446:wild:2016/08/06(土) 23:22:26 ID:9PeOLbE20
≫443
真昼さん。
≫ 逆に、目の前に苦しみが見えているのはおかしいんですね。私が苦ですから、見えるはずがない。苦しみを認識できるはずがない。それなのに、目の前に苦が見えるなら、それは自分から離れているということです。そして、その苦こそ自分なので、それを受け取り拒否しているとそれはずっと自分の前に見え続ける。これが再配達の理論ですね。
うーん…鋭い!!
私はここまでの考えに及びませんでした。
そういえばそうですねー。
ここは簡単に誰でもわかる方法はないもんですかすね?
これやってれば勝手にできてるみたいなw
そんな都合の良い話はないかな…(–;)
≫やはり、「自分を知る」ということが、あらゆるメソッドの基本だなーと改めて思いました
これは常々そう思っています。
私=世界なんですから、普段のように世界ばかり見るのではなく、私に意識を向けることが大事です。
悟りも引き寄せも、私がキーポイントですよね。
≫ 三次元から高次元へと意識を上げて次元間を自由に行き来できるようになる、という特殊能力wを得ていく予定です。こう書くと、だいぶ怪しげで、すごくバカっぽいですねw
男のロマンw
これは仙道の世界ですねw
結局は高次元も私が作ったものなんですから、もしかしたら可能かもしれないですw
451:現象:2016/08/08(月) 18:38:46 ID:EoWmHgJk0
≫433
真昼さん
447さんは、かなり理詰めで、
よしおさんになってからは、理屈を突き抜けちゃった、て感じですよね。
上のwildさんへのレスで書いた「トートロジー」は、
理屈を突き抜けるためのポイントなのかも、と思ったんです。
思考(理屈)というのは結局は、言葉の配置・羅列でしかなくて、
言葉(思考)が虚空に浮かぶ閉鎖系だとしたら、
その言葉(思考)の外部にあるとされる気付き・悟りそのものを表現することはできない。
指さすことはできても、そのものを表すことはできない。
なんというか、ワープ、飛躍が必要なのではと。
「成る」も飛躍ですよね。理屈で考えたらワケが分からない。
真昼さんがお書きになっている「エゴという思考的なこわばり」を解いて、
その外部に在るもの。
細かく説明しようと思えば、いくらでも細かく説明できる。
でも、それは本質から遠ざかることにもなる。
幸福になりたければ幸福になればいい。
願望を叶えたかったら叶えればいい。
こういうことになるのかなぁ、と思ったり。
452:真昼:2016/08/08(月) 19:07:31 ID:RRB3EnLA0
≫451
現象さん、レスありがとうございます!
現象さんのレスでピンと来ましたよ。それです。トートロジーです。その通りなんです。
ちょっと仕事があるので、またあとで書き込みできればと思います。
とても良い気付きをありがとうございます!
453:真昼:2016/08/08(月) 23:38:13 ID:qtzX8jmE0
≫446
wildさん、レスありがとうございます。
ちょっと興奮して書き込んでしまいましたが、冷静になってみると自分で書いたことなのに良くわからなくなってしました。汗。
しかし、吐いたツバは飲み込めないという変なプライドから、色々と考えてみました。
≫ここは簡単に誰でもわかる方法はないもんですかすね?
これやってれば勝手にできてるみたいなw
インド哲学の言葉だったと思いますが「自分ではないものを自分だと思っているから、苦しみが生まれるのだ」という言葉があったと記憶しています。
要は自分を知るために苦しみという経験をするのではないでしょうか。
苦しみとは「自分から離れてますよ」というサインみたいな役割を果たしているのではないかな、と考察しますがどうですかね。
≫これは仙道の世界ですねw
結局は高次元も私が作ったものなんですから、もしかしたら可能かもしれないですw
何かに書いてあったんですが、例えば、水の中にボールを沈めるとします。これは三次元です。では、その時の水の表面(二次元)ではどう見えるかというと、突如点が出現して、その点がだんだん大きくなって、そしてだんだん小さくなって点が消えたように見えます。
つまり次元を変えると見え方が全く違うわけですね。
それが三次元(今、ここ、自分)で見えている世界も、高次元から見ると全く違う見え方になるはずですね。とすると、この次元に写っているのは何の写像なのか?
誠に気になるところですw
454:真昼:2016/08/09(火) 00:00:39 ID:a5OR4VBY0
現象さん。トートロジーというのにピンと来ましたよ!
結局、現象さんやwildさんのおっしゃる通り「見たから見える」んですね。
つまり、ただそういうことが起きているだけなんですね。
これはあらゆることに言えるわけで、幸せだから幸せなのであり、不幸だから不幸である。叶ったから叶ったのであり、叶ってないから叶ってない。
叶えるためにメソッド頑張るなら、それはそうなんでしょうし、
現実が動かないなら、それはそうなんでしょう。
現実が動いたなら、それはそうなんでしょう。
自由意思がないとしているなら、ないんでしょうし、
自由意思によって生きているとするなら自由意思はあります。
赤いと見たなら赤いんでしょうし、冷たいと感じたなら冷た……この辺にしときますw
つまり、それらを「解決すべき課題」としてとらえるならそれは「解決すべき課題」になってしまう。「叶えるべき願い」とするなら「叶えるべき願い」になる。(しつこいw)
「色々言ってるけど、ぶっちゃけどうなのよ?」の答えがそのままの答えになってる、ということでしょうかね。
でも結局これって何にも言っていないのと同じですよね。
なぜなら何も言う必要がないから。何もする必要がないから。そのままがそのままとしてあるだけだから。
なるほど。現象さんのおかげで、「こわばり」がひとつ緩みました。良い気付きを得ました。相変わらず、まとまりない文章ですがw
ともあれ、ありがとうございました。
455:真昼:2016/08/09(火) 00:07:38 ID:a5OR4VBY0
ムダなレスばかりで恐縮ですが、上のレスで
「色々言ってるけど、ぶっちゃけどうなのよ?」というのは、
「ぶっちゃけて言って、叶ってるの?叶ってないの?幸せなの?不幸なの?現実をどういう風に認識してるの?」
という問いが常に目の前にある、という意味で書いてます。
456:現象:2016/08/09(火) 02:36:34 ID:YVh4OQpo0
≫454
真昼さん
こちらこそ、いつもレスしていただき有り難うございます。
真昼さんにいただいたレスと内容が少しカブりますが、、
幸せだから幸せだ。苦しいから苦しい。楽しいから楽しい。美味しいから美味しい。赤色だから赤色だ。嫌いだから嫌いだ。怖いから怖い。
ひょっとしてトートロジーとは、
自分で貼ったレッテルを見て、あーだこーだ言ってるからトートロジーなのでしょうかねぇ。
自分でレッテルを貼ったのに、無意識に貼ったからレッテルとは気付かない、
レッテルだと気付いても自分で貼ったと思えない。
でも、たとえ気付かなくても、自分で貼ったという根源的な事実は変わらないので、
苦しみとは何か、と思考すると「これは苦しみである」と定義しているのは
自分が貼ったレッテルなので、苦しみとは苦しみである、としかいいようがない。
うーん、違うかなぁ。。。
なぜ苦しみは嫌な事なのか(別に苦しみが素敵な事でも構わないではないか)。
その理由は、苦しみとは嫌な事である、と定義されているから。
では、嫌な事とは何か。嫌な事とは、何らかの不幸を感じる事である。
では、不幸とは何か。不幸とは、何らかの苦しみを感じることである。
スタートの苦しみからゴールの苦しみに戻ってきました。
このスタートとゴールの間は、表現が許す限り
いくらでも延長することが可能です。しかし、最終的には苦しみに戻る。
これが上のレスに書いた、言語は閉鎖系という事です。
結局、苦しみとは苦しみのことである(トートロジー)、としか本当は言いようがない。
>つまり、ただそういうことが起きているだけなんですね。
>でも結局これって何にも言っていないのと同じですよね。
>なぜなら何も言う必要がないから。何もする必要がないから。
>そのままがそのままとしてあるだけだから。
そうなんですよね。
ここに自由意志が入る余地はあるのか、ないのか。
ないように思えるのですが、
真昼さんも、wildさんも、自由意志はある、というご見解ですよね?
457:真昼:2016/08/09(火) 12:35:34 ID:a5OR4VBY0
≫456
現象さん、レスありがとうございます。
≫これが上のレスに書いた、言語は閉鎖系という事です。
結局、苦しみとは苦しみのことである(トートロジー)、としか本当は言いようがない。
なるほど。例えば赤という色を定義するために、赤以外の全ての色を挙げていくようなものですね。赤とは青ではないもの、緑ではないもの、黄色ではない……このように。でも最終的に、「で、それってどんな色?」ということになりますね。「だから、赤い色だよ」というトートロジー。どこまで行っても「それはそれ」なんですね。
≫ここに自由意志が入る余地はあるのか、ないのか。
ないように思えるのですが、
真昼さんも、wildさんも、自由意志はある、というご見解ですよね?
私の見解は「自由意思があるとすればある、ないとすればない」という見も蓋もない結論なんですwすいません。wildさんはどうでしょうか?
どう見えてるかがそのままそこに見えてる、という感じです。
また、唯物論や唯心論などについても同じです。
あらゆる物質の中に私という物質があると見るなら、それはそはうですし、見えているものは全て幻で、それを認識する心だけがあると見るならそれはそうなんです。
そして、仏教などではその心すら幻だと説きます。つまりは現実など夢の中の夢だと。そしたら、寝ているときに見てる夢なんか、夢の中の夢の中の夢ですね。
なんじゃそりゃ、ですね。そしてそれを「なんじゃそりゃ」と見るなら、それは「なんじゃそりゃ」なんです。なんじゃそりゃw
なかなかに頭の悪い文章ですよ、これはwww
そして昨日の現象さんのレスを読んで思ったのは、
「自分は世界をどのように認識しているかをちゃんと分かっているんだろうか?」ということです。
それを知るための自己観察であり、自覚的に生きるということがあるのではないかと考えています。
458:真昼:2016/08/09(火) 13:01:12 ID:a5OR4VBY0
少し思考実験を思いついたので、紹介したいと思います。
一応オリジナルだと思っているんですが、既出かもしれません。パクってたら謝ります。
前日宇宙に関しての記事を読んだのですが、今現在、宇宙は膨張し続けているそうです。そして、その宇宙がもしも、収縮し始めたらどうなるか。時間が戻るそうです。ベクトルが逆を向くそうです。
そこで、実験です。
「もし、今から宇宙が収縮しはじめて、時間が戻り始めたらどうなるか?」
逆再生です。そこから壮大なつじつま合わせが始まります。
突如満腹感が現れます。
その満腹感の原因となった食べ物を口から吐き出します。
突如足の小指に激痛が走ります、そのあとにテーブルに小指をぶつけて痛みが消えます。
突如うれしい気持ちが湧きます。
そのあとに、人と出会って貰ったプレゼントを返します。
そして、今の意識をそのままに戻ったとしたら、次になにが起きるのかは知っているわけです。
今までの人生を逆再生していくと、楽しいことや悲しいことを色々経験をしてきたものを再体験していきます。
どうでしょうか?心境に変化が起きませんか?
「忘れてたけどこんなこともあったなあ。このあとこうなるんだよな」という眺めている視点を感じませんか?
色々あったけど全部良し、みたいな。
これはこれで面白い人生だなぁ、なんて思ったりしたのですが、僕だけですかね?
なんかうまく伝わったか分からないですけど、時間があったら試して見てください。
460:wild:2016/08/11(木) 23:27:07 ID:gKUq4NVA0
≫455
真昼さん。
≫ 「ぶっちゃけて言って、叶ってるの?叶ってないの?幸せなの?不幸なの?現実をどういう風に認識してるの?」という問いが常に目の前にある、という意味で書いてます
と言う場面、現れがただあるということですよね。
と言うことは、「叶っている」という現れ、思考が現れたらもうそれは既に叶っている世界ということになります。
そのすぐ後に「そうは言ってもやっぱり叶ってないや、気のせいか」と現れれればそのような世界が達成されている。
「じゃあ意図し続ければいいのか?」と現れればそのような世界が達成されている。
あーでもないこーでもないと思考すれば、そのような世界が達成されている。
エゴエゴだと、じゃあどうすれば?となりますが、ここは
エゴ的には「どんな現れが出てきても既に叶っている」なんでしょうね。
もしくはどんな現れが起きても「完璧!最善!」にすれば、それがすでに達成されています。
エゴは目の前を見て「まだ叶ってないよ!」と言いますけども、叶ったからこその「叶ってないよ!」です。
知らんさんのテレビをつけたら研ナオコと同じかと。
「どんな現象(思考も含め)が起きても叶っている」設定にすれば、「叶ってないよ!」という現象から、わらしべ長者のように場面が展開して、エゴから見て願望実現に到達するのでは?と言うのが以前から私が考えていた引き寄せなんですけども、どうでしょ?
自由意思については、
①「歩くから」歩くが現れる→自由意思あり
②「歩くが現れる」から歩く→自由意思なし
※「」=立ち位置
このように立ち位置の違いで自由意思はあるとも言えるし、ないとも言えるかなーと思いますね。
461:wild:2016/08/11(木) 23:36:48 ID:gKUq4NVA0
≫458
真昼さん。
逆展開メソッド、シェアありがとうございます!
やってみると、「ただ場面を見ている」がイメージしやすいかもですね!
私は逆展開を想像してみると、あまり過去には戻りたくないと思いました。
良いこともたくさんあったので悪い過去という訳ではないのですけども…。
なんというか、なんだかんだ言って今が一番良いなと感じます。
今よりエゴ的に輝いていた時代もありますけども、特に戻りたいとは思いませんでしたねw
今も過去同様いろいろありますけれども、十分満足なんですよね。
なんだか不思議な感覚ですが、面白いですね(^^)
465:現象:2016/08/23(火) 03:59:04 ID:qwzqrOwE0
真昼さん
>自由意思がないとしているなら、ないんでしょうし、
>自由意思によって生きているとするなら自由意思はあります。
そう考えると、「本当」に「全く」ルールが無い、のかもしれませんね。
思った事(湧いてきた事)が、その人のルール、その人の世界のルール。
ということは無、「全てが在る無」。
何もルールが無い、ということは「どんなルールでもOK」ということ。
つまりは、「あらゆるルールが在り」ということ。
「あらゆるルールが在り」という考えも湧いてきただけなのですが、
湧いてきたなら、それがその人にとっての正解。
エゴ視点なら、それは自由意志で選んだように思えるでしょうし、
映写機視点なら、単にそういう流れとして認識するでしょう。
それもこれも湧いているだけなのですが。。
なんだか頭がグルグル回ってメマイがしそうですw