自己観察さん−020/不安に怯えながら生きるか、それとも主体的に人生を選ぶ生き方をするのかの選択です。

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837 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 02:40:37 ID:ygD1qRA20

psg5Ebes0さん、以前同じような夢を見て、そこは綺麗でとても安心できる場所でした
別の領域の話を聞くとそこを思い出します。そこを思い出しながら瞑想するのもありでしょうか?

 

838 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 03:08:32 ID:psg5Ebes0

無理にそのイメージを求めてしまうんじゃなくて、自然に湧き上がってくるのならいいんじゃないかな。
日によって感覚が違ったりするので、段々イメージも広がったりもしますよ。
楽しみながらやれるといいですね。

 


 

840 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 10:26:15 ID:uKpwDLqU0

自己観察さんだ!らぶ。
自己観察さんの別の領域を信頼すると108さんの神様にお任せって同じですよね

以前から、神様にお任せや別の領域を信頼したいのに、とにかく恐怖が強いです
エゴの反発が強烈です

これは、わたしじゃないってやるんだけど、朝起きた時とか、その恐怖たるや、
叫びたくなる程です。蓋してるのでしょうか…?

 

844 :843:2011/03/19(土) 11:31:55 ID:AWrUISY.0

≫840
あ、もしかしたら、
どうしても叶えたい願いがあるのかもしれませんね。
でも自分が何もしないで願いが叶うわけがないと思ってる。

それも、ホントのあなたはただ見てるだけ。
その視点を獲得することが、自己観察なんだと思います。

 

自己観察って、別の領域を知覚する為の訓練じゃなくて、
それ自体が本来のあり方なんだと理解しています。
自己観察さんでもないのにこんなこと言うのはアレかもなんですけどw

ニュートラルな自分になることで、
それまでの視点で考えてたこと(不安、願いetc)がとってもナンセンスに思えたりする。

今持ってる願いが叶わないまま終わっちゃうんじゃないかと思うかもしれない。
でも、その辺は色々吹っ飛んで思考回路が変わるので、またその時に改めて考えたらよいと思うのです^^

108さんを初め、桑田さん、自己観察さんなどなど、
達人さんはみんな同じモノを説明してくれていたんだと最近分かってきた者でした。

 

849 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 13:45:20 ID:psg5Ebes0

≫840
「これは私じゃない」っていうのは、自動的におしゃべりしてたエゴに気づくと、
同時に本当の自分の立場を思い出すので自然とエゴが消えたり、消えなくても
落ち着いてる自分のほうに意識が向くようになります。

 

なので、自分に言い聞かせる言葉として使うと蓋になりやすいかもしれませんね。

「こうしなくちゃいけない」「こう思ってることが正しいんだ」「だからそう思い込もう」
という型に自分を嵌めようとすると蓋になります。

 

それは本当の自分の立場を思い出すことではなくて、
エゴが本当の自分のフリをしているだけです。

 

「既にある」も上のほうで、力技的に思い込もうとしてる方たちもいましたが、
現象として見えなくても、「既にあるらしいからいいや」と安心していられるならいいと思います。

 

そうではなくて、本当は安心してないのに、安心してるふりをして、
「あるって思えないと実現しないから、あると思い込もう」とコントロールしようとすると蓋になります。
だからその「型に嵌めようとしている自分」に気づけることがいいですね。

 

≫844さんの仰るとおり、気づいてる自分というのが本来の在り方だと思います。
エゴは巧妙に自分を取り繕おうとしてるけど、それを見破るのが本当の自分です。

 

本当の自分の立場に立つと、自然に安心できるので、不安な思考に関心がいかなくなると思います。

だから、本当に安心して心地よくいられるか、それとも安心してる振りしてるだけなのかこの違いに気づけていることが大切です。

「不安でだめな私じゃよくない」と思ってる自分がいたら、まずその自分に気づいてください。
「既にある」を採用してみて感じる些細な違和感に気づいてください。

 

本当の自分でいること、または本当の自分でいようとすることを、常にそうしてるのが
難しくても、その時なりに最善を尽くすということが大切だと思います。

だから、エゴにごまかされずに本当の安心を感じていようとする姿勢でいる限り、
メソッドをしてもしなくてもいいし、散歩でもお茶でも、自分の好きなことして
心地よくあるならそれがいちばんです。

安心できていないのに、理屈の通りに自分をコントロールしようとしてもそれは逆効果です。
理屈を理解していようとしていまいと、することは「本当の自分」として、本当に安心している
ことだけです。

 

851 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 16:28:48 ID:FpNy2Gwg0

≫849

>エゴが本当の自分のフリをしているだけです。

常にこれのような気がします。安心するために思考を使うのはアリですか?

 

853 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 17:01:05 ID:psg5Ebes0

≫851
思考で安心を得ることは出来ません。安心は理屈じゃないんです。
思考を使って安心しても、それこそエゴの範疇なのでまた不安になってループするだけです。

 

≫エゴが本当の自分のフリをしているだけです。
≫常にこれのような気がします。

 

これのような気がするということは、あなたは本当には安心できていないのですから、
「今までの自分はエゴの中で安心してただけだった」と観てる側の自分に立ってください。
そこが本当に安心できる立場です。

思考を使うのではなく、自分の思考や感情に気づく側、観てる側に立つんです。

 

 

852 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 16:43:08 ID:xiZ7cLTs0

上の人もそうだけど、緊急事態や切迫感あると、冷静にとか、心地よくなるの難しいです
明日までに~しないといけない状況とか…

不都合を受け入れるとか皆、出来るのかな…すごいな

 

853 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 17:01:05 ID:psg5Ebes0

≫852
不都合を受け入れるのではなくて、自然と受け入れられるようになるということです。
それは「しようとする」ことではないです。

エゴと一緒にいれば心地よくなるのは難しいと思います。

どんなに切迫した状態であったとしても、その瞬間瞬間、エゴと一緒に不安でいること選ぶのか、
別の領域の立場に立って、その不安を観てる側になるのか

それは、ただ何も出来ないで
不安に怯えながら生きるか、それとも主体的に人生を選ぶ生き方をするのかの選択です。

 

今不安な状況だからといって、慣れ親しんだエゴと一緒にいることはある意味楽かもしれませんが、
そこにいる限り、それはずっと終わりません。

自分に向き合って、どう生きたいのかを問いかけてみるといいかもしれません

一度きちんと主体的に生きることの覚悟ができたら、案外エゴなんて脆いものだったりします。
今までしつこく振り回されてきたけれど、ただ「しつこかっただけか」とわかりますよ。

 

860 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 20:58:33 ID:0jZhBADo0

≫853
横からすみません。

 

>これのような気がするということは、あなたは本当には安心できていないのですから、
>「今までの自分はエゴの中で安心してただけだった」と観てる側の自分に立ってください。
>そこが本当に安心できる立場です。
>思考を使うのではなく、自分の思考や感情に気づく側、観てる側に立つんです。

 

自分はそうして観察する立場に立とうとすると、よくわからない不安がわきあがります。
これでいいのかな・・、という感情と、あとは何か良くわからない感情。空虚なこわさ。
なんかが立ち上る。

自分の場合、望んでいるのが恋愛なので意中の人にぎゅっとされてるイメージを持つと
ほーっと安心できる。そして、このぎゅっとされてる安心イメージをすることで、
ここまで現実も結構うまく進んできていると思う。だけど、今一歩のところがうまく進まない。

相手のイメージなしでも安心を得られるようにならないとダメなのでしょうか?
相手のイメージなしでは不安なときはどうしたらよいのでしょうか。

観察者の立場での安心感というのがよくわかりません。
本当の安心感がどこで得られるのかがわからないという感じです。
その安心感の見つけ方をもしよければもう少し教えていただければと思います。

 

872 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 22:56:22 ID:psg5Ebes0

≫860
イメージがあってもなくても安心できるならいいと思うんですが、イメージできないと
不安なのだとしたらそれは「不安になりたくないからイメージして安心しよう」と、
不安に蓋してることになると思います。

まずそのことに気づくこと、気づいたら安心を選ぶこと。
そこで安心することができないなら、自愛やリリースなり、自分が少しでも安心できることをする。

 

≫自分はそうして観察する立場に立とうとすると、よくわからない不安がわきあがります。
≫これでいいのかな・・、という感情と、あとは何か良くわからない感情。空虚なこわさ。
≫なんかが立ち上る。

 

こういう不安はエゴが感じている不安です。
別の領域にちょっと触れただけのところは、エゴにとってあまり気持ちのいいものじゃないんです。
湯船に入るとき、熱さに慣れるまで痛いような感覚があると思うんですけど、あんな感じで、
今まで思考のおしゃべりを垂れ流してたエゴにとって、静寂や無の感覚は安心できるものではありません。

なので「ここには安心があるはずだから感じてみよう」という姿勢で
しばらく留まってみないと、別の領域の安心感は感じられないと思います。

もしそれでもわかりにくいとか、不安な感じがあるようだったら、自愛がいいかもしれません。
自愛はエゴの反応がわかりやすい人に向いてるんじゃないかなと思うので、別の領域に浸る
ということに反発や不安を感じるようならやりやすい方法でやってみてください。

 

861 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 21:04:48 ID:s98pEELI0

≫853
横からすみません。
自己観察と主体的に生きることについて自分はまだ良く分かりません。
辛い現実を上映されている映画のように眺められるようにはなってきましたが
そこから望む映像を観るためにはどうしたら良いのでしょうか?

どう生きたいか問いかけるとはそういう意味ではないのでしょうか?

 

873 :もぎりの名無しさん:2011/03/19(土) 23:06:01 ID:psg5Ebes0

≫861
今まではエゴに主導権を渡していたので、不安な感情や思考が起こるたびにそれらの感情や思考と
一緒になって不安になったり、何とかして解決しようと思考の中から策を巡らしてきたけれど、
エゴは記憶の中から同じものを見つけるのは得意だけど、未知のことが起こると
どうすることも出来ません。

だからエゴと一緒になっていても、たいしたことを実現できません。

 

主体的に生きるというのは、もう今までのようにエゴの言いなりになって
一緒に不安になったりするのではなく、

不安な感情が起きても「これはエゴがそうしてるだけだ」と客観的に眺める立場に
立つことで、自分は現実を選べる立場にいることを選択することです。

 

どう生きたいか問いかけてと言ったのは、今までのようにエゴと一緒にいるか、
人生を選べるほうを選ぶかどうしたいのか自分に向き合ってみてという意味で言ったのですが、
それは「安心することが難しい」という方は本当の意味で、エゴと慣れ親しんできた
今までの生き方に決別する覚悟がないのではないかなと思ったからです。

 

≫そこから望む映像を観るためにはどうしたら良いのでしょうか?

 

そういう意味で主体的に生きることを選んでいるとき、単純に意図して手放すことは
簡単だと思います。なのでまずは別の領域を十分に信頼してみてください。

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