クレさん_30/人はいつか死ぬという観念を捨てることは可能

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90 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2010/10/12(火) 17:36:34 ID:c43RizPg0

55さんーーー。
最近55さんの真剣な書き込み少なくて、ちょっと残念なんですよ~
というか55さんに108さんのいう認識の変更ってどういうことか聞きたいです。

 

108 名前: 55 ◆52uE3j0pa6 投稿日: 2010/10/12(火) 22:48:35 o9z6Jxt.0

≫90
どうもどうも^^

≫ というか55さんに108さんのいう認識の変更ってどういうことか聞きたいです。

108さんのことは108さんに聞くべし!ってUMA(未確認生物)だもんね、もはや氏も。

多分、お尋ねになりたい件は、以下のこの辺に“何か”あると思いますので、
どうかニュアンスを汲んで同調してみて下さい。
不精しているのではありません。真剣であらばこそ、こんなレスしかできないのレス。

「認識を変更したい私は、認識が変更されていない私だ」
「認識を変更した私は、認識を変更する必要がない」
「たった今“そうである”ということは、たった今“そうである”ということだ。
これは最も簡単で最も強力な創造だ」

あ、あとこれも。

「幸福は不幸の反対ではない」

 

178 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/14(木) 21:25:01 lxqRO1k60

≫55さん。
認識の変更についてもっと書いてください。お願いします。
≫108だけだと自分にはチンプンカンプンです。

 

180 名前: 55 ◆52uE3j0pa6 投稿日: 2010/10/14(木) 21:29:44 o9z6Jxt.0

≫178
具体的にお願いしますです。

 

182 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/14(木) 21:58:49 ID:qLe.ummcO

≫180
では横槍を突いて55さんの立場を確認したい。

認識の変更に限界はあると思いますか?
時間の概念を捨てることや人はいつか死ぬという観念を捨てることは可能ですか?
可能でないならばその理由もお聞きしたい。

 

183 名前: 55 ◆52uE3j0pa6 投稿日: 2010/10/14(木) 22:38:03 o9z6Jxt.0

≫182

私は昨日や明日を「今この瞬間」経験できない。
私は「今この瞬間」死んでいない。
思うに「今この瞬間」には限界がないのではないでしょうか?

私たちがこうして概念について語る時には、
「であろうこと」「であったこと」に基づいています。
ならば果たして「今この瞬間」に概念を語ることができるでしょうか?
限界があるなしに関わらず、概念などというものがあるでしょうか?

つまり、こうです。限界はない。
しかし私たちが考え語ることには、限界がある。

 

188 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/15(金) 08:17:16 ID:qLe.ummcO

≫183
それでは、今この瞬間とは何?

語ることに限界があるのには同意できます。
私は時間や死の概念を具体的なレベルで捨てることができる人間はいないのではないかと
考えていますが、それも一定の経験則に基づいています。私がそんな人間いないと思うから
いないのだとも考えられるでしょう。むしろ投影論ならそれが素直だ。

一方、具体的な個々人を離れた抽象的なレベルで言えば、私は時間や死の概念を
捨てることができると考えています。しかしそれは今この瞬間や、
108氏の言う”今”に何もないからという理由ではなく、
現実が内面の投影だとしたらそんな概念自体存在するわけがないから、
捨てることができて当たり前だからです。

私がお聞きしたかったのは、抽象的なレベルで可能か不可能かもそうですが、
具体的なレベルで、本当にそんな認識の変更ができる人はいるのか?ということです。
前回の質問は曖昧すぎました。

そして私はこういう話相手を探していたので楽しいですwありがとう。

 

189 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/15(金) 08:59:04 XcCbX5EEO

≫188
クレさんのいう「具体的レベル」の意味が汲み取れない…(´・ω・`)

わからんがw
仮に時間概念・生命概念を変更するとして、どこを探り弄るが最適かとかもキモな気がする…
それ以前に、クレさんの「なる」をもってしても、そこには行き着けない…のか?w

あ、スンマソw
自分もこのやり取りは非常に楽しみなんでw
構わず続けておくんなましwww

 

196 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/15(金) 17:39:56 ID:qLe.ummcO

≫189
具体と抽象は相対的なもので分野によっても異なるから、それを当然に持ち出した私は悪い子だw
私個人を抽象化していくと、一例として→人→動物→生き物→存在 となっていくかな。

今回私の言う抽象というのは、主体を極限まで抽象化して、
つまり主体を考えずに「可か不可か」ということ。

それに対して具体とは、主体が存在する。
「私ができる」とか「108氏ができる」とか。
「そんなことできるやつがいるのか」 「できるか?」ではなく、
「できる人がいると思いますか?あなたはできますか?」という疑問。

もちろん、これは私達が語ることなので、私達の脳みそを限界としてしか語れません。
語れませんが、やはり主体を抽象化した場合時間概念を捨てることはできる。

そして、私が思うに、時間概念・生命概念を捨てるのに、あなたが言う
「弄る」ことは不要だと思います。最初からそんなものはないが、ないうえで
その概念を持つ以上、「最初からそんなものはなく、今も存在しない」
ことを受け入れれば、それで済むはずです。

しかし、やはりそれを具体的にできるかどうかとは別の話だと私は考えます。

 

199 名前: 55 ◆52uE3j0pa6 投稿日: 2010/10/15(金) 18:41:18 o9z6Jxt.0

≫188
具体的な個人から離れない具体的なレベルでのみ、時間や死からの自由があると思います。

具体的なレベルでは、今、私は生きている。今、死はない。
しかし抽象的なレベルになると、いつか誰かの死の体験がある。この先の死が見える。

私の今ここのリアルでは、私の寿命は尽きていない。
私は地上100メートルのビルから飛び降りて死んでいない。
私は走行中の自動車に飛び込んで怪我一つしていない。
私の今ここのリアルで、私は不死だ。

むしろ今ここのリアルにおいて、死こそが虚偽ではないでしょうか?

 

208 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/15(金) 21:22:17 ID:qLe.ummcO

≫199
同じ意見かと思いきや、私とは少し意見が違うんですね。
私は抽象的レベルでこそ人の死など見えない。具体的なレベルで私には人の死が見えます。

この間、いつぞやのリアル神対女の同期が突然亡くなりまして、
私にはやはり死が”ある”のだと思いました。
この”やはり”というのが、私自身死の存在を常に意識していたであろう証とも言えます。

私は死を微塵も怖れていません。
むしろ不謹慎ですが、死んだら自分がどうなるかを知りたがっている。
私には極めて好奇心をそそられる未知の体験です。
その体験は必ずいつか訪れると感じている。
だから私は毎日を後悔なく精一杯楽しみ生きている。

このように私は具体的に死が存在すると考えているわけですが、
それは一方で死の存在を捨てることができていない証左であるわけです。
しかし、実は捨てることができたと豪語する人間に出会いたがってもいる。

そして、世界が内面の投影なら、死は必ず存在するが、
僅かながら死なない人間も存在して然るべきだと思うわけです。

だから、というわけではないですが、55さんにちょっと話してみようと考えたんです。
あなたなら必ず私をワクワクさせるレスポンスがあると、これもまた確信したのです。

今ここに死がないというのは全面的に同意です。
今ここにはそんなものすら抽象化され、抽象化されすぎてもはや何もないですが、
全てがあります。そこにおいて死は虚偽だと私も考えます。

わかりずらい内容を汲み取って真摯にレスをくれる姿勢に感謝します。

 

213 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/15(金) 22:19:55 XcCbX5EEO

決してクレシフトをバカにするわけじゃないけど、あれも結局
特別な才能ある選ばれた人間のみが使える高等技術でもなんでもなくて
「みんな普段からやってるじゃん」的な代物だったんだよね。
気付いた時はマジ拍子抜けたww

 

265 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/16(土) 19:09:23 ID:qLe.ummcO

≫213
表現が難しく見えるだけです。
私は普段から正しいが難解な文を書くと注意されたりするくらいだからな。すまん。

 

374 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/19(火) 01:06:43 z2RMBpuI0

執着ってなんだろね。
きっと分離や恐怖心から来るのかな、と思うんだけど。

執着心を取り除くには「心配しなくていい。大丈夫だ」と
自分を安心させてあげることがいいのかな?

 

387 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/19(火) 11:32:57 ID:qLe.ummcO

≫374
分離からくるものだと思うな。
それじゃなければダメという執着心は、自分の五感の作用で
感じ・考え・把握し・評価したものとそれ以外を切り離す。

「あの人じゃなければダメ」なんていう人よくいるし、
自分自身もそうだったけど、実際はそんなことない。

満たされてるときに振り返れば、人も物も”それ”じゃなきゃダメだった経験なんて結局一度もないや。
“それ”よりいい人・物に出会うと”そっち”の方がよくなって”それ”のことどっちでもよくなる。

何かを埋めたいんだよな~。多分。”それ”で。

 

398 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/19(火) 14:50:58 utxK6XGQO

≫387
それでは何故わざわざ一つのものに執着するのでしょう?
「それ」に執着してしまったのは何故か?というか。
執着自体ではなく、何故「それ」を選んだのか疑問です。

おにぎりの具は梅でなければいけないとか、この人と付き合いたい!など。

 

403 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2010/10/19(火) 16:46:08 ID:qLe.ummcO

≫398
おにぎりはさておき「この人と付き合いたい」には執着心がないと思う。

執着してしまうまともな理由なんてあるのかなあ。
そんな理由がないからこそ、あなたのおっしゃるように
「なぜ一つのものに執着するの?」という疑問に行き着くんだと思う。

なぜ「それ」を選んだかっていうのは具体的な場面で様々な理由があるだろうね。
一般化・抽象化すると「それがよかったから」という風にトートロジーになってしまう。
それも突き詰めて行けば理由なんてなくなると思うけど、そこまで抽象化して考えても
あんまり楽しくないなあ。

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