279: もぎりの名無しさん :2012/01/22(日) 21:59:07 ID:IjgIee9EO
メソッドしてない。自愛も不完全。認識も変更して無い。
これならこれでオッケーなんだけど、どうにかしなきゃいけないって思うのはやっぱり不足を感じてるってことだよね。
どうしても、方法論的なものがほしいならアドバイスを1つ。
今自分が思ってること、見ているこの「現実」のことを、物事の最終的な結果としてみることを意識してみて。
つまり今の自分は何らかの原因が働いた結果として存在していて、そこから何かがはじまったりするものではないんだって発想で「今」をみてみる。
実はこれって自分の行動を反省的に見なくなるちょっとダメな思想ではあるんだけど笑
あくまで淡々と、仏様のような目で自分を観察すると、罪悪感みたいなものが消えて、穏やかになるんだ。
甘える自分も誰かを責めたい自分も認めて楽に生きてね。
281: もぎりの名無しさん :2012/01/22(日) 23:53:32 ID:s3ptHOBo0
>>279
あ、それは思ってました。「~だから今の私は~なんだ」って
原因→経過→結果だと思うのが普通でした。
「今」しかない、って思うようにしたいです・・・・。
283: もぎりの名無しさん :2012/01/23(月) 02:38:31 ID:IjgIee9EO
多分あなたは原因→結果の原因の方に意識が集中していて、それを「今」だと考えているんじゃないかな?
なんらかの原因といったのは文字通り「なんらか」でそれは神の意思とか、とにかく解釈不能なものなんだ。
この解釈不能をなんとか解明しようとするのが悩んでしまう人で、そんなの神様に任せて目の前に映るメッセージ(これが結果であり現象)を単純に受け取ろうとするのが自分を愛せた人なんだ。
後者は目の前に広がる世界が「今」だから、感じようとしなくてもダイレクトに伝わってくるものなんだ。
とにかく楽に、信頼するってことが大事かな。
326: もぎりの名無しさん :2012/01/27(金) 09:54:00 ID:YyfE4q2oO
>>283
現実は内面の投影ならば自分が何かを造った瞬間が「今」で、見えてる現実が過去なんじゃないんですか?
達人さんもそのような書き込みしてた気がするけど・・・
327: もぎりの名無しさん :2012/01/27(金) 11:05:01 ID:s3ptHOBo0
>>326
自分もそういう事に拘ってましたけど、
>>283のレス読んで
「今」しか無いって思ったら漸く「過去」や「未来」に拘らなくなりました。
108さんも仰ってましたが「今、今、今今今・・・・・・・。」と
あれ?「今」何にも起きて無くね?ってなりまして、「何も無い」=「全てある」
ってなりました。
メ鶴の恩返し状態です。ううう(泣)
335: もぎりの名無しさん :2012/01/27(金) 17:12:57 ID:lN6BKD.6O
>>327 「今」って「現在」じゃないよな?
結局「今」何も起きてねーつか、出来事や何もかもを知覚する前の段階つか領域だと思うが。だから選べるとか全ての可能性の世界があるとか。
338: もぎりの名無しさん :2012/01/28(土) 00:34:12 ID:s3ptHOBo0
>>335「今」とか「現在」とかの明らかな差異は正直、定義としての
意味合いの違いは自分としてはしっかりと理解して無いです。
が、>>283の中にもあるけど「原因」ではなくて「結果」=「今」を
選ぶってことで理解できました。
自分は「原因」ばっかり探してました。
「原因」なんてほんと神のみぞ知る、桑田さんのブログで言う
「知らん」って事だと思いました。
だから、「結果」だけ淡々とチョイスすれば良いだけなんだと
「今が書き逃げのチャンス」さんも『ただ願う』『ただ待つ』これだけ
って言ってました。
347: もぎりの名無しさん :2012/01/28(土) 22:17:28 ID:3yD6boaM0
チョイスしたら思い通り
イコール、
チョイスしないと現実は今のまま
チョイスしてないときは不都合なまんま
が隠れている。
チョイス云々にこだわるのは結局「エゴによる願望獲得ゲーム」に参加したまんま。
現実を否定してアレコレやっても「現実」が前提。
結局「現実ありき」のままだから「現実」に思い悩む。
この現実から抜け出したいのなら、根本的なところに気づくしかない。
354: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 09:11:45 ID:DD5NIEWs0
>>347
ちょっと気になったので。
あくまで私見ですが、私の理解が間違っていなければ、
現象化はある1点とある1点の2点間の最短距離に起きてくるものなので、誰しもが常に選択をしているんです。
その次の1点(パラレルワールドといってもいい)の選択が、意識的か無意識的かの違いと私は思います。
でも、そのうえで、このご指摘は重要だと思いました。
>チョイスしたら思い通り
>イコール、
>チョイスしないと現実は今のまま
>チョイスしてないときは不都合なまんま
>が隠れている。
仰る通り、現実を否定してアレコレやっても「現実」が前提、では意味がないと私も思いました。
だから、108ブログの祝福や直結メソッドでいう「ある」を前提にもってくるとか、
桑田さんの「それがある世界を創る、チョイスする領域が大切(ttp://ticketmemo.jugem.jp/?eid=8)」が肝かと。
356: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 11:35:22 ID:Si5wlr9o0
>>354
常に選択をしているかどうかは本当には分からない。
桑田さんとかが言ってる「チョイスする」をそのまま「私がチョイスできるんだ」ととってしまうと、未だにいわゆるエゴのまま。
そして「なぜチョイスするのか」と聞かれれば”必ず”、「今を変えたい」という願望があり、それはやはり「今は不都合」が隠れており、結局「現実ありき」なんだ。
達人たちが言ってることをまるで教科書のように「理解」しようとすると、それはゴールに近づいている気がするが、それは違う。
元々ゴールにいる。
だが、エゴの領域が本当の自分の居場所なんだ!という勘違いから
「なんとかしてこの状況を脱しなければ」「理解しなくては」「悟らなくては」が生まれる。
そしてそのコントロールしなくては!と言ってるのはエゴ。
エゴは何かをしないと気が済まない。
「良いもの」に心をひかれ、「悪いもの」は拒絶する。
だがそれは自分自身ではない。
本当の自分は身体も精神ももたない。
「私」は「意識」そのものであり、現実に生きている身体が「私」なのではない。
本当の自分は現実をただ眺めているだけの存在で、全ての基盤。
全てを受け入れている。
355: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 10:51:50 ID:Q0WQE/9s0
なんだか少しづついろんなことがわかってきた気がする。
やはり現実は内面の投影みたいなものだと思う。
ここで最近語られている「今=結果」っていうのもなんとなくわかった。
「今=現象として結果」であり「今=原因となる内面」ってことでいいのかな?
だからただ「今=現象としての結果」をふーんって受け取ってるだけで、いつのまにか現象はいい感じになるような。自愛していたら現象化はやっぱりそう思うとあるね。
だってどんな受け取り方や感じ方をする自分も愛し許すんだから。
なんでもいいんだね。自分がやりたいように意図してもよし。何もしなくてもよし。結局宇宙が完璧にやってくれる。
現実は直接的にコントロールできない。直接コントロールなんてできないけど、コントロールしたかった現象を勝手に宇宙が用意してくれるってことなのかな。
ただ自分は7章はまだわからないな。
でも世界観が変わってきたなあ。ああまたひとりで突っ走った。ごめんなさい。
356: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 11:35:22 ID:Si5wlr9o0
>>355に書いてある、「受け取ってるだけ」がそのままその立場。
で、
>現実は直接的にコントロールできない。直接コント ロールなんてできないけど、コントロールしたかった 現象を勝手に宇宙が用意してくれるってことなのかな。
って判断はエゴによる判断。
つまりエゴは結果しか見えない。それこそ「”なぜかわからないけど”世界は良い方に動く。」としか言えない所以。
それを言葉にしようとすると「宇宙が用意してくれる」とかゆう表現にするしかない。355さんならわかると思うが、「理由は分からないんだけど叶う」と言うしかない。
エゴにはわかるはずがないから。
でもそこで「この意味不明なパワーを理解しよう」とするのは、エゴ対エゴの不毛な戦い。
「この感覚を理解しないと、また苦しい現実だ!」と。
「悟ろう」としている意識がそのまま「悟っている」意識。
エゴは悟れない。エゴはコントロールできない。
エゴによる格闘を諦めたそのとき、全ての存在が「今」だったことがわかる。
357: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 12:02:07 ID:DD5NIEWs0
>356
私の考えは、あくまで私と思っているところの私が望む現実を得ることは可能。
こんな素敵な経験をしたい!と抱いたとき、それはエゴではないです。
願望にエゴもなにもありません。望み自身はそれ自体が喜びの表現です。
(108ブログ「別の領域に対する誤解」などを読まれてください)
ただし、現象化する力そのものは、私が私と思っているところにはない。
「不可思議な流れでそれが実現した」という形で経験する。
私は現象化ありきで実践を重ねてここまできてそのように感じているし、
ある枠組み(仮説)をもって世界の機構を検証している。
それはチケットではないけど、チケットに深く関わるのでここに居させて頂いてますw
各々で実践して答えをだしていけばいいと思うのだよ。
そうでないと、絶対に納得しないし腑に落ちないと思うのだ。
ご意見ありがとう!
358: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 12:36:26 ID:DD5NIEWs0
>>356
連投スマナイ。問題点はここかも?
>そして「なぜチョイスするのか」と聞かれれば”必ず”、「今を変えたい」という願望があり、それはやはり「今は不都合」が隠れており、結局「現実ありき」なんだ。
なぜ、全てのチョイスの背後に「今は不都合」っていうのが隠れているのさ?
単純に、こんな楽しいこと、嬉しいことを経験したいって思うことない?
「あそこのラーメンどんな味だろッ」とか「夏の北海道をバイク一周したら爽快だろうな~」とか。
チョイス自体は単にチョイスだよ。
チョイスで何を握りしめるのか、不足を握るか満足を握るのかだけの違いと思うけど。
(だから、仰られるように「今は不都合」を起点にするとおかしくなる)
360: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 13:40:47 ID:Q0WQE/9s0
>>356
つまりエゴは結果しか見えない。それこそ「”なぜかわからないけど”世界は良い方に動く。」としか言えない所以。
それを言葉にしようとすると「宇宙が用意してくれる」とかゆう表現にするしかない。>>355さんならわかると思うが、「理由は分からないんだけど叶う」と言うしかない。
そんな感じです。
エゴの視点の僕から見るとほんとにそうです。なんで実現したんだかわからん。
ありえないと思っていた実現さえして「??」状態。
前はチョイスしないと実現しないと思っていた。でもそれすら必要なのかもわからない。本当に全然わからないやww
ちなみに僕が実現したかったのってお金とかじゃなかったです。きれいな彼女とかでもなく。
だからこそチケット読んでさえ絶望したな。オレの願望は叶わないんじゃないかって。
今もエゴエゴだからオレの願望はやっぱり無理なんじゃないかって思う。
そう思っていても宇宙は実現させてくれたりするから不思議だなあ。
ここから僕が思っていること。自分の感情、内側の感覚だけは真実だと思っている。この願望は無理と思って苦しいなら嘘。この願望は叶うと思ったとき快なら真実。
ひねくれさんもそんなこと言っていたと思う。
叶わない願望なんてやっぱないのかなと思います。
うわー書いていてエゴすぎてこわいww
361: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 14:16:01 ID:Si5wlr9o0
>>358
私は「願望をチョイス」で「願望を叶える」って思っている人に書いたつもりだから、あなたみたいに「願望」を「ラーメンうまそう」くらいに捉えている人には今更の話だったかもしれない。
多くの人は願望はラーメンどころの話ではない。
が、残念ながら「ラーメンうまそう」もやはりエゴだ。
(108さんを信じるのは良いが、彼が100%正しいわけではない。私は否定もしないが肯定もするつもりはない)
願望はエゴではない、その通り。
エゴは「願望を持った」と思っている視点。
誤解があるようだが、エゴは消すべきものではない、てか消えない。
前置きから書く。
本当の自分は判断することはない。
「ラーメンうまそう」と判断し、実際にラーメンを食べ、「幸せだ!」と言っているのはエゴ。
だが、そのエゴには自由意志はない。
あたかも自由にラーメンをチョイスし、自由にラーメンにありつけた!と思われるが、実はそうではない。
そのラーメンを食べた後、過程を思い出すと、
腹が減る→おいしそうなラーメンを見かける→お金を確認する→バイクでラーメン屋へ行く→食べる
みたいな過程がある。
結局、「腹が減る」という取っ掛かりに紆余曲折の末、「ラーメンを食べる」が引き出されたわけ。
その紆余曲折も複雑なわけだが。
これを読んで、「いや、ただ単においしそうだから食べたんだよ」も同じこと。
つまりは肉体に生きる限り、エゴによる取っ掛かりに動かされるわけだ。
「チョイスすれば何でも叶う」と言ってるひとも、肉体一つで空を自由に飛べない。
それは「人間の体」という制限があるから。
なのに「いや飛べる!チョイスすればね!」と思うところに苦しみが生まれ、それはエゴにとっては自由の選択かもしれないが、思いっきり制限に巻き込まれている選択であり、本物の自由とはかけ離れる。
だが、エゴを回避しろ、とは言っていない。
それは不可能だ。
それよりも、受け入れるということだ。
「楽しそうだな」も「苦しいな」も「トイレいきたい」も全て受け入れ、自然な行動に身を任せる。
「トイレに行きたい」と思うならそこに行く。心に嘘をついて「便意感じるけど、これはエゴだから行かない」のではない。
その行動は自分が「している」のではない。「起こっている」だけ。
「起こっている」のを見ている、経験しているのが、本当の自分。
エゴは「何もしない」というより、「何もできない」。
それに気づいている視点は、もはやエゴとは無関係な視点。
全てを傍観する。
長々失礼しました。
366: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 19:55:09 ID:neYUZhrM0
>361 「受け入れる」も意志が入ってね?
エゴが受け入れてるんじゃないん?
367: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 19:55:58 ID:neYUZhrM0
>>361 「受け入れ」が起こっておるん?
373: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 23:01:27 ID:Si5wlr9o0
>>367
全くその通りだ。
先にも書いたが、私たちに自由意志はない。
常に何かの刺激によって行動が導き出される。
比喩で言うなら、私たちは上流から下流へと流れる水のごとく、流れに身を任せるしかないんだ。
だがここで思い違いをする。水滴一滴が自分自身だと勘違いし(エゴ)、どうしても上流へ戻りたい(願望)という。
ところが水滴一滴には到底叶わない夢。だから「現実は辛い」。
そうして水滴一滴は上流へ戻ることを諦め、流れに身を任せることを決意する(受け入れる)。
全てを受け入れ流されていくうちに気づく。
自分も水だったんだ、いや、川の流れそのもの(本当の自分)だったんだ、と。
上流も中流も下流も、本当は全て自分自身だったんだ、と。
一歩もそこから外れたことはなかったんだ、と。
川そのものだったから水滴一滴も存在できたんだ、と。
私が「受け入れる」で伝えたいことはざっと言えばこういうこと。
全てを受け入れたそのとき、エゴによる制限が消え、本当の自由が見える。
374: もぎりの名無しさん :2012/01/29(日) 23:16:03 ID:utxK6XGQO
>>373
それを受け入れることに恐ろしく抵抗があるから自愛するとかメソッドとか
受け入れやすくするような過程があるのだよといってみるテスト。
378: もぎりの名無しさん :2012/01/30(月) 00:43:50 ID:Si5wlr9o0
>>374
そんなことはわかっている。
だがメソッドなり自愛なりは正直まわりくどい。
だから「方法がわからない」人がいるのが事実。
第一に、
あなたが言うような「受け入れることの抵抗」こそ回避するべきではない重要なものだ。
それと向き合うのが目的なんだから、「受け入れやすい」方に避ける必要はない。
結局「受け入れやすい」のは、エゴの逃げ道。
379: もぎりの名無しさん :2012/01/30(月) 00:57:52 ID:utxK6XGQO
>>378
あなたのいうことわかるよ。
私は受け入れることへの抵抗が半端なく強かった。
正面から受け入れようとしても負け続けたから回り道でも自愛で受け入れたよ。
すぐ受け入れられるなら向き合えばいいと思う。
できないからダメではなく回り道でも受け入れる方法はあるといいたい。
383: もぎりの名無しさん :2012/01/30(月) 14:26:14 ID:YGbPBG7g0
>>380
やりたいようにやってみれば良いってセリフはものっそい正論だけど一番困っちゃう
頭がヤワラカイ人や素直な人には良いんだろうけど、俺みたいなカチカチの石頭はどうすりゃええねん(´・ω・`)ってなる
386: ID:Si5wlr9o0 :2012/01/30(月) 18:59:11 ID:I1MFdWNA0
「自分がやりたいようにやる」
これは正しいようで正しくない。
余計な混乱を招くだけだ。
>>383さんの意見はもっとも。
そもそも「やること」はない。
「やること」を推している人が「やること」でたどり着くだろうと思っているゴールは、今ここさえあれば気づけるもの。
まあそれは置いといて、メソッドについて書く。
メソッドを「受け入れるために」始めることは、心の奥では「受け入れ」ていない。
自愛で例えれば、「愛している」と唱えることで、苦しい感情を抑えようとしている。これは受け入れることとは真逆。
「抑えるつもりはない!」
では、何のために突然「愛している」と唱えるのか、それは「苦しみを無くすため」。
「苦しみから脱するため」。
愛していると唱えることへの違和感、猜疑感を味わったことがあるはずだ。やってみた人は分かることと思う。
何故色々とメソッドがあちこちに溢れているのか。
そもそもメソッドは、創始者であるただ一人の人が、自分のためだけの自然な流れで出来上がったもの。
「自然な流れ」が肝。
彼は「やった」のではない、”後から気づけば”、そのように「やっていた」、だ。
が、人に伝えるとそれはまるで「公式なメソッド」として確立する。
公式であるから「ルール」ができ、またそれは「自然」ではない。
だから違和感を感じる。
メソッドをやっていて一時的に気分がよくなるかもしれないが、気分が落ち込んでしまうと、あわてふためく。
これは多くの人が分かることだろうと思う。
また、メソッドをやったことへの「見返り」を求めてしまう。
これだけやれば達人が言うように効果があるだろう、などと言う。
メソッドの創始者は「結果→メソッドに気づく」であるのに、追従者は「メソッド→結果」だ。
「やらなければならない、やらなければ変わらない」という思考はここから生まれるわけだ。
ただ全て流せば良いのに、わざわざ「流し方」を持ってくる必要はない。止めなければ勝手に流れる。
「苦しい感情」からも逃げない。流れていくのを味わい、見る。
それだけ。
388: もぎりの名無しさん :2012/01/30(月) 19:20:51 ID:neYUZhrM0
>>373 で、お前毎日幸せなの? なんか違うくね
392: ID:Si5wlr9o0 :2012/01/30(月) 20:31:35 ID:I1MFdWNA0
>>384
答えるのが難しい。
実感を求めれば、実感から離れてしまう。
突き抜けようとすると、突き抜けられない。
それよりも「ここに在る意識」を感じる。
>>388
幸せだ。
それと、今まで書いてきたように、欲は無くならない。
やりたいならやればいい、やりたくないならやらなければいい。
やりたくないけどやらないといけないんなら気のすむまでやればいい。
そのことに悩まなくてよい。
それを「やっている」のはあなたではない。「やっている」が起こっているだけ。
それを見ていればいい。
>>391
じゃあ逆に、「彼女ができる!」と思い込めば彼女ができるのか?
その方法でできていないから未だにそんなこと言ってるんじゃないか?
「こうすれば叶う、叶わない」の方法論だけにしがみついて、あなたは本当に彼女ができると思うのか?
あなたの場合の「何もしない」は「叶えるために何もしない」だ。
私が言ってきたのはその「叶えるため」に不自然な行動はしなくてもよいってことだ。
だから願いたいなら願えば良いし、イメージしたいならイメージしたら良いし、行動したければ行動すればいい。
だが私は、ここに在る「意識」に気づくことを勧める。
本当の自分は肉体でも精神でもない。
本当の自分は欠乏や不安をもたない。
純粋な意識そのもの。
それに気づけば幸せはすぐそこにある。
自分が幸せであるので、幸せだと感じることが世界で「起こる」。
それをリアルタイムで体験するのも本当の自分だ。
そして私たちはいつも意識としてここに在る。ただ、在る。
401: もぎりの名無しさん :2012/01/31(火) 23:22:53 ID:qiOxyF4c0
Si5wlr9o0
さんに質問
>>386の「苦しい感情」からも逃げない。流れていくのを味わい、見る。
↑私はこの「苦しい感情」から長い間逃げずに感じ切ったり認めているのに
底なしのように苦しみの感情が湧いてきてしまいます。
この感情が終わらないのです。
人間の本質は無償の愛幸せだという事は頭でわかっていても
心が付いていきません。
どうしたらいいでしょうか?
408: ID:Si5wlr9o0 :2012/02/01(水) 15:33:35 ID:QEuZrxUA0
覗いたのでレスを書いておく。
達人と呼ばれている人の出現によって、どうしても「アドバイス側」と「相談側」に別れてしまっている。
それが「覚醒している側」と「覚醒していない側」のような分裂が起きる原因である。
何のために「達人」の言うことを理解しようとするのか。
それは「現実をコントロールするため」だ。
「分かったから叶いました」とか「達人の領域を経験したから叶いました」などの報告に釣られて俄然理解しようとする。
が、根本的な部分では延々と「私は不幸」に意識が飛んでいる。
ここはよく聞いて欲しいのだが、「不幸」なり「不足」なり、今自分が苦しんでいるのは、自分の勝手な思い込みの範疇を積極的に採用しているからであり、
それらは身がない空想なんだ。
悩みに実体はない。
確かなものは「ここに在る」という意識だけ。
にもかかわらず、その「不幸」を克服した人たちを自分達とは別格の「達人」と崇めることで、「今の自分には克服する力はない」と繰り返し自分を「問題のある自分」ととらえ続けているんだ。
長くなりそうだからいきなり話が変わるが、
>>401さん、
苦しい感情に気づけばもう何もすることはない。
消えなくても問題はない。それは何もあなたに影響しない。
おそらく、気づけば苦しみが無くなり幸せな気分になるはずだ、と思っていたのでは?
そうではない。
苦しみや幸せに気づいている正体こそが本当の自分だ。
苦しみや幸せがイコール自分ではない。
気づいている立場、それが自分であり、実は常にそこにいるんだ。
あなたの場合、「幸せを感じること」が足かせのようになっている。
苦しみがあなた自身ではなかったと気づけばそれだけでいい。
だれしもみんな「苦しみ」から解放されたところにいるんだ。
なのにそれを認めたくないのはなぜだ?
そしてそれはだれがそうさせている?
今自分がそこにいるだけなのに、何が自分を苦しめる?
それを苦しいときに問い続けてみたら何かわかるかもしれない。
409: もぎりの名無しさん :2012/02/01(水) 19:34:52 ID:neYUZhrM0
>408 なのにそれを認めたくないのはなぜだ?
そしてそれはだれがそうさせている?
今自分がそこにいるだけなのに、何が自分を苦しめる?
この質問は一体何の為に問う??
この問いに何か意味があるのか??
それこそ頭で考えた答えしか出てこないだろう。なのにそれを問えというのか?
410: もぎりの名無しさん :2012/02/01(水) 20:12:12 ID:ir2NJTjM0
横だけど
そう、問い続けるの。
すぐに答えはでないかもしれない。あなたが思うお約束の頭の答えしか出ないかもしれない。
それでも問い続ければ、その答えに気付かされます。
気付くといったのは、それは自分の思いじゃなく、活字かもしれないし声かもしれない。
空耳だと通り過ぎようとした言葉の羅列かもしれない。
とりあえず、やってみれば良いと思う。でも、やるからには真剣に。
411: もぎりの名無しさん :2012/02/01(水) 20:28:32 ID:fOvf8AZE0
>>409
>それこそ頭で~
その通りだ。
あなたの言う通り、「全て頭のなかで起きている」んだ。
「私」という思考も、「苦しい」感情も、全部頭のなかにしかないんだ。
それを身をもって知るのが先程に書いたことの意図だ。
自分でそのことに気づく、思考で思考と戦うことの壁に気づくことが肝なんだ。
結論はすでに色々な人に語られてきた。
なのに頭でそれが分かっていても「分かった気がしない」んだろ?
今まで成功談のようなものを教科書のように読み「へーそうなんだ」と他人事のように読んできただけなんだから、
次は当事者になる必要がある。
自分で掘り下げ、とことん掘り下げてみると、「全部自分だったんだ」と気づけるんだ。
他人の言葉ばかり追っていると、誰かと誰かの言ったことを参照しながら少しでも違ったことを言った人を「間違っている」と言い出し、結局、「理論」で終わってしまう。
ところで、掘り下げているのはだれだ?
これも自分だ。
何かを探して思考を駆使しているのはだれだ?
自分だ。
じゃあ自分とはなんだ?
肉体?ちがう。
思考?ちがう。
感情?ちがう。
じゃあそれらをだれが感じている?
自分だ。
分かるだろうか。
自分とは肉体でも感情でも思考でもない。
それら全てを一度に感じている「意識」だ。
「在る」ことを感じている「意識」、それだけが自分だ。
このことを是非自分のなかで突き止めて欲しい。
「発信源」に意識を向けて欲しい。
412: ID:Si5wlr9o0 :2012/02/01(水) 22:30:50 ID:.6HI7Q..0
しばらく来ないと思うので、エゴについて書いておく。
第一にエゴは悪いものではない。
消すべきものでもない。
そもそも消そうとすること自体がエゴを問題視してしまうことであり、そうしなければエゴは無害なままである。
どうしても説明しようとするとどこかに偏りが生じて、表現の誤りができてしまうのでこの文を鵜呑みにするのは良くない。それ前提で読んで欲しい。
私たちは人間の肉体に則っているので、常にある欲求(刺激)に従って行動している。
そしてそこでは社会のルールや慣習なりが作用して、人間社会でうまくやっていくための行動を意識的にも無意識的にも選ぶ。
それが人間としての自然である。
だが個人には必要以上に自分を制限してしまう思い込みも存在する。
「私はできの悪い人間だ」「私は貧しくて不幸だ」「私はニンジンが嫌いだ」
など、過度に自身を懲り固めてしまう。
だが、本当の自分はそんな思い込みにも縛られていない。
あくまで自分はそれに気づいている存在。
なのだが、大抵の人が「凝り固まった自分」が真であると勘違いしてしまい、本来見ている立場を忘れて悩み苦しみ、またもや「苦しい自分」を本当の自分と同一視してしまう。
そうしてなんとかメソッドが必要だとか、愛が足りないだとか言ってわざわざ「悪役」として設定したエゴとの戦いを始めてしまう。
思い出して欲しいのは本当の自分は肉体も感情も持たない「意識」であること。
だから最初から問題も起きていなければ、最初からエゴで言う完璧なんだ。
自分の思い込みに気づけた時点で自分とエゴとを一線引けているわけだ。
最初から何も失っていないし、何も持っていない。
上にかいたことが分かっても、人間から解脱するわけではない。
人間が自分自身だと思い込んでいた視点で「お先真っ暗」と思っていたことが、「このやばい状況を楽しもう」とすることができる視点に変わるんだ。
先程も書いたように、「本当の自分には一切の問題も起きていないから」。
だからそこからは無条件に幸せが選べる。
フィルターを通して「苦しみ」しか選べないと思っていたのが「幸せ」も選べる立場に変わる。
とは言っても、
選ばなくても問題はない。選ぶかどうかは問題ではないからだ。
ここまでの話を簡単かつ大雑把にまとめると、
エゴに従うことでエゴを超越する
最初からエゴを超越していた
ということだ。
では。