既に食べている真っ最中のリンゴに対して、リンゴ食べたいなーと思うのと同じです
650 名前:627 投稿日:2012/02/21(火) 19:46:04 ID:IZBkUodM0
>>649
お返事ありがとう。
もう、どっち行っても八方塞がりな状況で、自愛を試みようとしても、今の状況を受け入れるんだと決意しても、
セドナやってもポノってももう苦しくて苦しくてご飯も食べられず仕事も行けなくなっちゃったんです。
もう何年もこの板見てるのに全く進歩がなくて焦ってるのもあります。
みんなどんどん認識を変更できてるのに、なぜ私だけできないんだろう?
このまま幸せになれず、生ける屍になって残りの人生過ごすんだろうか?
その前にいっそ自分で命を絶とうか…そこまで考えてしまってます。
651 名前:628 投稿日:2012/02/21(火) 20:14:18 ID:sB4ZHTV20
>>650
セドナやポノは、やらんでください。
どうかその苦しみを、消そうとしないでください。
ただひたすらに、何故苦しいのかその苦しみを見つめて向き合ってください…。
652 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2012/02/21(火) 20:25:26 ID:uJFuW/0s0
>>649
>(既に在るお金が欲しいをイメージすると、欲しいの部分が消えるはずです。)
お金欲しいをイメージしてる段階で「欲しい」は消えてなくね??
あなたの「既にある」の話は、「所有」とか無視すりゃ、ソレを認識した時点で「ある」だけで、
そこに「俺にはない」「あいつもの」とかの後付けなけりゃ「既にある」って事ですよね?
でも最初は「既にある」と言われれば「既に俺のものなんだ」「既に俺それ持ってんだ? どこによ?」
と所有の話云々で聞いてしまうんだよね。
654 名前:628 投稿日:2012/02/21(火) 21:19:07 ID:sB4ZHTV20
>>652
おっしゃるとおりです。その通りです。
「既に俺それ持ってんだ? どこによ?」
と探し出した時点で、既に所有していないことを認めております。
故に所有していない現実が現れる、ということです。
所有しているか、していないか、どちらに意識を向けるかの違いです…と耳タコなことしか言えませぬ…。
656 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2012/02/21(火) 22:33:10 ID:Jl3pFrE.0
>>628さん、ありがとうございます。
お金の例えは、自分が持っているイメージができていればOKって話なんでしょうか?
でも確証が持てないから「ないじゃん」ってなる。
そもそも確証とか証はエゴとか自分が理解できる範囲のものしか認識できないから
探しても意味ないじゃん→でもでも・・
654の話から「所有しているか、していないか、どちらに意識を向けるかの違い」とありますが、
じゃあ所有しているって自分で決める?決めてOKですか?
で、エゴが騒ごうが所有しているって決めて、それっていわゆる7章ですかね?
でも体感ない・・・。
664 名前:628 投稿日:2012/02/22(水) 19:34:21 ID:sB4ZHTV20
>>656
体感…そうですよね、したいですよね、これがまた…
頑張って書いてみます。
既に手にしているものを手にしたいと思う。
これは、既に食べている真っ最中のリンゴに対して、
リンゴ食べたいなーと思うのと同じです。今食ってるやんけ。
もしですよ、もしを付けて結構です、
もし、“既に所有していてその確証が確実に在るお金”があるとしたら、そのお金に対してどう思いますか。
その思いがイメージできたなら、もう終了です。やることはありません。
でもまだ手に入れていない、何処にも無い、と思うかもしれませんが、
それは当たり前です、手に入れていないものはどこにもありません。
そう思って全然かまいません。それを無くそうとか否定とかしないでいいです。
ただ認めてください。
“既に手に入れたもの”に対する思い と、
“手に入れていないもの”に対する思い
の区別はつきますか?
ついたなら、どちらか好きなほうに意識を向けるだけです。
しかし、“既に在る”を理解していない状態で抱く“既に在る”のイメージ
(>>652さんが、でも最初は~と表現してくださった)は、
ああこれか…と理解した“既に在る”とは全く違います。
多分、認識変更前に、既に在るを理解することもイメージすることも不可能です。
今まさに思います…言葉ってなんか変だと。
こんな簡単なことさえ伝えることが不可能なのだと。
何度も似たような文章を目にしましたが以前はさっぱり理解できませんでした。
何故急に理解できたのか、その理由はわかりません、すいません。
でもそこが知りたいのだと思います。
ニュー・アースという本によると、
気付きは恩恵のようなもので、自分ではどうしようもないらしいです。
しかし、そういったものがある、ということを知ることも気付きのプロセスであり、
いったんプロセスが始まれば決して戻ることは無く気付きに向けて進むだけであると。
ですから例えばこの板を見ている方などは、間違いなくすべからく悟れます。ということになります。
この本の著者のおっさんが何故そんなこと断言しているのかは知りません。
でも、ああそうだなぁと何故かうなづけます。
にしても、達人という言い方は一体…?
あたりまえのことをあたりまえに見れるようになるだけですよ?
むしろ、あたりまえのことをわざとあたりまえに見えなくして、
しかもそれに100%のめりこんじゃっていたという以前の認識のほうが、
まじすげー…ゴクリ… って感じでごわす。