586 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/12/24(土) 08:36:42 ID:p24SHakg0
不要な観念については見つけた時点で手放せている・・・と言われますが、
結局のところ手放せてないんですね。
そんな風に思ってしまう自分も許す、愛す、もやってるつもりなんですが、
これまた許しきれてないのでしょうね。どんな自分でも許す、愛す、って頭の中で
声にしているだけで実感しきれてないのが本当のところだと思います。
実感するって難しい。
588 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/12/24(土) 09:47:13 ID:pp9Xb/UY0
>>586
僭越ながら。横から失礼。
僕も同じような経験をしました。
許しても許せた感じがしない
自分を愛することがよくわからない
実践してるとしんどい
こんなことが頭をよぎりますよね。
でも、考えてみたんです。
自分を愛そうとしてくれているのは誰なのか
自分の全てをありのまま許してくれているのは誰なのか
自分のどんな側面でも受け入れてくれているのは誰なのか
自分のために何かを成し遂げようとしてくれているのは誰なのか
お気づきだと思います。
他でもない、自分ですよね。
全部、あなたがあなたのためにおこなっていることです。
あなたはあなたを愛そうとし、悩み、ここにレスを残してるし、これからもあなたは
あなたのために何かに悩み、何か辛いことでも乗り越えようとすると思います。
そして今までもそうでした。
それを考えてみたら、充分なほど愛されていることがわかりますよね。
自分が自分を変えようとしていることは他ならない自分の為であり、
言うならば、自分への愛そのものであります。
自分がどれほど自分の為に尽くしてきたか、尽くしているのか、知る必要があります。
今までの悩みは、自分が自分を想うが故であったのです。
僕たちは生まれてこのかた、愛を欠かしたことは無かったんです。
さらに言うなら、僕たちは自分の為に、愛するが故に、ここに存在して何かと動きまわっているのです。
愛という言葉は崇高なものではありません。
ここに在ること=愛、であります。
まさに今、愛されているし、自由を許されています。
それを知ることが、つまりは自愛でありました。
ぜひ、少し考えてみてください。
それでは「愛がわからない」と悩んでいたのは何故なのか。
書いていたら長くなったのでまた書きに来ます。
590 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/12/24(土) 12:39:31 ID:pp9Xb/UY0
588の続き。
>「愛がわからない」と悩んでいたのは何故なのか。
結論から言いますが、
最初から存在していた自分への愛に気づいていなかったからであります。
言い換えると、
世界から分離していた
エゴによる獲得ゲームに没頭していた
と言うことができると思います。
「無条件の愛」。
何故か「無条件」であることが難易度を無意識的に上げてしまいます。
これは自愛をしようとしている人にとって、最大のネックになりがちなものだとおもいます。
僕たちは「無条件」に対して警戒心または遠慮、疑念を抱いてしまいます。
今までの習慣からでしょう。
○○しないと××できない
××するためには○○する必要がある
これがごく当たり前になっており、習慣、常識であり、
これを無視しようとすると違和感を感じ、
「無条件には○○できない!」
自愛で言うと
「無条件には自分を愛せない!どうやって愛せばいいんだ!
……あ!こうゆう自分も愛さないと!!」
ってなるわけです。
この「違和感」の正体、それがいわゆるエゴであります。
あえてエゴと言いますが何も自分以外のものが自分の中にいるわけではありませんし、
それが勝手に動きまわってるわけでもありません。
ここで言うエゴとは、
今までの凝り固まった習慣、常識、自分の意志と反するもの、自分を押し留めようとするもの
と定義しときます。エゴに自由意思はありません。
エゴにとって「無条件」と言うものは馴染みが無く、
それを採用しようとすると違和感、罪悪感となってざわめくわけです。
そのざわめきはどこかで聞いたことがあるセリフ、
「無条件には自分を愛せない!」まさにこれを誘発するわけです。
先にも書きましたが、エゴに自由意思はありません。
あなたがエゴによる見解を採用することで初めてエゴの方針が実行されます。
エゴが自力であなたを苦しめていることなんてありません。
あなたがエゴを選び、わざわざ苦しんでいるわけです。
まさに、自作自えん。
これが分かればこっちのもんです。
続きます
591 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/12/24(土) 12:40:46 ID:pp9Xb/UY0
続き
どんな感情も現実も自分とは無関係だ
俺は完全に自由だ
願いも即叶える
と宣言してみると、そんなわけない!ありえない!現実は現実だ!
などといった声が聞こえて来ることと思います。
ですが、このエゴによる声が聞こえなくなるまで
エゴを無くさなければならないということではありません。
と言うのは、エゴが何かに反応することは全く問題ではないからです。
大事なのは「エゴによる判断をすぐに採用しないで、自分の意志を採用する」ということです。
簡単に言うと、
抵抗感などのざわめきは気の済むまで言わせておくが
願望達成とは何ら関係の無いものだと構えておく
ということです。
そこにはエゴによる制限はありません。完全に自由です。
そして五感を超越して願望達成することができます。
上記のようなことが、
ありのままを許せ
手放せ
何も関係ない
最初から幸せ
別の領域
既にある
に換言されているんだと思います。
自愛の話から話がだいぶ脱線しましたが、
自愛を語ると結局全部繋がってしまったので長文ご容赦ください(笑)