683:幸せな名無しさん:2017/02/28(火) 23:51:15 ID:SfT9ZIVM0
wildさん
人生つんだ状態の自分に
何かアドバイスしていただけませんか?
686:wild:2017/03/01(水) 18:57:12 ID:UmP5q/OM0
≫683
詰みましたか。
どんなことで詰んだかはわかりませんが、ひとつ言えることは誰でも生きていれば何度か詰むことがあるということです。
私も何度か詰んでます。
私の知り合いも最近、人生が変わる程詰みました。
しかし詰んだからといってそこで終わりという訳ではありません。
私も社会的に詰んだなと思った出来事を経験しましたが、今は平穏無事ですし、逆にあの時詰んだ経験をして良かった、だから今の私があると思っています。
知り合いも今は同じような人生になっています。
災い転じて福となすです。
とは言うものの、今はそうは思えないしそれどころではないと思います。
そんな時は腹を括って、今できることをとにかくやるしかないのです。
もし、観察ができるのなら、
自分という小舟に乗って激流を流れて行く様をただただ観ているだけでいいのです。
起こることに思考が思うがまま思い、身体が動くがまま動く。
そんな「流れ」に身を任せて、ただただ観ていれば、いずれ広く静かな大洋に出ますよ。
687:幸せな名無しさん:2017/03/01(水) 20:38:04 ID:DZJbrBdk0
≫686
wildさん
ありがとう
なんか涙が・・・
wildさんでも詰んだ時があったとは・・
アドバイスを何度も読ませてもらいます
690:wild:2017/03/02(木) 23:06:11 ID:GN8FpTv60
≫687
人生いろいろありますが、何とかなるもんですよ。
生きていれば楽しいことも必ずあります。
あまり人生思い詰めず、少し適当なくらいでちょうど良いかと思いますよ。
688:幸せな名無しさん:2017/03/02(木) 01:09:37 ID:LC2ugCjU0
≫684
ご回答ありがとうございました。
正直よく分かりませんでした。
wildさんのコメントや自分なりに調べて今日の段階で何となくわかりましたのは、
以下のような感じです。
理解力が低くすみません。。
言葉の思考が分かりませんでした。
私の認識だと
言葉の思考は、私と、認識する対象が分離している思考。
例えば、私はものを認識する。=私と物は分離している。
観察しているものの思考は、以下に書いた私たちの正体でいいような気がしましたが。
物や、自分の痒みなどの感覚は自分が認識できる
ということは、物や、自分の痛みなどの感覚は自分ではない。
では自分とは何か。
でも自分とは何かを問い続けても、そこには自分は永遠に見つからない。
あるのは、物や、痒みなどの感覚を認識しているその認識だけであり実態はない。
ということは、誰かが何かを認識しているのではなく、
例えば、ものを認識していたら、ものを認識している認識そのものが私たちの正体で、
痒みを感じていたら、痒みを感じている認識そのものが私たちの正体ということでしょうか。
それに無理やり、自分から遠い、近いの話を当てはめると
自分という実態はないのだから、自分から遠いや、近いという実態もない、
あるのは、遠い、近いと思っている認識だけがある。ということになるのでしょうか。そしてそれが私達であるということでしょうか。
あくまでも理屈なので体感は置いてけぼりです。
これであってますでしょうか?
689:幸せな名無しさん:2017/03/02(木) 01:22:21 ID:LC2ugCjU0
≫685
この文章は、自由意思はあり、
自分のなりたいものになれたり、ありたい状況を創りだせるということでよろしかったでしょうか。
私が文章を解釈する限りだと、鏡(wild)という私たちの正体は無限の器があり、
どんな人生ストーリーも映し出せるだけの力があります。
でも、何が映るかは映るまでwildにも知りようがなく、当然自我の私達にも知りようがなく、次に何が来るかは選べない受け身の人生の連続だと捉えてしまいました。
でもwildさんは自由意思はないから考えが変わったとおっしゃっているのでそうではないと思うんですが。
691:wild:2017/03/02(木) 23:10:15 ID:GN8FpTv60
≫691
そうです。
そのような解釈で良いと思います。
あとはこの考えに囚われず、実践ですね。
ある考えに固執し囚われると、なかなか気づきが進まないものです。
692:wild:2017/03/02(木) 23:15:10 ID:GN8FpTv60
≫689
そうですね、そしたらこのような喩えならどうでしょう。
“理解”として整理したいのなら、以前に書いたように「脳と夢」の関係で考えてみるとスッキリするかもしれません。
しかしあくまで参考としておいて下さい。
上にも書きましたが、誰かの考えに囚われると目の前が曇ります。
ご自分で実践し、自分で気づくことが大事かと思います。
少しややこしいですが、
まず脳自身には「意思」という人間的なものは本当はなく、脳内の反応が集まって意思という人間的な幻想が起こっています。
Wildもそのようなシステム的なものと考えています。
脳は夢のフィールドと主人公を創りますよね。
主人公目線だと、フィールドや自分がいること自体がもうすでに自由意思がないと思います。
しかし、フィールドで起こったことに反応するのは主人公であり、主人公に直結している脳です。
そしてフィールドも脳に直結してします。
つまり脳が自分でフィールドでの出来事を作り、それに反応し、新たなフィールドと主人公の行動というストーリーを作っていたのです。
作ってはいるのですが、脳は器官なのでそのことを自覚できませんし、その反応によって作られた主人公もその事実を知りません。
では主人公がそのことに気づいたらどうでしょう?
「自分は脳だった。
自分=脳の反応が次のストーリーを作っていた。
この世界も自分も本体の脳の作った夢、幻想であった。
だから自分の反応、認識が変われば脳=自分が創り出すストーリーも変わる…」
そうなった時、主人公にも“自由意思がある”と言えませんでしょうか。
「Wildに神的な意思があり、それに沿って動かされている」
「自由意思がないから起こるがままで安心」
と主人公が幻想を認識すれば、脳はそのような世界を創るでしょう。
それが私の経験した幻想でした。
実は私自身がWildそのものであり、今この瞬間に夢を創っていた。
という考えに今はなっています。
これさえも幻想と言えば幻想なのかもしれませんけどね。
693:幸せな名無しさん:2017/03/03(金) 00:38:44 ID:5F56LvlA0
≫691
分かりました。実践はどうするのというところをもう一度wildさんのコメントを読んで、分からなければ調べて質問させていただくかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。ありがとうございました。
694:幸せな名無しさん:2017/03/03(金) 01:24:58 ID:5F56LvlA0
≫692
コメントありがとうございます。
こちら一回読んだだけでは分からないので、
きちんと確認してから明日コメント書かせていただきます。
695:幸せな名無しさん:2017/03/04(土) 02:09:57 ID:Wv94toDE0
≫694
すいません投稿内容まとまらないので明日投稿させていただきます。
696:wild:2017/03/04(土) 13:34:04 ID:E.7xLDao0
≫695
いえいえ、お時間ある時で構いませんよ。
面倒なら放置でも良いですしね笑
自由意思のあるなしは鶏と卵みたいなところもあるので、最終的にはどっちを採用するかの違いになってくるかと。
697:幸せな名無しさん:2017/03/04(土) 17:19:50 ID:Wv94toDE0
wildさん
遅くなりました。
wildさんのコメントを熟読したうえで、ネットで
調べた限り自分の本性を知るための方法としてこうするのがいいのかなと自分なりにまとまったのですが、これでよろしいでしょうか?
ハーディングというよりも自己観察になってしまいますが。。
①自分の感情、思考、行為、感覚、あらゆる感じられることを言葉にせず眺める。
「観察する思考」から世界を観察する。(この観察する思考もエゴではある)
例:感情に関しても悲しい感情を悲しいと言葉になる前の言葉に言えないエネルギーも
感じる。悲しいという思考が出たらそれも感じる。
行為も、何々していると言葉にせず行為自体を眺める。動いていると思考がでたら
それも眺める。
何か物や風景を眺める時も、これは何々だとか言葉に置き換えずただそのものを見る。
言葉として出てしまったらそれも眺める。
②①を続けていると、観察している思考も観察できるようになる。
これはやってみると分かる。理屈では分からない。
次第に、観察するものと、されるものという区分けがなく、
観察するものも、実は観察されるものであることが分かってくる。
最終的には、観察するものは実はいなくて、勿論自分もいなくて、
ただ認識だけがあることに最終的に気が付く。
これに関しては理屈じゃなくて①をとにかくやってみることが手っ取り早い。
701:wild:2017/03/04(土) 21:14:27 ID:fBwuZYrU0
≫699
すごい分析ですね。
これだけの探求心があればいずれわかりますよ。
この通りかと思います。
ハーディングの実験動画にもありますが、思考を虚空に浮かぶ文字として観るシーンがあります。
ですからハーディングの実験は自己観察を兼ねていますので、どちらも自分とは何かを探る観瞑想の一種と私は捉えています。
ハーディングの実験をしつつ自己観察を意識すると捗ります。
まずは、
無意識に起こる言葉の思考と自己を切り離すことからです。
無思考でも自己はありますよね。
この無思考という自己、または頭のないスクリーンに、言葉の思考が現れる「瞬間」をぜひ捉えてみて下さい。
ここは非常に大事なところかと思います。
そうすれば、思考は自己ではなく、「自己が創った創造物」であることがわかります。
無意識の思考は様々な反応によって現れますが、それは道具のようなものであり、スルーも採用もできるものであると実感してみて下さい。
一日中思考の起こる瞬間に気づけるよう意識し、思考が起きても自己には影響がなく、自己が思考を掴まなければ、虚空で思考が空回りしてそのまま消え去る感覚を実感してみて下さい。
この時の自己が所謂「別の領域の自分」です。
観ているものを思考として捉えるのはその後となります。
順番を経た方が分かりやすいかと思いますね。