672:幸せな名無しさん:2017/02/27(月) 13:54:11 ID:rHL4xWwU0
wildさんへ
この方はwildさんに感覚として同じか近いかなと思いました。
自由意思がないや、その中でどうあり生きるや、悟りや空に関してなど
分かりやすく書かかれてました。
675:wild:2017/02/27(月) 21:54:23 ID:t63Z6fqY0
≫674
シェアありがとうございます。
このブログ主の方もハーディングの実験で気づいたんでしょうかね?
この記事だけで見ると、ほぼ私の気づきと一緒ですね。
ハーディングの実験は、私という存在をざっくり知るにはもってこいの方法です。
この記事や、私くらいの気づきならすぐに誰でも?到達することができると思いますので皆さんも諦めずぜひ何回もやってみることをおすすめします。
以前も書きましたが、「目を瞑る実験」なんかは私は多くの気づきがありましたね。
あと鏡を見る実験かな?
頭のない空間に気づくと、そこに思考が物体のように浮かぶ様を観察できるようになるなど、いろいろと捗りますよ。
676:幸せな名無しさん:2017/02/27(月) 23:32:53 ID:rHL4xWwU0
ご返事ありがとうございます。
すみません、
ブログ紹介しておきながら、この方のブログはつい最近見つけたのでよく分かってません。
キーワード検索で「自由意思」「願望実現」「瞑想」「悟り」で出た記事を読んだくらいで、
それ以外はこの方がサラリーマンで営業の人だくらいしかまだ良く分かってませんw
元々色々と本で勉強はされている方のようでした。
目を瞑る実験は頭では理解できてるのですが、
体感がまだついてきていません。思考が,
あるはずのない体を自動で補ってしまいます。
この方も紹介されてますが、夜高速を一定の速度でずっと走っていると
起きながら、自分の体がない感覚は時々わかるのですが、
部屋に戻り改めて目を閉じてやると思考がどうしても邪魔をするようです。
それに関して、
このブログの方書いた以下の記事を昨日読みちょうど疑問が湧いたので
教えていただけますか?
この方のいう「心で心をみる」とは、ハーディングの目を瞑る実験において
自分の体は自分そのものではないと気づいた後、どうすればいいんでしょうか?
以下抜粋
******************************
『心で体を感じる』『心で心を感じる』~無念無想、いまここにいるコツ~
今日はいまここにいるコツを書いて見ます。
動き回ってる時ではなく静かで落ち着いている時に試して下さい。
今から書くことは文章で見ると矛盾しててちんぷんかんぷんですが、言わんとすることのニュアンスを感じて頂ければと思います。
では、まず
静かで落ち着く。
そして、
『心で体を感じる』
体の感覚、椅子などと接している触感や空調の音、部屋の温度などを感じる。
すると体の感覚を観ているもう一人の自分(心)に気づく
自分(体)との同化がなくなっている
でも、そこには体を感じている自分(心)がいる
次に、ここがポイント、
『心で心を感じる』
すると、
心が消える。
何にも反応してない
心に波が立っていない状態になる。
その無念無想の状態が”いまここ”です。
これは、私が思いついて試してみて、いいなと思ったコツなんですが、実際は『心で体を感じる』ことで、心と体が分離することはNLPのディソシエイトのことですし、心で心を感じることはラマナ・マハリシの自己探求「私は何か?」と表現が違うだけで同じこと。
それなりに効果があって当たり前なんですよね。
次回は、仕事中など活動中に、いまここにいるコツを書いてみます
677:幸せな名無しさん:2017/02/27(月) 23:43:34 ID:rHL4xWwU0
プラスですみません。
心を心で感じるの件ですが、
今冬なので当然パンツと下着だけでは部屋でも寒いわけですが、
寒いと意識すると寒いですが、
寒さを受け入れるとなぜか寒くなくなります。
怪我の痛みも痛いと思っていると痛いですが痛さを受け入れると痛みが軽減します。
その感じでしょうか。
心で心を感じようとするのではなく、
心の赴くままに任せる委ねるという感じでしょうか。
(この表現は正確な感じがしません。)
678:幸せな名無しさん:2017/02/28(火) 00:50:12 ID:aXzPtr6Q0
≫677
心で心を感じるですか。
今パッと思ったのですが、
これは恐らく「観ているものを観る」ことを言ってるかと思います(おそらく、多分…)
これは私も何回かお話ししているのですが、自己観察などで「別の領域から思考を観る」って表現がよくありますよね。
「別の領域に立って~」とか。
ここから観ているものはエゴとは違う私です。
私は「純粋な私」「私の核」などと表現していますが、まずこの純粋な私がわかりますでしょうか?
例えば、
頭のない実験をしていても「風景を観ている存在」「こちら側」などの“感覚”があるならそいつがそうです。
この純粋な私の正体は、
自我であり思考なんです。
実は最後のエゴ。
そいつでそいつ自身を目撃すると打ち消し合って消滅してしまうのです。
覚者がよく、「私を見る」「私とは誰か?」とか言いますが、これを誘発しようとした言葉です。
純粋な私が消滅した後に残るものが「観るものなくして観る」状態、
つまり「意識」のみとなると思います。
頭のない実験で、人差し指を観ている自分(純粋な私)にしっかりと向けて目撃されると、同じことが起きますね。
だからどうしたという訳ではないのですが、自我も意識に現れている「観られるもの」であることがわかります。
つまり「観るものは観られるもの」です。
679:wild:2017/02/28(火) 02:14:06 ID:aXzPtr6Q0
≫そいつでそいつ自身を目撃すると打ち消し合って消滅してしまうのです。
この説明に補足です。
言葉の思考を観察している最中に「思考を観察しているもの」自身を観ようとするとどうなるか?
言葉の思考が止まるはずです。
これはどういうことかと言いますと、
思考が「言葉の思考」から「観察しているものという思考」に変化したということです。
そのため言葉の思考が止まります。
このことから、この「観察しているもの」も思考と気づくのです。
思考はマルチタスクがではなく、シングルタスクであり、思考が思考を観察することなどできないのです。
そしてこの「観ているもの」も、
目の奥の筋肉の収縮などにそう名付けた思考であると気づいた時、私が消滅します。
そして意識だけが残ります。
これがよく言われる、私の足場が崩れるというやつです。
ちょっとややこしくなりすぎましたかね?
いまいち実感できないようなら、この辺は後の観察用にとっておいて下さい。
680:幸せな名無しさん:2017/02/28(火) 12:07:11 ID:vaiFuNpE0
≫678
≫679
wildさんの説明はいつもみていてとても丁寧で、大変ありがたいです。
ありがとうございます。
純粋な私は理屈では分かりますが、まだ体感としてはピンときません。
高速を乗っている時何となくわかる程度です。
コメントを頂いてからやってみましたが、まだ分からないようです。
あとこの純粋な私がエゴだったとは驚きでした。
別な領域と前々からよく色んな所で聞いていたので、エゴではないと思っていましたが、エゴなんですね。
>そしてこの「観ているもの」も、
目の奥の筋肉の収縮などにそう名付けた思考であると気づいた時、私が消滅します。
そして意識だけが残ります。
これがよく言われる、私の足場が崩れるというやつです。
純粋な私を自分で見るというのは分かりませんでした。
これはまたいつか腑に落とすことにします。
あと、言葉の思考と観察しているものの思考が分かりませんでした。
分かりませんだらけでした。
分からないだらけでしたw。
これは、具体例で言うと
自分では思ってないのに、余計なことを言い、ふと我に返り
しまったと思う時があると思うのですが、
余計なことを言ってしまっている時が、言葉の思考で、
ふと我に返る時が、観察している思考でしょうか?
681:wild:2017/02/28(火) 15:43:03 ID:aXzPtr6Q0
≫680
いえいえとんでもないです。
初めのうちはわからないことだらけですよね。
ですから常に実践し、ご自分で実感して私の言っていることと照らし合わせてみて下さい。
ところで、
純粋な私はエゴですけど、一般的に言われるエゴとは別物と捉えて頂いて良いですよ。
一般的に言われるエゴは、ネガ思考のことですもんね。
これは良いとか悪いとかの考えに影響されない、私の根本みたいなものです。
例えば良い気分でいたい時などは、そこから不快な思考を観るのです。
そしてそれを切り捨てれば残るのは快だけになります。
そのようにあらゆる思考とは別の立場から観察し、取捨選択できる立場なのです。
考えに左右されない立場をうまく利用し、いらない考えは切り捨て、希望する考えのみを選択して行く。
そうすると引き寄せが起きます。
気づきスレなどで言っていた、創造主の立場とはここのことを言っています。
ですから純粋な私をただのエゴとして邪魔者扱いしないようお願いします笑
続きはまた後で書きますね。
684:wild:2017/03/01(水) 18:33:03 ID:UmP5q/OM0
≫680
≫ あと、言葉の思考と観察しているものの思考が分かりませんでした。
続きです。
言葉の思考はすぐわかると思いますが、「注意」「焦点を当てる」などでこれが伝わりますでしょうか。
「意識を指先に注意する」とか言いますよね。それも思考です。
この注意を前後、遠近で動かしたりするときもあります。
しかし本当に遠近などあるのでしょうか?
遠近という言葉には
「遠→自分から遠い」
「近→自分から近い」
という意味になりますが、
その基点となる自分(観ているもの)は本当にあるのか?
あると思い込んでいただけではないか?
一体何に対して遠近なのか?
果たしてこの視覚に映る風景に遠近はあるのか?
同じく感触にも遠近はあるのか?
私の中心って本当にそれは中心なのか?
などなど、頭のない状態で観察してみると気づくことがあるかもしれません。
682:幸せな名無しさん:2017/02/28(火) 22:36:38 ID:vaiFuNpE0
≫681
そういうことですか^_^
分かりました。
創造主の立場から不快な思考を落とすについては、自由意思はないを考慮すると落とせたらラッキーで落とせなくてもよしよしくらいに思っておけば良いでしょうか?
また続きお手数ですがよろしくお願いします。
685:wild:2017/03/01(水) 18:37:29 ID:UmP5q/OM0
≫682
自由意思については、以前は何から何まで自由意思はないと感じていました。
それはそれで大きな気づきがあり常に安心の中にいましたが、現在はそうでもないのかなとも思っています。
かなり抽象的になってしまいますが、
例えるなら、
どこまでも鏡だけがある。
鏡は鏡のみではそこに鏡が在ることがわかりません。
無と同じです。
しかし確かにここに在る。
ここに「映るもの」があるから、鏡があるんだなとわかる。
その映るものに関しては自由自在です。
様々なストーリーを映すことができる。
その仕組みは、映るものが映るものを認識し、新たな映るものを創っている。
しかし映るものは、次にどのようなものが映るかはわからない。
それを延々と繰り返している。
ただ、鏡にストーリーが映るというシステムに関しては変えることはできない。
大元の設定は変えられないけど、その設定内では何でもできるといったイメージです。
また私の認識が変わるかもしれませんけど、今のところそんなところですね。