732 :幸せな名無しさん:2013/12/23(月) 01:41:57 ID:TOuD1PLo0
こんばんは~~。
えーっと、私がいろいろ書いているから「こんなときにはどうすればいいのか」
の答えを得られるように思わせてしまうんでしょうね。
そういう質問に関しては、基本に戻ってもらうしかないですね。
あと自分の位置確認というか、こういう場はそういうのに役に立ちますね。
これは逆に無用な停滞とか依存とかに引っかからなくなると思います。
(これも度をすぎると依存になりますが)
確かに質問することで外への依存を強める場合もありますが、
実際に何かに依存していない人は殆どいません。
なんだかんだみんな何かにしがみついてます。思考なんてその際たるものですよね。
その対象の一つがここで質問する(または読むことで何か得られるかもとか)という人もいるでしょう。
でもまあこれだけ同じことを繰り返し書かれてるんだから、何かの拍子に気づくでしょう。
タイミングは人それぞれでしょうが。
それと私に謝ったりとか御礼とかも必要ないですよ。
お礼はコミュニケーションとしてありかなとは思うんですけど、たいしたことはしてないしされてもないし。
私に関しては、私が答えてるというよりただ質問に対して反応が起こってるみたいな感じですね。
そうでないとこんなに同じことを書いてるっておかしいかもしれませんよねw
670 :幸せな名無しさん:2013/12/19(木) 01:07:07 ID:vfZ7x84Y0
自己観察さんに質問!!!
目覚めたら欲しかった物がテーブルの上に置いてあったとかそういう面白不思議体験って最近ありましたか?
もう、そういうのを不思議に感じない所まで到達してそうだけど…笑
733 :幸せな名無しさん:2013/12/23(月) 01:44:37 ID:TOuD1PLo0
≫670
あれ?っていうのはよくある。でもあまり記憶と照合しない。
記憶がないわけではないんだけど、ほんとに泥団子な感じでさらさらしてるんですよ。
不思議体験?はこないだ渡り鳥が飛んでるのをぼおっと見ながら歩いてたら、数秒間だけど鳥になった。
鳥の体感とか視界が意識に入ってきたというか。気持ちよかった。また飛びたいw
673 :幸せな名無しさん:2013/12/19(木) 10:48:02 ID:2fmduPVE0
自己観察さん。潜在意識板をみてるとさ、
≫330にある
≫嫌だと感じることをどうにかしようとしないことです。(レス使いまわしですみませんw)
≫基本、気づくだけ、後は何もしません。
≫「何かしたい」「どうかしたい」は意識ではなく思考ですから、そこに気づくだけです。
≫とてもシンプルなので「物足らない」「これで本当にいいのか不安だ」となっても同じく気づくだけです。
こういうことを本当に<文字通り>受け取って、
「不安は見つめるだけでいい」「なにもしなくていい」
なんて思って、行動をおこさずに人生停滞してる人が沢山いると思うんだよね。
(別のスレだと、なっていれば、気持ちよさを感じていればいいとか)
行動しなきゃなにも始まらない。
受験生ならしっかり勉強しろ。恋愛なら自分を磨け。無職なら働け。
これも思考だって除外してたら、一生なにもできない人間ができあがっちゃう。
自己観察さんの書いてることはもちろんそういうことじゃないんだけれども、
観察から行動へ、そこらへんは実際どう考えていらっしゃいますか?
734 :幸せな名無しさん:2013/12/23(月) 02:08:56 ID:TOuD1PLo0
≫673
思考に気づいている意識という観点からすると「行動が必要か不要か」というのは無意味な話です。
「行動しなくちゃ何も始まらない」「行動しなくても大丈夫」はいずれも思考だからです。
それは「私が行動している」という思考を信じてることが前提の議論です。
ですが実際に何か行動が起こってるとき、よーーく気づいてみてみると、
「行動している主体」というものが存在しないということに気づくことができます。
試しに「コップを持ちあげる」とか「画面の文字を読む」とか「椅子から立ち上がってトイレに行く」とか
何か行動をしている(と思ってる)時に、よく気づいてみてみましょう。
思考以外で、確かにその行動をしているといえる主体が、明確に存在するでしょうか。
(しかも思考は行動より一瞬遅いことに気づけるかもしれません)
常に変化し続けている流れのなかで、様々なことが現れては消えていきます。
それを後付けで「私が行動した」とレッテルを貼ってるということですね。
様々な思考と一体化してる人は、
「勉強しなくては試験に受からない」「勉強したくない」「でも試験には受かりたい」
「受からなかったら最悪だ」「勉強しないと不安だ」「でも何もしないでも大丈夫って聞いたし」とか
色んな矛盾した思考の中で葛藤しながら、その時々でいちばん信じられる思考に従って
勉強したりしなかったりするでしょうが、相反する思考との葛藤で苦しめられることも多々ありますよね。
思考の影響を受けないでいると、傍から見ると行動してるように見えても、
本人は「自分が行動している」という認識は薄い(または全くない)です。
行動は自然に起こる。気づいたらしてしまってる。自分が動いてるようで世界に動かされている。
何の抵抗も感じずに行動が出来る。世界が勝手に動いてくれる。とか。
勉強をするということが起こってきても、受験のために必要だからではなく、
流れに乗って気楽にやってるんです。
≫674さん≫682さんとか、それぞれ感覚や表現はちがうけど、こんな感じになるんです。
同じ「勉強をする」という現象が起こったわけですが、思考で「嫌だけどしなきゃいけないからする」のと
「自分がしている」という思考に囚われず、自然に起こってることに気づいてるだけでは全然違います。
思考から自由になると、思考に伴う罪悪感、努力、葛藤、不安、達成…等々からも
自由なんです。何も関係ない。何にも意味がない。それが自由です。
≫「不安は見つめるだけでいい」「なにもしなくていい」なんて思って、行動をおこさずに人生停滞してる人
これは「私は何もしない」という思考と一体化してるだけだと、様々な思考の影響下で
人生停滞だと感じるような思考や感情に振り回されてる状態だということでしょうね。
本当に何もする必要がないことに気づいてる状態だと「何もしなくていいんだからどうのこうの」と
言い訳めいたものもありませんしね。
行動している主体が存在しないことを認識できていなかったとしても、
個人であるという認識が緩んでいるときは「何もする必要がない」状態とニアリーイコールです。
なので、
≫(別のスレだと、なっていれば、気持ちよさを感じていればいいとか)
これも本当に「何もしなくていいんだ」という実感を伴う気持ちよさを感じているのなら大丈夫だと思います。
ただ人はそう思いたがることによって、信じたいことと実感を混同してしまうこともあります。
そこらへんはやはり自分の内面をごまかさずに見つめることが出来るかどうかだと思います。
740 :幸せな名無しさん:2013/12/23(月) 13:53:37 ID:TOuD1PLo0
思考に嵌ると「どうすればいいんだろう」ってなるんですが、
この「どうしたらいいのか」という質問自体が外側への問いかけなんですよね。
自分の中で「こうすればいいんじゃないだろうか」と答えがあったとしても、
「いい・悪い」の相対性だから誰かに「それでいいよ」と言って欲しくなる。
「どうすれば安心できる自分でいられるだろう」「安心してる自分だったらどんな感じだろう」
自分に問いかけるとしたらこんな感じじゃないですか?
854 :幸せな名無しさん:2014/01/09(木) 14:15:22 ID:n.aWk/ss0
今某有名ハンバーガー屋で遅いランチ中なんだけど、自己観察してたら
こんなとこで昼食なんて貧乏人だ、なんて意識がでてきた。
こんな意識があるなーって観察はできるんだけど、貧乏人だ貧乏人だって苦しい。
普通に700円くらいの新作のセットなんだけど、駄目なんか。
こう意識を眺めてても胸が苦しいだけなんでなんとかしたいんだけど
自己観察的には、いや、新作セット美味しかったじゃん
そっちの現実を選ぶぞって選び直したらいいのかな?
このチェーン店が自分にとっての貧乏のシンボルみたいになってる意識も変えたいんだけど、
変えようとするのは自己観察じゃないんだよね?
856 :幸せな名無しさん:2014/01/09(木) 14:23:18 ID:KbwLH8mg0
こんな思考に気づいたけど苦しい変えたいって人は、
観察対象である思考のほうばかり見てるんじゃないかな。
対象(客体)じゃなくて観察してる主体に気づくことで、
苦しんだり変えたりする必要がないことに気づけるんだけどね。
861 :幸せな名無しさん:2014/01/10(金) 12:21:28 ID:uD1/q7Pg0
≫856
「エゴに気付いている主体に気付く」ことが大切ってよく言われるけど
これわからない人間には全くわからないんだよ。
864 :幸せな名無しさん:2014/01/10(金) 22:24:23 ID:j9uDQFt60
≫861
対象(思考)にばかり注目してるからだと思う。
「こんなところで食事するなんて貧乏だ」という思考に気づいたとして、
こんな思考はよくないから変えたい。それにはどうやったらいいんだろう。この思考はどこから生じたんだろう。
そうやって分析して解決策を見つけようとすると、それは思考の範疇でやってることなので、
「気づいてる主体」は思考がやりたいように譲ってくれるので、隠れたまま姿を現しません。
「実際に起きてることのありのままの姿」と「その事象を思考でどう捉えているか」が
いかに乖離しているかに気づくことができると、思考が虚構だと気づけるようになる。
思考で作り出した「こんなところで食事するなんて貧乏な私」という虚構の私など存在しないことに気づける。
そうすれば、思考を変えたり原因を探す必要もないわけです。
虚構の思考に対して分析や解決など無意味だから。
思考が虚構で無意味だったんだ!と気づけば、当然、じゃあリアルは何だ?ってなるというか、
何だ?と聞くまでもなく、これがリアルじゃんと言えるものがそこにある。
探すまでもなく最初から在ったことがあっけなくわかる。
「わからない」と言ってたから「わからない」感覚を味わっていただけで、
実は「わからない」ことなど不可能で、「わからない」は虚構なんだから「わかる」必要もなかったとなる。
「わからない」という思考に囚われたまま「わかろう」としたり何かを探したりするのは
虚構の森の中を延々と彷徨い続けてるだけです。
「わからない状態」から何かを理解して「わかる状態」になるのではないです。
それだと思考の領域から一歩も出てません。つまり気づいてなんかいません。
「気づいてる主体」に気づけるはずありません。
「わからない」というレッテルを貼ってるだけだと気づくことです。
「わからない」のではなく「わからないというレッテルを貼ってる」ことに気づくから
気づいた瞬間にそれをどうにかする必要がないんです。
思考には気づけてるけど実況中継してるだけとかわからないっていう人は、
その思考を「レッテルを貼った後のもの」として見ることは出来ないだろうか。
思考でレッテルを貼る前の、ニュートラルな状態を見ることは出来ないだろうか。