108さん84/自分の人生に現れている要素を、全て「エゴかどうか」という疑心暗鬼な態度で判別しようとしない

この記事は約6分で読めます。
スポンサーリンク

自分の人生に現れている要素を全て「エゴかどうか」という疑心暗鬼な態度で、判別しようとしない

 

327 :五:2008/05/26(月) 22:28:14 ID:N0LNvjkW0

108さんへ
たぶん最後の質問になるかもですが。私が手放しているのは、もちろんエゴの解釈・判断です。
これは言われるとおりのようにやっています。でも、こればっかりでは生活の基盤がなくなりそうです。
例えば、仕事しなけりゃ収入がなくなる。それで仕事に出かける。
                        
それで、この場合はエゴの判断・解釈を採用しています。
でも、このエゴの判断解釈で仕事に出かけ、仕事に時間を取られるのは面白くないですね。
そこで、この『面白くない』という気持ちを手放すようにはしていますけどね。
この『面白くない』という感情もエゴの側にあるものですよね。

で、エゴの側にあるこの2つ『仕事する』『面白くない』がありながら、
この前者だけをつかみ、もう一方を手放すようにしています。

言い方を変えれば、エゴの判断・解釈で行動し、感情だけは外側を感じるということです。
※これはかつて108さんがいっていた「エゴとのダンスをやめる」ということかも。
こういうことは私の場合、仕事の他にも結構多いです。

例えば、早寝早起きして健康を保つとか、普通面白くないことを自分に課しておきながら、
感情は「今」に焦点を合わせ、そこにある解放観、満足感に浸り「気分いい」ように創っています。
それで仕事に興味もわき、うまく行き、人間関係もすんなりいっている。

これでいいですか?と聞いていながら、既にそれをやっているわけで、
それをやめることも現実にはできないので、聞いてもしかたがないこととはいえ、疑問もありです。
どうなんでしょう?ここに自分は、どこかにウソを入れているのでしょうか?
これでは『何もしない』ということと、矛盾してもいるようですしね。

510 :108 ◆90KoxUVipw :2008/05/29(木) 00:57:36 ID:1BEUIOqH0

>>327(五さん)
> ぶっちゃけた話、今のところ結果オーライで来ている部分も多く、
> 私の手放しメソッド実践もいい加減なところが多いです。

いい加減で良いんです。そのくらいの感覚で充分です。
だからうまく行ってるんだと思いますw

多くの人と共感して、喜びを交歓してください。
あなたは新しい認識を得て、ますます現実を望むように変更していくでしょうが、
だからといって、他の人と違う特別な存在というわけではありません。

それぞれが、それぞれのレベルで体験しています。
たとえ、引き寄せやスピリチュアルな部分を語り合えないとしても、
あなたも彼らも、全てのレベルで同時に存在しているのです。

そこに共感してください。あなたはどのレベルでも交歓することが出来ます。

> 例えば、仕事しなけりゃ収入がなくなる。それで仕事に出かける。
> それで、この場合はエゴの判断・解釈を採用しています。
> でも、このエゴの判断解釈で仕事に出かけ、仕事に時間を取られるのは面白くないですね。
> この『面白くない』という感情もエゴの側にあるものですよね。

まさにあなたは、
エゴの判断による解釈を採用して、自分は仕事に出かけてしまっている。
 なぜなら自分は、面白くないことをさせられているのだ

こうやって、自ずからエゴを拡大しようとしています。
エゴを注意しすぎるあまり、エゴの影響を感じる部分を許せなくなっています。
かえって、エゴの適用される範囲を図らずも広げてしまっているのです。

496 :五:2008/05/28(水) 22:44:33 ID:VqGd0uSG0

108さん
前レス>>327の質問がゴチャゴチャした書き方だったので、
もう少し整理し、追加したことも書き加えます。

前レスでは、エゴを手放すということについて2通りで私はやっている。
こんな感じでいいですか?そういう質問でした。その2通りを列挙しますと

・エゴの判断を採用しない。
(例)残業を断ると、同僚の仕事が増え、感じ悪く思うだろう。でも、その不安を採用せず、帰る。
その結果、同僚の反感はなく、自分もリフレッシュできて満足していい。

・エゴの判断を採用はする。でも、気分はエゴの外側を感じる。
(例)生活を安定させるため、仕事しよう。でも、気分は満足していようという行き方。
これはどこかにウソがある感じもする。でも、自分の決定に徹すると、気分良く出勤できるようになって
きているし、仕事の担当も興味のある分野への配置になった。
 ↑
これでいいの?、いまはこれしかできませんが。という質問でした。

そして追加の部分です↓
でも、この場合も、満足感と歓び(=つまりエゴ以外の領域の感情)があり、その感情に基いて、
現実創造がなされているということでいいのですよね。

以前、108さんが現実をコントロールすることを放棄した方がいい旨を仰っていましたが、
こういうように全て完璧という実感・感情を引き寄せることでもあろうかとも思うのですが。
いかがでしょうか?

511 :108 ◆90KoxUVipw :2008/05/29(木) 00:58:32 ID:1BEUIOqH0

五さんの引っかかっている部分は、よく分かります。私も通ってきた道だからです。

で、>>496について改めて答え直すと、

1については、どちらでも良いです。
つまり、残業しても、断っても良いということです。
実際に、断ったところで何も問題は起きていません。

ただし、ここを二者択一のように考えてしまうと、

 残業→エゴ  断って帰る→別の領域

こういう定義付けをしてしまうことになります。
何度も言いますが、それらは関連していないのです。
だから、

 残業→別の領域  断って帰る→別の領域

これも可能だということです。今は、五さんが自分の感情面に注目して、

「恐れを手放し、魂が快いと感じる選択をしている」ということだと思いますが、
行動の選択にかかわらず、どちらも快い現実としてしまうことも可能、ということです。
いずれの場合も、恐れを手放すことは大切ですが。

むずかしいと感じたら、深追いする必要はありません。
今のままでも、五さんは見事に手放すことを適用できています。

512 :108 ◆90KoxUVipw :2008/05/29(木) 01:00:37 ID:1BEUIOqH0

この1の考え方から、2については自然に答えが出ます。
人生からエゴに関連した部分を全て取り除くことは出来ません。
呼吸もエゴと考えて「じゃあ呼吸を取り除こう」と考えても無理です。
エゴの自分の一部だからです。

自分の人生に現れている要素を、全て「エゴかどうか」という、あまりに疑心暗鬼な態度で、
判別しようとしないでください。どんなものも、エゴを現すものになることが出来るし、
反対に、別の領域の属性を帯びたものとして、現れることも出来るのです。

> 生活を安定させるため、仕事しよう

この判断は本当は違うのですが、今のうちはそう思っていても結構です。

> 気分良く出勤できるようになってきているし、
> 仕事の担当も興味のある分野への配置になった

もう既に、このような現象化が起きているからです。
この部分では「エゴの判断を採用している」と思っているのにも関わらず、です。
つまり、五さんが(実質的な経験という観点からしても)幸せでいいかどうかは、
五さんが「エゴの判断を採用しているかどうか」ということにさえも、
実は関連していないのです。

これによって、追加質問にも自ずと答えが出ます。
これは五さんだけでなく、全ての人に向けて言います。

「エゴの見解を採用していようがいまいが、それらと全く関係なく
 実際の体験として、実質的な幸せを経験して良い」


ということです。
こう考えるとき、エゴの見解を採用しているかどうかに依存することなく、
常に別の領域の視点に立つことが出来ます。

タイトルとURLをコピーしました