321 :幸せな名無しさん:2013/11/15(金) 18:30:35 ID:DdcVYcJk0
自己観察さん……ご本人!?
せっかくなのでお聞きしたいことがあるのですが、当方復縁希望です。
頭では「既にある」「何もしなくても(何をしていても)叶う(叶っている)」などなど……
ここの板始め、達人さん方の言っていることはわかります。
しかしここにきて、「不安が既に実現していたらどうしよう(相手に恋人がいたらどうしよう)」
「私が知らないところで私が望まない現実が展開していたらどうしよう」
「そもそもちゃんと自己観察、自愛ができているかわからない」と、
身の置き方というか、エゴの囁きであるとはわかりながらも耳を傾けてしまいます。
相手に恋人の有無を確かめるべきか?
食事や映画に誘うべきか?
現実は過程として、自分の心の動きに注視し続けるべきか?
などなど……自信がない、のだとは思いますが、最近はモヤモヤとして
彼(に関する不安なこと?)をよく考えてしまいます……
(で、その不安が実現したらどうしようという不安もセット)
目に見える現実のあれこれに振り回されず自分の心にのみ集中し続ける姿勢が必要でしょうか。
知識ばかり先行して苦しいかんじもあります。
どうかなにかご教授頂ければと思います……。
329 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 01:25:26 ID:gR19gG0U0
≫321
まあ恋愛は不安さんが大活躍しますからねえ…
不安は別にあってもいいんですよっていうか、不安が悪いわけじゃないんです。
あなたが不安を否定するから、不安も必死になって大声で自己主張するんですよ。
不安はそこにあるだけなら全く何も力を持ちません。
あなた自身がそれを恐れることによって、ありもしない力を与えてるんです。
不安に限らずすべてのことは中立です。それを否定したり変えようとしない限りは。
あと「思ったことが実現する」っていうのは殆ど信念化してるかもですが、
これもかなり部分的な表現・受け取られ方をしてます。
実際はあなたや殆どの人が思ってるようなものではないです。
ましてや「不安だから不安が実現するかも」は、自然に楽な姿勢で歩いていれば前に進むのに、
どうしてずっと後ろばっか見てるの?だから疲れたり躓いたりするんだよ。みたいなことです。
後ろの景色が悪いわけでも道が悪いわけでも足が悪いわけでもなく、
ただなぜ前向かないの?っていうだけのこと。
周りが見えなくなってる本人にとっては大事な、
傍から見ればばかばかしい理由があるかも知れませんが、
ニュートラルな視点から見ることが出来れば、ばかばかしさに気づけて
努力せずともすんなり自然に前を向けるようになります。
それと同じで不安が悪いわけじゃないです。
でもそこばかり見てしまうのはなぜでしょう。と向き合ってみてはどうでしょうか。
ニュートラルな立場で、その理由を見つめてみてはいかがですか?
いずれにしても本来の自然な姿勢に反してるだけです。
リラックスして安心することに慣れていくことで、普通に楽に歩けるようになりますよ。
ただ、これもリラックスしようとして却って緊張するならやめることです。
私が「気づく」ことについていろいろ書いたのは、私にとっては楽になれることだからです。
方法や知識をあれこれ持ち出してもあなたが楽になれないなら何の意味もありません。
324 :幸せな名無しさん:2013/11/15(金) 20:39:48 ID:hQpQc/8c0
≫319
返信ありがとうございます
個人としてのものは全部分離だよという個人としてのものというのがどういうことか分からないです
嫌だと感じる出来事があり、今嫌だと思っているなと観察するようにはしてるのですが、
勝手にその嫌な出来事がしつこく何回も繰り返し浮かんできたり、そのことに関連することが
浮かんできます。この場合どうしたらいいですか?
しつこく何回も繰り返し再生されたり関連すること想像が思い浮かぶとき辛いです。
そういうときどういう視点で見ればいいですか?「また~のこと考えているな」と思えばいいですか?
自己観察するさい「今~と思ったな」と思ったことを繰り返して言う方法で観察していますが
これでいいですか?言語に直さず観察するのができないです
あと、幸せに感じているときとか気分のいい感情のときは
「~と思った」なんて観察する立ち場じゃなくてもいいですか?
観察しても別にいいのでしょうか?
330 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 01:27:01 ID:gR19gG0U0
≫324
宇宙も他人もなにもかも全部丸ごと一つのところから生じてるので、
個人というのは全体の一部、分離された一部ということですよ。
個人のエゴ、個人の別の領域、という考え方のほうが分かりやすければ
そういう受け取りかたでいいかと思います。
≫319の前半、≫329と同じ、嫌だと感じることをどうにかしようとしないことです。
(レス使いまわしですみませんw)
基本、気づくだけ、後は何もしません。
「何かしたい」「どうかしたい」は意識ではなく思考ですから、そこに気づくだけです。
とてもシンプルなので「物足らない」「これで本当にいいのか不安だ」となっても同じく気づくだけです。
308さんの仰るとおりコツがわかると自己完結するはずです。
完結せずに何か訴えてくるなら、それにも同化せず気づくだけなので。
そうはいっても同化してしまうのは多分、思考や感情が意味がないものには見えないからでしょうね。
「気づいている意識」の自覚、認識がまだ浸透してないせいかもしれません。
ここでも積極的に安心を感じられる領域に慣れることだと思います。
≫自己観察するさい「今~と思ったな」と思ったことを繰り返して言う方法で観察していますが
≫これでいいですか?言語に直さず観察するのができないです
これは慣れもあるかと。あとやっぱ自覚の深さ、明晰性が漠然としてるのかもですね。
言語化してしまうことに対する自信のなさとか責める感じとかあればそこに気づく、だけです。
「自覚が浅い」と言われたから「これじゃダメだ」「深くしよう」ということではなく、
それは別に悪いことではないです。
何かいわれて反応する、自分で思ったりするそういう心の動きに気づくんです。
判断はいりません。判断するのは思考です。
判断するから「どうにかする」必要が出てくるんです。
判断してしまっても「どうにかしよう」と思っても、それに気づいてしまえば、それは力を失います。
力を持つべきはあなたです。
無意識に思考に力を与えてることに気づくということです。
323 :幸せな名無しさん:2013/11/15(金) 20:22:18 ID:JE76thO60
うわ~、ちょっと感動です。
そしてイケメンの彼氏さんとその後どうなったのか気になりますw
325 :幸せな名無しさん:2013/11/15(金) 20:55:53 ID:JE76thO60
なんか、親父っぽい発言だけでもアレなので・・・
≫311でのメソッド自分の容姿についてやってみました。
1、鏡に映ってる自分をありのまま見る私を見る空間と一体となってるような視点
2、望んだ容姿になってる自分と完全に一体
気分は「うしゃしゃしゃ~w」
3、1は知覚
2は喜びと嬉しさとの一体感
4、すみません
>なんとなく知覚が変わったらおしまい。(変わらなくても適当に終える)
がいまいちよくわかりませんでした。
あんま気にしないで、任せるに任せておけばいい感じでしょうか?
試しに2の一体感を感じてる自分を、1の視点(感覚?)で想像して終えてみました。
1の感覚で自分の身体をありのまま見れるようになったのがほんの2、3日前からなので
これがいいのかなんなのかはよくわからないのですが・・・
331 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 01:27:32 ID:gR19gG0U0
≫323
うふふw気にかけてくれてありがとうw
おかげさまでなんとかうまくいってますよー!
≫325
メソッドぽいやつですが、別に正解はありません。
ただ自分の感覚、気づきをもっと信頼する、精度を上げるって感じです。
だって結局自分の感覚だけしか知ることが出来ないんですから。
ここでの私の文章よりよっぽど信頼できるものですよ。
私の感覚から言うと、気づいてる自覚の度合いが高いほど現実面でもわかりやすい感じがします。
いろいろ楽しんでくださいね。
332 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 01:28:16 ID:gR19gG0U0
一応今までのレスをまとめておくと、
基本的には、気づくだけ、後は何もしない。ただそこにいるだけ。
何もしないことに不安やいろんな心の動きが出てきても、それに気づくだけ。
「これはどう対処したらいいだろう」と思ったなら、それに同化せず気づくだけ。
それを繰り返していくと「安心」「解放感」人によっては「空白」「無」かもしれませんが、
そういう感じになるかもしれません。(あくまで一例。人それぞれ。)
あとは安心、リラックス、自然、楽、そういうスペースに積極的にいること。
というかたいてい不自然に緊張してるので、それを緩める、脱力ってことです。
安心のスペースが定まってくると、気づく精度が違ってくると思います。(無駄な動きがなくなるような)
こんな感じです。
それではまたそのうち。
339 :幸せな名無しさん:2013/11/16(土) 10:34:29 ID:gR19gG0U0
忘れ物でした。
「自愛と自己観察してるけどできてるかどうかもよくわからない」的なレスを見かけた気がするので。
自愛と自己観察の違いについて書いておきますね。
自愛は自分を愛するという「行為」を通じて、自分が本来愛であることを思い出すものです。
これも自覚度合いがあって、愛そのものという自覚まではなくても愛を感じやすくなることで、
本来の在り方に近づくことになります。
自愛は愛そのものであるものが、自分自身を愛するという、見かけ上のプロセスが発生します。
行為、プロセスは分離の領域です。
で、自己観察、気づいてる意識は「行為」を通しません。
以前は色んな理由で観察する行為、あるいは「気づいている意識」である自覚が生じるまでの訓練と
位置づけてた部分もありますが、実際は直接性です。気づいてる意識が愛そのものであるので。
直接それ、直接「愛」です。分離ではなく一体です。
思考に囚われてる領域で「気づいたけどどう対処するのか」という場合に、
対処するなら自愛やその他メソッドをしますが、自己観察では対処しません。
それも思考だと気づくだけです。
「気づいてる意識」であるときに行為をすることはできません。
気づいてる意識にありながら同時に自愛をするとかはできません。
あと自愛も自己観察も、その本質を理解せずに実践しても躓きやすいのかなと思います。