82 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/17(金) 22:50:55 ID:SMzEZKg.0
自己観察さんの初期の頃のレスで、
思考を観察する視点が別の領域だって気づいたという内容を読んで、別の領域がわかりました。
レスしてくれた自己観察さんにもまとめを作成してくれた人にも感謝です。
もう原因すら覚えていませんが、ものすごく激怒したことがあったのですが、
怒っている私を見ている自分に気づいたことがあります。
その時、まるで二重人格みたいだなと思っていたのですが、自己観察さんのレスを読んだとき、あの時の
怒っている自分を見ていたのが観察している自分だったんだと気づいて、随分、感動したのを覚えています。
何度も無意識に観察している自分を感じることがあったんで、なあんだと拍子抜けしました。
ただ、観察している視点が心地良ければ、その視点にいようと思えるのでしょうが、
私の場合、退屈に感じられてしまって、どうもしっくりきませんでした。
そう感じ始めると自己観察もなんとなく嫌になり、しばらく離れていたこともあります。
離れていた時でも、無意識に観察している自分に気づくこともあったので、
意識して自己観察しなくてもいいのではないか?と感じています。
私のエゴは「何かメソッドしたい」って騒ぐので、今今メソッドと自愛を中心にしていたんですが、
それも面倒になってきたので、「常に心地よく」が今の目標です。
せっかく、リアルに自己観察さんのレスを読む機会ができたので、
もう一度、自己観察にトライしてみようかと考えています。
私は何気ない拍子に観察している自分に気づくことが多いので、
意識的に気づくようにすればいいのかなと思うのですが、
意識すると何だか微妙に感じが違う気もするし・・・色々試してみます。
ところで、自己観察さんにお聞きしたいのですが、自己観察の方法(あえて方法と書きますが)
に気づいた頃と、今とでは意識の面で変化はありましたか?
例えば、今は意識しなくても観察する視点でいられるようになったとか、
または、自己観察に対する考えが変化したとかです。
自己観察さんの皆さんへのレスを楽しみにしています。(色々気づくことが多いので)
106 :幸せな名無しさん:2014/01/19(日) 19:43:46 ID:Mw3V5ZdQ0
≫82
思考に気づいた、気づいたってことはもうそれが気づいてる意識。
至極単純明快な話で拍子抜けしちゃいますよね。
それを探してしまうのは、「今」とか「ここ」にいられないマインドだけです。
ここではないどこか遠くの、特別ですごいものを探してしまうんですね。
それは永遠に辿り着けない蜃気楼ですが…。
「ここ」しかないので「ここ」にしか居られないのに、「どこか」を見続けるのは
それがマインドの性質だし、だからこそ世界は複雑で面白くも苦しくもあるんでしょう。
結局は「ここ」を楽しむか、「どこか」に楽しくて素晴らしいものがあるはずだと
探し続けるかのどちらかなんですね。
なので「ここ」しかないんだってことにある程度馴染めるようになったら、
もう何をしてもいいし、何をしなくてもいい状態なんだと思います。
不足が前提じゃなくなってるから、どっちにしろ楽しめるんですね。
楽しくなくてあれこれ考え始めたとしたら、それはたいてい不足関連なので、
そんなときは、それに気づけるといいんではないかと思います。
これも「気づいていなくちゃ」というのではないです。
ふとしたときに気づいてるようなので、今の感じでいいんじゃないかな。
で、「不足が錯覚だった」というのと「充足しかない」というのとでは
本当は同じなんですけど、自覚の度合いが違いますよね。
自然にメソッドが手放せるようになるまでは、その充足度や自覚を
深めるためにメソッドをするのもいいんじゃないかと思います。
まあ単純に楽しいことをやってれば、自然に充足や自覚が深まるともいえるんですけど。
私自身の変化はですね、「あ、そういうことだったんだ」と初めて気づいたことがあっても、
その瞬間「ああ、でもずっとそうだったな」ってなるんですよね。
そこにずっとあったものに、「やっと今気づいた。けどずっとあったわ。」ってなるから、
その途端、今まで何がわかってなかったのか、今何がわかった!と思ったのかが曖昧になるというか。
何かが変わったと同時に、何も変わってないんですね。
だから以前とは違うんだけどどこがどう変わったのかはよくわからないんですよね。
意識しなくても観察する視点にいられるかというのは、上の35-40宛のレスみたいな感じなんですが、
まずは観察する視点を自覚してから、そこから「観察してる対象」と「観察してる視点」が実際には
分離していなかったんだ、対象も自分だから全てが自分、自分が世界そのものなんですね。
そこらへんも以前に比べて自覚が深まったとは思います。
前はなかなか書けませんでしたしね。
取りあえずは「観察する視点」に気づくという点について主に書いてます。
あまり先を書き過ぎても、まとまりがなくなりますしね。
111 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/19(日) 20:59:28 ID:HAqUhRy60
自己観察さんこんばんは。
いつもレスを楽しみにしています。読むたびにわくわくします。
思考にリアリティはない、という以前のレスを拝見して、そこから一気に気づきの位置への理解が進み、
「目の前のニュートラルな物事を思考が勝手にストーリーを作ってる?!」と気が付きました。
それから「普段自分だと思っているもの」にどっぷりつかりそうになると、
それを敢えてやめるということをしていたところ、ちょっとした幸せを感じる出来事が起こりました。
けれどそこで疑問が湧きました。
その出来事を自我は「幸せ」というジャッジをしているけれど、これも本来ニュートラルであるなら、
①つまりは(自我にとって)いいことも悪いこともすべて幻ということでしょうか。
②けれど、気づきの位置にいれば、自我からしてもいいことが勝手に起きてくるという理解でいいでしょうか。
あまりごちゃごちゃ考えずに、思考にとらわれるのをやめる、ということを
このまま繰り返してみようと思っていますが、お時間があるときに教えてください。
116 :幸せな名無しさん:2014/01/20(月) 00:34:24 ID:osGlfm4E0
≫111
①そうです。
②一部を見ていい/悪いと騒ぐ視点を超えたとこから見てるので、最善が起きてるのがわかるんですが、
自我もそれが最善だということを知るんです。自我自身がもう以前の自我とは違うんですね。なので
「自我からしてもいいこと」ではありますが、「これじゃなくちゃだめ!」といってた自我はもう居なくなるんですよね。
幸せを感じること自体はジャッジじゃないですよ、幸せだからいいとか悪いとかじゃなければ。
その幸せこそがリアリティですね。
119 名前:3 投稿日:2014/01/20(月) 06:37:26 ID:.P8oVLCM0
自己観察さん、ありがとうございます。一つ確認させてください。
自己観察さんのおっしゃる「気づいている意識に気づく」(以後主体に気づくに置き換えます)とは、
そのような主体を単独に知覚・認識することを含意、あるいは意味しているのでしょうか?
と言いますのは、私は自己観察しなくとも、普段から当たり前に思考に気づいています。
ですので、思考に気づいている「主体」とは、敢えて分解すれば、気づいているそれでしょう。
しかし私は、思考や非思考を含め、常に対象とペアで気づいています。
気づきの対象から独立した「主体」は、気づくことはできません。
そこで、自己観察さんが、言われるところの「主体に気づく」とは、どういう意味なのかを確認したいのです。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
159 :幸せな名無しさん:2014/01/20(月) 22:25:08 ID:osGlfm4E0
≫119
えーと、私が「主体に気づく」ということに至った経緯を書きますね。
人は通常、自分と自分以外を、分離・独立した存在として認識しますよね。
世界ありきで、自分がそこにやってきて(誕生)、世界から独立した個体としての自分、
その他の個体性というように。
その認識があるゆえに、自分とは別の何かを獲得したり失ったりすることが出来るわけです。
で、獲得したり失ったりできるということは、自分以外の場所や時間が存在するということになりますよね。
つまり「現実」として認識しているものは、「自分と自分以外」という、分離の概念がなくては成立しません。
で、ふと「あれ、思考と実際の現実って全然違うんじゃないか?」と思ったんです。
これはある程度俯瞰できる人なら、それなりに気づいてることですよね。
例えば「彼氏と連絡取れない。他の人と浮気してるかも、彼を失うかも!」とかで不安になったとしても、
「いやいや、これは思考の暴走で、単に電話が通じなかった事実があるだけだ」とかになりますよね。
私が気づいたのはそのことではなく、
思考自体が「私と彼」とか「自分と自分以外」に分離させてるものだったということなんですね。
思考があるから自分のことを「私」という個体性だと認識し、そこから「私」以外のいろんなものを
個別に認識し、それを「持ってない」とか「欲しい」とか「手に入れるにはどうすればいいか」とか
そういう一連のことを考えることが出来るのだと気づいたんですね。
まさに思考が「現実」を創っている。思考がそのまま投影されていたんです。
でも思考がなくても世界はありのままあるわけです。
ありのままに存在する世界、それはどこにも分け目がなく、一つの流れとして存在していました。
そして、「私」だと認識していた、世界から独立した存在はどこにもいませんでした。
その流れだけが、存在するただ一つのものとして、何の方向性も持たず、ただ在るだけでした。
といっても今振り返って文章にするとそういう感じだったというだけで、
実際にはそこまで瞬時に理解できたわけではなく、ただ全てとの一体感のようなものを感じただけです。
他のものが存在しないので一体感ともいえないわけですが。
(言葉、思考というのは、本当に後からこじ付けたものでしかないんですよね。)
で、「全部自分だった」とわかったといっても、次の瞬間依然として
「自分と自分以外」として世界は展開していました。
やっぱり「私」とそれ以外として世界を見てしまうんです。
ここで一気に目覚めてしまってたら、自己観察だのとややこしいことは言い出さなかったんでしょう。
で思ったんですけど、一つのものしか存在していないということは、主体は自分しかないわけです。
でも思考と一体になって「自と他」で展開してる世界を見ている「私」は主体とはいえない。
(思考に振り回されてるようでは世界の主体として目覚めていないという意味ですね。)
「自と他」など存在しないことを知っている、それに気づいてる存在こそが全ての主体だと。
ならそれに気づいれば、全ての主体として在れるということではないか、と思ったんです。
で、その取っ掛かりとして「思考に気づく」こと。その気づいてる主体として在る。というとこに行き着いたんです。
実際に気づいてる意識として在ること、それが明晰になればなるほど、
自分が世界そのものだという自覚は深まったように思います。
全ては一つではありますが、それは多様性、無限性という性質を持っています。
これは、そのなかの一つの側面として、そういう経験があったということです。
ですので当然この方法が万人にとっての真実であるわけではありません。
気づく順番(というと変だけど)私の経緯からすると、「気づいてる意識」と思考を
一旦分ける必要がありました。
思い出しながら書いたので、多少経緯が前後してるかもしれませんが大体こんな感じです。
「主体として在る」ということは全てそのもの、無限の広がりそのものとしてあることだから
とても心地よかったり安心だったり、愛だったりするので、
なんだかんだ考えずに直接そう在ればいいだけなんですよ。
なのでわかるための理屈というより、心地よく在るための理屈として役立てたほうがいいんですよ。