややこしい表現になりますが、

あえて「わたし」を中心に据えて外側内側で考えると、
内側で起きる意図というのは外側を展開させるための衝動、苦なんだろうなと思ってます。

どんな小さな行動も、微細な衝動から起きてると感じますし、衝動がなければ何も展開しませんからね。
また衝動を起こさせる外側のきっかけも、「わたし」が起こしています。
純粋な衝動に色々と思考がくっつくと願望となるのではないでしょうか。

きっかけを起こす外側、
衝動を起こす内側、
両輪揃って「わたし」、
「私=世界」なのかなと思います。

私=世界なのですから、
全部世界が起こしていると言えますし、全部私が起こしているとも言えますね。

全部世界に丸投げでも、全部私の意図でも、どちらの考えでも結局は同じなんでしょうね。

611:wild:2016/10/28(金) 23:52:41 ID:Tf3tqyWs0

≫610
やっぱりややこし過ぎました…すみませんw

≫ 自分から意図しようが湧いてきた意図であろうが同じなのかな?

その通りだと思います!

612:M:2016/10/29(土) 00:10:02 ID:3dFzurg.0

≫608
僕自身ACIMを学ぶまでキリスト教との接点は幼稚園がキリスト教系だったということしかなかったですし表現に慣れるまで難しいと感じてましたからねw

個人的にはACIMは理論的知識的理解として色々学んだものの中で一番整合性が取れた説明をしてくれているのでどうも引用したくなってしまいます

(仏教もおそらく同じレベルで解明してるんでしょうけど僕には難しくて入り込めないというのもありますがw)

永遠で無限で無形で完璧で恒常である現実にいる私たちがその真逆である世界を夢見ている
その二元性相対性の夢の中で輪廻転生を繰り返し現実を忘れている私たちは現実を思い出すことで目覚める
現実の完璧さを夢の中で思い出し夢の中に反映させることでどんどんと本当の意味でリアルな夢になっていきついには夢から覚めて現実に戻る
というのが宗教的な要素を抜いたACIM理論という感じです

≫609
横レスですが純粋な意図という表現を見かけますけどそういうのが内から自然とわいてきた意図なのかと思います

よく水飲みたいというのとすべての願望(意図)は同じと言われますけど

◯◯したいという自然な意図がわくそしてそのためには××と言うふうに意図を歪めたり、したいといってもできる気がしないなど純粋な意図を歪めたり批評したりしているのがエゴなんだろうなと最近感じます

意図すら自然にわいているのだからなにもすることはないと認識が進んでる人がよくいうので意図が自然にわいてきてもうそれで終了というのが真実なんでしょうね~

(ただそれくらい認識が進まないとその意図を取り下げしてしまうというのはあると思いますが)

613:幸せな名無しさん:2016/10/29(土) 08:41:09 ID:4oXAoW

420

意図が何なのか分からんでも叶うもんだっていう受け入れ態勢だば叶うや。

そもそもやっぱどっかで「叶うのは難しい」とかの考えがどっかにあるから叶うのを妨げてるというか、よく言われてた受け取ってないとかなんだろね。

受け取るか受け取れてないかだけとは達人もよく言ってたな。

最初から受け取るも受け取らないも手の中にあったが既にある。

エゴがあーだこーだ言うならエゴにどーせ力ないんだから放っておけと思えたならシメたものだな。

614:498:2016/10/29(土) 10:03:20 ID:9JGhAQr.0

≫610-613
ありがとうございます。
意図について私はコントロール権を振るいたかったようです。

「何も意図しなければ、神は最善を与えてくれるはずがない、現実はもっと悪い方に行く」と。
まだ何かよくわからない抵抗がある感じがしますが、まあ。

「願望はエゴではない」といろんな人は言いますが、私はなんかそこを押さえつけているような…
こう生きたい、という生命表現。それを限定的に歪めるのがエゴ、と108さんのブログ記事にあるように、なんか先入観で自分を限定しているような感じ。
ああ、願望は自由に持っていいんですね。まだ叶わないのが怖いのか、俺w

既にあるから受け取るだけ。
結局、望む状況を受け取ることを、なんやかんや理由つけて(「願望=エゴだからダメ」w)受け取ろうとしてないんだなあ…

615:498:2016/10/29(土) 10:13:43 ID:9JGhAQr.0

≫614
受け取らない言い訳、理由付けが、
現実的判断によるものにせよスピ的知識に基づく制限にせよ、
自分は受け取っちゃいけないと思い込ませる点で一緒、ですね。

なんも妨げなければ現象化と関係なく願望を通じて充足は流れ込んできますもんね。

 

≫願望をエゴと関連付けないことです。

エゴから出てきたものだとしても、願望自体は既に実現しているものです

 

616:M:2016/10/29(土) 12:16:17 ID:3dFzurg.0

≫614
エゴとは全体から分離された自己という錯覚と言われますよね
本当は分離していない全体しかないと
エゴすらも全体の一部ということですよね

 

そう考えるとエゴから出た願望も全体の一部と言えるんじゃないでしょうか
極端に言うともしエゴから出たものがダメなら水飲みたい飯食いたいというのすらダメとなってしまいますしね(こう考えると節制せいという仏教はエゴ否定アプローチな気もしますがw)
そこでこれはエゴだからよくないという判断をしている視点こそエゴなのではないかなと感じました

 

これはエゴだからダメだというのは判断であり裁きですよね
逆にエゴでもいいんだよというのは愛であり許しですからやはりどちらがエゴかというのもわかると思います
ということで許し=自愛にやはり行き着きますね

あと神が最善をくれるのか?に関しては僕も神という概念と向き合っていた時は色々と考えました
特にACIM的な神、神聖で無辜で愛である神なわけですからエゴ的な邪な願いなんて聞いてくれるのか???などと結構悶々としてましたw

これはある意味エゴが神を勝手に概念化してるってことなんですよね
つまりエゴが神を制限しているわけです
本当は神とはすべてを許し許容し愛してくれる存在な訳なんですよね

もしめっちゃくちゃ優しくて寛容で親切でどんなことでも許してくれて受け入れて愛してくれるさらに万能な存在がいるとしたらなんでも言うことを聞いてくれると感じませんかね?
このような神とは違うエゴの神の概念化をしているのかもしれません

また神はこんなことを許してくれないとか自分には神の愛を受け取る資格はないという感じなら罪悪感から来ているものだと思います
となるとやはりまたしても自愛に行き着きますね

自愛は素晴らしいアプローチだと思いますね~
ACIMは他愛なわけですが

isaさんも言う通り世界を許し愛することは対象が大きすぎて効率が悪い
でも自分=世界なのだからどちらを愛するのも同じであるのだから対象の小さく効率のいい自分を愛せばいい
なんか全体的に自愛のプロモーションのようになりましたがこんな感じですw

617:498:2016/10/29(土) 12:29:35 ID:9JGhAQr.0

≫616
ありがとうございます、少しずつかみしめながら読んでいます。
DEBUG2の紙さんの前半と似たような感覚、かもしれません。
神は最良も最悪も等しく持ってくる、みたいな。

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