356 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 23:27:14 ID:gR19gG0U0
すべてのレッテルを外したとき、
「観察を錯覚たらしめた者」「錯覚とレッテル付けした者」「きづいてる者」
はそれぞれ別々の独立した存在ですか?
359 :幸せな名無しさん:2013/11/17(日) 00:02:51 ID:7U6ZzGCg0
≫353
≫まず観察を錯覚と感じれないし、
一応ですけど、観察を錯覚として感じ取れという意味で書いたのではないです。
認識が進めばそういう理解が起こり得るという意味です。
≫観察を錯覚だ。と感じれたとしても観察を錯覚たらしめた者がいるもの。
≫それを錯覚とレッテル付けした者がいるしね。
≫「きづいてる者」だっていると思うし。
これこそレッテル付けではないかと。
「感じられたとしても」という仮定で想像して分析してレッテル付けましたみたいな。
実際に感じられた場合にどういう理解が起こるかも分からないですよね。
≫これは思考でこれは気づき。ってやっぱレッテル付けになるだろ。て思ってしまうし。
これも分からない地点からだから、想像して分析して…ですよね。
つくづく思考は細かく分析してレッテルをつけるのが好きなんだな、とあなたのレスを見て思いました。
そうやってレッテルをつけるから自分と他の人、さまざまな物体、場所…を認識できるのではないですか?
それは錯覚ではないですか?
≫ちなみに「気づき」て何に気づいてるってことなんですか?
≫355の通り、すべてのレッテルを外した後に残るもの、です。
思考とは逆の作用です。すべてのレッテル、自分と他の境界が錯覚だったことに気づくんですから。
≫「ある時」までは行為者としての行為なんですか?
≫まずそもそもスタートが「観察しよう」と決めたのも自分だし。
行為者はレッテルじゃないですか?
観察はレッテルじゃないですか?
自分はレッテルじゃないですか?
レッテルこそ錯覚じゃないんですか?
それらのレッテルを外したら何か残るんでしょうw
意味不明だったらごめんなさい。軽く読み流してください。
面白い質問ありがとう。
360 :幸せな名無しさん:2013/11/17(日) 00:27:17 ID:7U6ZzGCg0
あ、≫359は考えたり答えを探そうとしないで、
問いかけたらあとは宙に浮かせといたほうがいいいですよ。
思考の範囲外にしか答えはないんで。
363 :幸せな名無しさん:2013/11/17(日) 02:28:32 ID:rwL0XJrg0
≫359
≫認識が進めば~
それは逆に認識が進まないと理解は得られないと?
(それは誰が言った?あなたのこの世界に対するレッテル?)
「気づき」はレッテルを全て外した後に残るものですね。
レッテルを外す者はそこにいるからレッテルを外す者が残ってしまうんですが。
≫そうやってレッテルをつけるから自分と他の人、さまざまな物体、場所…を認識できるのではないですか?
≫それは錯覚ではないですか?
前者は頷けますが、なぜそれが錯覚なのでしょう?
俺はそれを「それは錯覚ではなくて真実だ」とまではいいませんが、
なぜそれをそこまで錯覚にするのかが分からないんです。さもそれを真理であるかのように。
≫つくづく思考は細かく分析してレッテルをつけるのが好きなんだな、とあなたのレスを見て思いました。
あなたが俺のレスを読んでそれに対してどう思うのか、それは勝手ですが、
面白いレッテル貼りを有難うございます。
最後に「レッテル」を勿論俺も外したいのですが、そのレッテルを外す者がいるのです。
「レッテルを外す者」レッテルは誰が外すのでしょう?
「右手のひらで右手のひらを撫でろ」と言われてる感覚です。
屁理屈ばっかな突っ込みですみません。
エゴの気が済むまで質問させてやりたいし、吐かせてやりたかったので。
366 :幸せな名無しさん:2013/11/17(日) 12:44:46 ID:7U6ZzGCg0
≫363
≫それは逆に認識が進まないと理解は得られないと?
≫(それは誰が言った?あなたのこの世界に対するレッテル?)
「錯覚に気づくこと」自体が認識なので認識が進むと表現しただけです。(そういう方向性で話する都合上)
進むと言っても直線状に進むと言う意味ではないです。気づけば理解が起こる、という単純な話です。
錯覚だと気づかないと、錯覚であるという理解には至らないですよね。
あくまで言葉でやり取りする上での必然なので、世界に対してのレッテルにはならないと思います。
≫レッテルを外す者はそこにいるからレッテルを外す者が残ってしまうんですが。
レッテルを外した後の、「自分だったもの」「他人だったもの」「物体」「場所」は
レッテルを外したものとは別のものですか?
それとも存在していないということでしょうか?
≫前者は頷けますが、なぜそれが錯覚なのでしょう?
レッテルを外した後の「他人」「場所」「物体」はもう他人でも場所でも物体でもないですよね?
他人だと思ってたもの、PCだと思ってたもの、壁だと思ってたもの…
は目の前に在るかもしれませんが、もうそれらは個別に存在してるものではないのでは?
あとはレッテルを外したものが残ってるはずですが、そこに在るのはただ見ている何かなのでは?
見ている何かと、見られている壁とかPCだったもの、他人だったものは別のものですか?
でも残ってるのはレッテルを外したもの(見ているなにか)だけなはずだから、
別のものがあったらおかしいですよね。
≫俺はそれを「それは錯覚ではなくて真実だ」とまではいいませんが、
≫なぜそれをそこまで錯覚にするのかが分からないんです。さもそれを真理であるかのように。
私は真実だから分からなくても信じろといってるわけではないですし、
私は錯覚だと認識したというだけなので、そう見えなければそのままでいいと思います。
≫「レッテルを外す者」レッテルは誰が外すのでしょう?
それ以外のレッテルが全て外れてるなら、
「レッテル」や「レッテルを外す」というレッテルもないでしょうから何かが在るだけなのでは。
思考で辿り着くのは不可能でしょうし、誰かの言葉で納得できるものでもないでしょうから
放っておくしかないでしょう。
≫屁理屈ばっかな突っ込みですみません。
≫エゴの気が済むまで質問させてやりたいし、吐かせてやりたかったので。
エゴもレッテルですよねw
一応、この掲示板では「全体から切り離されたと感じてるもの」とか
そんな感じの意味で付けられてると思うんですけど。
つまりエゴとは、小さい範囲でしか物事を見ることが出来ない存在、
少なくとも全体を把握することが出来ない存在と言ってもいいかと思います。
で、あなたが信じるかどうかは別として、私は全体性のことについて話をしています。
エゴで理解できる話ではないということですね。
368 :幸せな名無しさん:2013/11/17(日) 14:46:22 ID:b6Qnld9c0
≫366
錯覚だと気づいた者は私なんですか?
377 :幸せな名無しさん:2013/11/18(月) 23:56:59 ID:HKUJxuoA0
「気付く」をしていたら、“もう一人の自分が見てる”みたいになる。
これって分離じゃないのかな?
一体っていう感じはしなくて、左斜め上らへんから自分を傍観してるみたい。
あーまた不安になってるわ、とか、おいおい、またこの思考~?とか。
でもまた、分離じゃないのかな?って思って不安になってるわー、でいいのかなw
379 :幸せな名無しさん:2013/11/19(火) 00:56:22 ID:ugCYjN/60
≫368
≫錯覚だと気づいた者は私なんですか?
それは一人称の「私」ですか?
全てのレッテルを外したときに、「個人の私」と「何か」を区切る境界は存在しますか?
それは何かの言葉、レッテルで表せるものですか?
それを表現するとしたらなんと表現しますか?
≫377
その「不安になってるわ」「またこの思考~?」のほうではなく、
それに気づいてる存在自体に気づくってことです。
それが何者でどういう存在なのか、そこに何が在るのか、に注意を向けてみてください。
384 :幸せな名無しさん:2013/11/19(火) 12:37:13 ID:4ALELR0s0
≫379
錯覚と気づいた者は誰なんですか?
あなたなのでは? あなたからすれば「私」でしょう。
その「私」にはまだレッテルがついてるのかしら?
そのレッテルを外せば何も残らないのでは。
一人称の「私」なのではないでしょうか。
全てのレッテルを外しても「個人の私」と「何か」を区切る境界は
ノーラベルノーレッテルとしては境界はないでしょうね。
しかし存在や肉体としての境界はありますね。
あなたは女。あなたの彼氏は男。あなたの彼氏は他の男性とは存在的肉体的には違うでしょう。
でも男とか彼氏とかそーいうレッテルを外せば何でもないただの無機質な存在だけが残るのでしょうか?
402 :幸せな名無しさん:2013/11/21(木) 23:17:19 ID:6o5Y.NHU0
≫384
≫錯覚と気づいた者は誰なんですか?
≫あなたなのでは? あなたからすれば「私」でしょう。
「これは皮膚である」「これは身体である」「これは人間である」
「これは個人である」「これは空気である」「これは距離である」
という概念からなるレッテルを外したとき、「私」だけが独立して存在できますか?
「私」が一人称で存在してるなら、当然レッテルが外された後の「私以外のもの」が存在してしまいます。
ですが「私以外のもの」というレッテルをつけることは出来ません。ではそれらは何でしょうか。
一人称の「私」だけが存在することが果たして可能でしょうか。
「私」の境界はどこに、また境界の内と外というのは存在するんでしょうか。
≫その「私」にはまだレッテルがついてるのかしら? そのレッテルを外せば何も残らないのでは。
一つ一つのものを個別に意味づけしていたレッテルが消えても、目の前に在るものは消えませんよね?
≫一人称の「私」なのではないでしょうか。全てのレッテルを外しても
≫「個人の私」と「何か」を区切る境界はノーラベルノーレッテルとしては境界はないでしょうね。
≫しかし存在や肉体としての境界はありますね。
≫あなたは女。あなたの彼氏は男。あなたの彼氏は他の男性とは存在的肉体的には違うでしょう。
上と同じですが「これが肉体である」「これが女」「これが男」
「これが彼氏」「彼氏以外の男」は区分して名称を持たせてるだけなのでは?
概念以外でそれらを独立した存在たらしめてるものがありますか?
人は通常「身体(皮膚)が自分の内と外との境界である」という概念を持ってますが
「これが私の身体である」というレッテルを張ることで概念に当てはめることが出来るわけですから、
レッテルがなければ、それを個別の「身体」として認識できないのではないでしょうか。
私の彼氏と他の男性は性格や顔、身長、声、さまざまな構成要素が違ってますが、
それらの構成要素も全てはただの意味づけですから、それを外してしまえばただ存在している何かです。
じゃあなぜ他の男ではなく彼氏と付き合うのか、というのは、概念の世界で
それを好ましいと思ってるからですが、要は個人である「私」の都合ということですね。
つまり私が一人称の「私」として世界を認識するとき、
全てのものもそれぞれ独立した意味を持って世界に現れています。
すべてから概念が消えてしまった後に、どうして一人称の私だけが
他のものと違って存在することが出来るんでしょう。
あとノーラベルノーレッテルとしては、この「としては」って何でしょう?
「○○としてはこうだが、××ならばこうならない」という思考で答えを探そうとしてるってことですよね。
思考とは、あなたがやってるように、概念を持ち出してシミュレートし
何らかの答えを引き出そうとするその活動のことです。
私は何もかも全てからレッテル(思考の意味づけ)を外したら何が残りますか?
と聞いてるのですから、概念がないと活動不可能の思考で把握することは不可能です。
思考を用いて思考を外すことは出来ないでしょう。
あなたが「私」というレッテルを外すことができないとしたら、あなたが「私の思考」で
それをやろうとしてるからです、ですが、最後に残るのが思考でしょうか?
「自分という存在が確かに存在している」とという自己認識感覚は思考でしょうか?
≫でも男とか彼氏とかそーいうレッテルを外せば何でもないただの無機質な存在だけが残るのでしょうか?
ただ思考で捉えた意味づけがなくなっただけで無機質になっちゃいますか?
そうだとすると思考、レッテルが有機的なものですか?
試しにほんの少しの間思考を止めてみてください。
そのときあなたは無機物になって自分の存在をを認識することが出来なくなってしまいますか?
まとまりがなくてかなりややこしくなってしまったので、嫌になったらスルーしてくださいw
取りあえず、思考でわかろうとしても絶対無理ですし、それだと続ける意味もないですしね。