98 : もぎりの名無しさん : 2010/12/06(月)17:22:32 ID:Dm.OCgz60
「このチョイスする領域に気付きましょう」
とは?
この領域はどんな感じなのでしょうか?
チョイスするとはどういうことなのでしょうか?
質問ばかりで申し訳ないのですが、教えてもらえませんでしょうか。
120:もぎりの名無しさん 2010/12/09(木) 00:59:35 ID:JK4zyke.0 JK4zyke.0(
≫98
チョイスするとは、この世界を創ったのは紛れもない自分なのですから
自分の望む事を意図すれば良いだけなんです。
語弊があるかもしれませんが「願望」という概念自体がすでにおかしいと思っています。
世界の全部はイコール自分なのですが、何かが欲しいと思うと、どういうわけか
「あれを得るためにはもっとこうしないと」とか考え出してしまう
(世界=自分から分離を始めるわけですが、この状態を「私は願望を持った」と勝手に思っている)
その欲しい対象を創ったのも自分なんですから、何でわざわざ自分から自分の手足を
切り離すような事をするのかって事です。
もう願望が現れた瞬間に、それは紛れもない自分なんです。
その「願望」という名前を勝手に付けたものを自分のもの、自分であるという認識で
選びましょうという事ですね。
121:もぎりの名無しさん 2010/12/09(木) 01:09:13 ID:JK4zyke.0 JK4zyke.0
前の方でも書きましたが「こんな苦しい状況なんて創るつもりなんてなかった!」と思う方もいると思います。
が、その苦しい苦しくないというのは全部エゴの部分が判断しているだけで本当の自分には関係無いのです。
その「苦しい・辛い」と勝手に思ってる状況は、やっぱり自分が創ったものなんです
ですから苦しんでも良いし苦しまなくても良い、どっちでも良いのです。
何故なら「本当の自分」が書いた絵をエゴが勝手に評価を下して「この絵はダメだね」とか言ってるだけなので、そんなどうでもいい評価は言わせておけば良いのです。
エゴの評価は無視して本当の自分が創った絵を受け入れる事です。
それから新しい絵を選べば良いんです、絶対に自分の創ったものを否定しない事です。
まず受け入れて、別の作品を描けば良いだけです。
122 :もぎりの名無しさん 2010/12/09(木) 01:14:02 ID:JK4zyke.0 JK4zyke.0
作品を書く前には当然ですがまっさらなキャンバスに向かいます。
このまっさら状態になる為のツールが、いわゆるクレンジングの類ではないかと勝手に思ってます。
「全部が自分」状態は、言い換えれば「いつでも好きなときにまっさらなキャンバスに向かえる、好きなものを書ける(創れる)」状態と言えます。
ですから自分は波ではなく海なんです、自分が波だと思ってると
隣のビッグウェーブが気になりますが、自分が海ならそのビッグウェーブを
創ったのはやっぱり自分なんです。
ですから他人(と思っているもの)の成功は心から喜べます。
136:もぎりの名無しさん 2010/12/12(日) 14:39:30 iTmVA0vA0
≫123さん
具体的にどんな願いを叶えられたのか、
よかったら教えてください。
桑田さんのような顔になれたんですか?
145:もぎりの名無しさん 2010/12/15(水) 23:31:55 VRtDOZ8Y0
≫136
最近では新しいパソコンを買ったぐらいです。
買ったというよりパソコン好きの友人が自作してくれた物を貰いました。
桑田のような顔にはチョイスしなかったのでなりませんでした。
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146:もぎりの名無しさん 2010/12/15(水) 23:37:46 VRtDOZ8Y0
≫137
チョイスするという言い方が悪かったようです。
言い方を変えるとこの世界は自分が創造したものですから既にチョイスは完了しているとも言えます。
自分=世界、世界=自分の感覚になる事が出来ると、例えばハイスペックのパソコンが欲しいと思えば、ちょっとその辺のヨドバシとか行けばズラリと並んでるわけですが、
それらも全て自分が創ったものです。
自分が世界と切り離されていると、そこに「まだ所有していない」「まだお金が無い」とか色々な不足感が邪魔しますが、自分は世界なのですから不足感は感じません。
あるのは満足感(とは少し違いますがあえて一番近い感覚を書けと言われたらこれになります)だけです。
不足感が無ければ、あとは勝手に自分(世界において”自分”であると認識している”自分”)の所へ来てくれます。
所有してないとか足りないとかそういった「個人レベル」の概念を外せば、自分が創った世界には文字通り希望したものが何でもあるんです。
あとはどれを選ぶかというだけの事です。
つまり願望はもう叶ってるんです、実は叶った状態の世界を創ってるんです。
あとは好きなものをチョイスしましょうという事です。
何かが欲しいなあと思って嫌な感情が湧いてきたら、せっかく自分が創った世界と分離している合図です。
でも別に押さえ込む必要もありません。
分離してる事に気付くだけです、気付けば消えます。
何故なら分離はエゴの作った幻だからです。
逆に創った世界との一体感に目覚めていれば、とても満足した感情が勝手に湧いてきます。
すでに全てが用意されている自らの創造した世界で、好きなものをチョイスしてください。
チョイスしてから現実化として現れてくるまでの
時差?について教えてください。
時差というか、自分の周りの人間(実際は自分が創っている人々ですが)に自分が創ろうとした意図した事と関連した事が起きます。
167 :もぎりの名無しさん:2010/12/19(日) 15:23:09 ID:VcRQJWkg0
145さんの説明、とても参考になります。
特に海と波の例え、しっくりきました。
最近、自分の目につくビッグウェーブにばかり気を取られ、焦る気持ちがあったので。
ただ、言われていることは頭ではわかるんだけど、自分の感覚として捉えることが出来ない…そんな感じなんです。
自転車に乗る方法を言葉で説明され、わかったような気になって実際に乗ってみたけど、さっぱり乗れない、みたいな…(こんな例え、どこかであったかな)
それで、以下をもう少しくわしく教えてもらえないでしょうか?
≫自分=世界、世界=自分の感覚になる事が出来ると、
≫例えばハイスペックのパソコンが欲しいと思えば、ちょっと
≫その辺のヨドバシとか行けばズラリと並んでるわけですが、
≫それらも全て自分が創ったものです。
自分の場合、まずはこの通りに、世界のすべては自分がつくった、自分が創造した、と認めます。
そしてヨドバシに行きます。自分の欲しい、ハイスペックなパソコンは確かにズラっとたくさんあります。
ここまでは145さんの言うとおり。
ただ、ここからどうしていいかわからない。
このヨドバシに並んでいるハイスペックなパソコンは、この後どうすれば自分の自宅にある状態に出来るの??となります。
145さんのコメントのその後、
≫『自分が世界と切り離されていると、そこに「まだ所有していない」
≫「まだお金が無い」とか色々な不足感が邪魔しますが』
ここはまさにその通りと納得出来ますが、
『自分は世界なのですから不足感は感じません』
ここはやはりわかりません。自宅には今の時点ではハイスペックなパソコンはないけれど、ヨドバシにはある、だから不足感は感じない、ですか?
ヨドバシにはあっても、自宅にはない時点で、まだ所有していないとどうしても思ってしまいます。
先に私が書いた、「世界のすべては自分がつくった、自分が創造した、と認めます」というくだりは、ただそう思い込んだだけで、それを145さんと同じようにはものに出来ていないということですかね?
では、それをどうすれば、145さんと同じようにものにすることが出来るのか…。
このへんがわかりません。
「すべては自分が創造したものだ。それを認めよう」というつもりはあるのですが、
それでもそれだけでは145さんと同じ領域にはたどりつけない。
認めた後、どうすればいいのでしょう?
それとも、これでは認めたことにはなっていないのでしょうか?
177 :もぎりの名無しさん:2010/12/23(木) 00:50:50 ID:VRtDOZ8Y0
≫167
文章で書くのは難しいですが、ある願望について、エゴの思い込みがあると自分と世界が引き離されてしまいます。
その思い込みとは非常に些細な下らない事だったりするのです。
例えばパソコン云々の話で言うと「パソコンが欲しい、でも自分の机は散らかってて置き場所が無い」
とか、金銭関係で言えば「お金が欲しい、でも給料が上がるとギャンブル狂の自分のオヤジが金をせびりに来るかもしれない」とか、
恋愛関係で言えば「結婚したい、でも今結婚したら長いこと独身でいる自分の友達と
仲が悪くなってしまうかもしれない」とか。
上記全ての例であえて”自分の”という言葉を使いましたが、まさに自分(エゴ)が作り出した幻です。世界=自分なのですから「自分の~云々のせいで何々が出来ない」という概念にはならないのです。
何故なら全て自分だからです、他の物(者)という概念は無いのです。
さらに上記の例の「~が欲しい」という部分を「呼吸がしたい」という文に変えて読んでみて下さい、
なんと妙な事を言っているんだと感じると思います、呼吸と机が散らかってる事なんて関係無いじゃん、と思うと思います。
つまりこの瞬間に全てはエゴが生み出す幻であるとハッキリと認識できたと言う事です。
後はこの下らない思い込みをどんどん手放してしまえば良いのです、
勝手に願望なんて叶っていきます。
思い込みが無くなるという事は、結局は世界=自分だったという認識にならざるを得なくなるのです。