396:wild:2016/07/20(水) 21:37:28 ID:zDbjLUQs0
現象さん。
現象さんの「概念」という表現、先日読んだ時は「なるほどー」くらいの感覚だったのですが、さっきピコーン!!ときちゃいました。
繋がりました。
私は常に、私に起こるすべての現象、そして私自身さえも定義しています。
つまり概念のことです。
そしてあらゆる概念こそ囚われであり、苦しみの原因であります。
ですからこの自分で作り上げた概念を手放した先が、概念や言葉では表現できぬ本当のWild(これも概念ですが)が姿を現します。
これを手放すには、普段私自身が無意識に作り出した現象を概念化していることに気づく、自覚することが必要です。
常に私自身を観つつ、私に起こる現象に対し「これは私の作った考えである」として自覚し、また私自身さえも概念であることを自覚します。
自分で作った概念を解除し、手放していきます。
これはブログ「私を知る」で慧空さんという方がおすすめしているメソッドです。
すべて概念であると気づかれた現象さんにはぴったりだと思ったのですがいかがでしょう(^^;
お気が向いたら覗いてみて下さい。
しかし…あの本でよくそこまで気づかれましたね!?
さすが現象さんです!!
私の迷いも一気に晴れそうです!
いつもありがとうございますm(__)m
398:現象:2016/07/21(木) 18:58:47 ID:UxV5vokU0
wildさん
>あとは体感だけとなりましたか
全部思考の中であーだこーだやってるだけ、とは思うものの、
慣性の法則みたいなもので、これまでの習慣で、気がつくと思考の中に居ます。
あれもこれも思考が見せている幻だ、と思うと
何もかもどーでもいーじゃないか、どうなろうと構わないじゃないか、
なんてことになって、やりたくないことは一切しなくなって、
仕事を放棄し、昼日中からブラブラする、みたいなことになりそうな気がw それが怖いw
とまあこれも思考なんですが。。
そんな考え方を採用したら大変なことになるぞ、とエゴが言っているんでしょうね。
>ですからこの自分で作り上げた概念を手放した先が、
>概念や言葉では表現できぬ本当のWild(これも概念ですが)が姿を現します。
概念や意味というのは不思議なものですね。
私が思うに、概念・意味というのは、
とりあえずこの世界のことを分かったことにするためのもの、だと思います。
本当は何もかも、ぜーんぶワケが分からないんですが、そういことにしておこう、という。
たとえば、手と呼ばれている体の部分を見ると、5つに枝分かれしていてなんか気持ち悪いw
でも、それを「手」と名付けて、モノをつかむためにあるもので云々、
などと意味づけしてしまうと、これはそういうものなのだ、と見慣れたものに、安心できるものに変わっていく。
意味というのは貨幣に似ていて、というかほぼ同じモノで、
意味は、この木とあの木は異なるのに、同じ「木」としてひとくくりにしてしまう。
貨幣は、キュウリと消しゴムはまったく異なるモノなのに、同じ200円として価値を表示してしまう。
貨幣というのは、ライオンやキリンに混じって「動物という観念」が動き回っているようなものだ、
とかマルクスが何かに書いているそうですが、なんだか面白いですね。
あれっ?話がズレてますねw
>しかし…あの本でよくそこまで気づかれましたね!?
いや何も気づいていませんよ。
なるほどなー、やはり世界を組み立てているんだなと思っただけで。
>ブログ「私を知る」
以前紹介されている時に少し読みましたが、また読んでみたいと思います。
ありがとうございます。
402:wild:2016/07/24(日) 13:09:56 ID:W0VYYPlU0
≫398 現象さん。
≫ あれもこれも思考が見せている幻だ、と思うと何もかもどーでもいーじゃないか、どうなろうと構わないじゃないか、
そうですよねー。
実際そうなって仕事辞めちゃう人もいますからね。
しかし探求が終わった人は、あえて幻の中をしっかり生きようという心境に行着く方が多いような気がします。
幻と真実との摩擦に苦しんだ後にそのような境地に至るのかもしれません。
≫ 概念や意味というのは不思議なものですね。私が思うに、概念・意味というのは、とりあえずこの世界のことを分かったことにするためのもの、だと思います。
この概念ですが、今見たり聞いたり感じたりしている「感覚そのもの」も含まれてます
よね?
ダイレクトパスで言う「現れ」こそが概念かなと思いました。
思考による意味付けとしての概念だけでなく、私に起こる現象すべてが概念。
現象を認識すること=概念を作っている。
このスレでもそのあたりの議論がありましたが、おととい通勤中に腑に落ちまして、今以前とは違う感覚になってしまいました。
これから私の身に起こること、理解すること体感することすべてが概念。
Wildそのものを体感したいと思っていましたが、体感したらそれはWildではなく、概念です。
これは以前現象さん、真昼さんがおっしゃっていたことで、まさにその通りであると感じました。
私という存在はあえて言葉にすると、概念をただ作りだす存在。
それ以上もそれ以下もない。
どこまで行ってもこの私から逃げ出すことはできない。
これすらも概念であり、説明のしようのない、ワケがわからないけども確かに存在している存在。
なんとお話すればよいか…
何か神秘的な体感をしているわけでもなく、ただ私という世界は概念なんだなという認識の中にいます。
喜びも苦しみも概念でして、多幸感もなくフラットでいて落ち着いており、
ただただそうなのかーと言った感じです。
その場その場での思考、感情はありますが、流れて行きます。
≫ 貨幣というのは、ライオンやキリンに混じって「動物という観念」が動き回っているようなものだ、とかマルクスが何かに書いているそうですが、なんだか面白いですね。
マルクス面白いw
このワケのわからないものが動き回っているシーンを観念なしで見ることは、生きている間は不可能なんでしょうね。
動き回っているワケのわからないものが現れている時点で既に観念・概念の世界なのかなと。
そういうもんなんだーと観ているだけで、それで落ち着いちゃってますw
気づきのきっかけを作って頂いた現象さんには本当に感謝です!
ありがとうございますm(__)m
しばらく様子をみようと思いますが、これも概念の中だなと納得してしまい、これ以上はもう突き進まなさそうな感じではありますねー(-_-)
405:現象:2016/07/24(日) 17:56:28 ID:Y3WyXD7Y0
≫402
wildさん
岸辺から川を眺めると、川が流れていることが分かります。
なぜかと言えば、自分は固定された岸辺に居るからです。
でも例えば、岸辺の見えない、どこまでも水面しか見えない川に
小舟などに乗って川といっしょに流れていると、
自分が流れている、川が流れているということは分からないでしょう。
水面の変化や舟が傾く感覚、身体感覚などはありますが。
やがてこの大河に、杭が現れます。
杭が前方から近づいてきて後方へと移動していきます。
このときはじめて、私は川の流れに乗っている、と認識できる。
なぜなら、流れないモノが存在してこそ流れは認識できるからです。
視点も含めて、すべてが流れていたら流れているのかどうか認識できません。
この「杭=流れないモノ」が、言葉であり意味であり概念なのだと思います。
常に変化し流れ続ける現象に、ある枠組みを投げかけて、
意味づけ・解釈・概念化という固定化を行う。
それによって私たちは初めて何かを認識することができるし、
真昼さんが以前おっしゃっていた感覚の奔流のようなものも認識できる。
願望を握りしめていると実現しない、ということとも関係がありそうですね。
406:現象:2016/07/25(月) 03:43:54 ID:4OYFmcDU0
≫402
wildさん
いろいろ書き忘れてました。
>この概念ですが、今見たり聞いたり感じたりしている「感覚そのもの」も含まれてます
よね?
例えば、何らかの感覚を「人の声として」認識したのならそれは意味・概念です。
ですが、「人の声として」認識する手前の「何らかの感覚」が
wildさんのおっしゃる「感覚そのもの」だとすると、これはどうなのかなぁ。
あ、何かの感覚だ、と認識したとしたら、「感覚」という概念ではあると思いますが。
>ダイレクトパスで言う「現れ」こそが概念かなと思いました。
wildさんが以前おしゃっていた「視覚とは色彩である」。この「色彩」も概念ですよね。
では「色彩」という概念を外したら、もう何なのか分からない、もう何でもない、つまり無なのかもしれません。
現象を組み立てる順番で記載すると、
何なのか分からない→でも、何らかの感覚・刺激を受けていると感知する(感覚・刺激という概念)→色彩だ、と認識する(色彩という概念)→その色彩は人の形をしている(人という概念)
みたいなことになるでしょうか。うーん、どうなんだろ。。
>これから私の身に起こること、理解すること体感することべてが概念。
>Wildそのものを体感したいと思っていましたが、体感したらそれはWildではなく、概念です。
理解にもたらされたとしたら、認識したとしたら、それは意味・概念ですね。
Wildそのものと一体化している時は、
≫405で書いた、岸辺の見えない大河を流れている時と同じで、
私という視点もまた川といっしょに流れているので、流れていることが分からない状態です。
そこに流れない杭としての意味・概念が現れると、
流れから分離する視点が生まれ、私は流れているのだと認識できます。
分離しているからWildそのものではありません。
でも、Wildが在る、と認識することができます。
常に流れ、変化し、生き生きと生成しているのが世界の実相だとすれば、
意味・概念というのは、世界の屍・死体です。
世界の実相が映画だとすれば、意味・概念というのは写真でしょう。
流れ流れていく世界のワンカットを切り取ったものが意味・概念ではないでしょうか。
辛い出来事がおありだったようで、なんと申し上げればよいか。。。
こんな時、言葉は無力ですね。
その辛さに思いっきり浸るのもいいのではないでしょうか。
辛いことは辛いんですから。
辛いことに浸ることがwildさんのお気持ちを素直に表すことにもなるのではと思います。
素直に気持ちを表すことって、とても大事なことに思いますし。
409:wild:2016/07/25(月) 22:58:39 ID:IIk9VMK60
≫406
現象さん。
補足のレスも頂きましてありがとうございます。
大河の比喩をしばらく考えていましたが、補足でスッキリしました。
≫ 現象を組み立てる順番で記載すると、何なのか分からない→でも、何らかの感覚・刺激を受けていると感知する(感覚・刺激という概念)→色彩だ、と認識する(色彩という概念)→その色彩は人の形をしている(人という概念)
この2番目なんですけれども、私という思考が無くても感知している状態が以前私の言っていた「感覚そのもの」なのですが、既に感覚として感知している時点で概念であるという気づきがありました。
ですから、通常使われる言葉としての概念とは微妙に違って、「現れ」と言った方が良かったかもしれませんね(^^;
現象さんのおっしゃる通り、この現れ以前は無なのかもしれません。
しかしなぜ現れが概念というものだとしっくりきたかと言いますと、今のところうまく説明ができない状態です…。
ただ、鏡が鏡を見る状態も現れであったと気づきました。
どんな真理めいたものも、状態である以上現れであるとうことですね。
実はここが私の開放感の元だったのですが、探求を深めるうちに苦になってしまったところです。
≫ 分離しているからWildそのものではありません。でも、Wildが在る、と認識することができます。
一体化してしまうと熟睡と同じように何も現れが起きなくなるということですね。
知らんさんが昔の記事で、起こる現象すべてをエゴとしてみたらどうか?というお話をされてましたけど、分離=エゴだとするとまさにこの通りですね。
≫ 流れ流れていく世界のワンカットを切り取ったものが意味・概念ではないでしょうか。
ああ、これは良い表現ですね!
ワンカットを掴んでしまいがちですけど、よく見ると常に流れているんですよね。
掴んでしまう正体は私個人という記憶でしょうかね。
≫ 辛い出来事がおありだったようで、なんと申し上げればよいか。。。
最近は苦についての書き込みが多く、皆さんにはご心配おかけしてしまい本当に申し訳ございません…。
私は今までも愛別離苦が多い人生であり、またそれが探求のきっかけ、気づきの促進になっているところもありました。
今回、起きた日は号泣でしたが、翌日は不思議と感情は落ち着いており、昔ならずっと引きずるようなことなんですけども、激しい感情が起こらない状態なんです。
今このように書き込みができるほど流すことができているのに驚いています。
もし感情の波が襲ってくる時がありましたら、素直に浸ろうと思います。
現象さん、励ましのお言葉ありがとうございますm(__)m