883 :幸せな名無しさん:2015/09/04(金) 01:02:23 ID:26wuqG6s0
現実ではまだなっていないことを認めつつも、内面でなる、って感じで良いのでしょうか?
じゃないと現実で本当にお金持ってないのにタクシー乗っちゃったり
勤めてないのに出社したりして逮捕されちゃいますよね。
890 :719:2015/09/04(金) 03:07:18 ID:feqltxT20
>883
>現実ではまだなっていないことを認めつつも、内面でなる、って感じで良いのでしょうか?
内面と現実は全く関係ありません。
ので、内面で叶った事を、現実を見て叶ってない認定にするのは、注意が必要です。
これは、「ない」世界にいて、キツいですが頭の中での、妄想になってしまいます。
もしくは「なった振り」メソッドです。
外国に旅行したとします。
中東のある国でトランジットをすることになりました。
飛行機の出発まで空港内を散策したら、私たち観光客以外の空港職員は全て男性でした。
あなたの目に映る光景の中には、現地人は男性しかいません。
その時、この国に女性はいないと認識しますか?
しませんよね、見なくてもこの国のどこかに女の人がいると思いますよね?
ということは、
目の前の現実に見えないからと言って「ない」を認める必要はないんです。
わざわざ、「ない」と認めてから、「なる」をする必要はない。
目の前の現実を無視して、内面でそのまま「なる」をしてください。
現実に余計な判断や認定をしないことです。
淡々と過ごしてください、でも感情を抑えろってことじゃないですよ。
そして、現実に叶ってないを探し過ぎですよー。
探さなくていいんじゃないでしょうか?
これも選択です。
内面に虹をつくって、現実の雨を見る。(比喩じゃないです)
私は現実の雨空を見ながら、内面へ意識を向けたら、虹が目の前へ広がります。
これ凄い事でも何でもなく、ただの選択です。
内面と現実どちらを見るか?
そして、人間は1つしか見れません。
でも、目の前の現実の雨が自動的に選択された時、「雨だ」と思うだけです。
現実は雨で虹なんてないけど、それを認めるけど、内面では虹を見てる自分だ!とか思いません。
「虹を見る」そして「雨を見る」
関連づけず、2つを心のままに満たされます。
現実に「ない」世界だと認める必要はありますか?
じゃないと現実で本当にお金持ってないのにタクシー乗っちゃったり
>勤めてないのに出社したりして逮捕されちゃいますよね。
内面でしてますよ、私w
でも逮捕されたことないな。
内と外をごちゃ混ぜにしない事です。
そして、何を自分は選択するかです。
「なった」のに現実においてわざわざ「なる」を解除する意味があるのでしょうか?
それは大きな経験となり記憶となり、たくさんの刺激をあなたに与えるでしょうし、とても面白いでしょうが
「ある」世界へ行く手助けにはならないでしょうね。
質問のお答えになればいいのですが。
905 :719:2015/09/04(金) 15:02:39 ID:t7gTBjl.0
現象化について、私の意見を、置いていきます。
>>801-805で書いたので、長くなるのも読みにくいかなと、
しかも私ばかり長々と書くのもなぁ、なんて思っていて書かなかったんです。
現象化!気になりますよね。現象化なきゃ、意味ないじゃん!って思いますよね。
私も現象化、気になりますよ。でも気にならないのも事実です。(二元論です)
記憶は消せないので、自動的に刺激という反応が出てきます。
でも自我があるなら当たり前なので、抗いません。
「現象化?するかなぁ?して欲しいな、でもしなくてもいいか。」で、済むんです。
(私も現象化を気にして気にして、死にそうになってたのにいつの間にか、不思議ですw)
そして「あっ!私叶ってたんだった。」と思い出すというか、「よし!また「なる」しよう」と軽くやってました。
「なる」の世界が意味分からないときも、「意味分からないけど「なる」しよう!」と
何回もしてたなと思い出しました。
今はもう、現実を見て叶ってない!とたまーに思っても、そのすぐ後に
「ん?叶ってないって何だ??違和感すごい。叶ったよ、もう。」となりました。
今は自分の選択した世界以外の認識に違和感を持つようになりました。
そうしたらもう、自分が「なった」ことさえ忘れてて、時々驚きます。
(「なる」を解除した意味ではないです。なったが自然すぎて忘れるんです。)
こうゆうことを正直に書いて、混乱させるかな?とも思ったんですが・・・
「なる」とか「既にある」とか「叶ってた」を理解してても、仙人ではないので自我は出てきます、でも抗わない。
おお!刺激!やっぱり、刺激は楽しいなと思ってます。
叶ってないと思っても、叶ったに絡めないんですよね。
だから、現実に変な認識を持たず、ジャッジせず、感じきってください、とお勧めしてます。
これをする事は「今にいる」こと。
つまりすごく簡単に言えば「なる」にとって、切っても切れないものは「今にいる」かもしれないです。
現実の対処方法が「今にいる」だから。
確かに、「今にいる」も「なる」もメソッドじゃなくて、「真理」ですもんね。
世界中の教えなどは、この2つに行き着くと思います。
そして現実においての行動ですが
内面で「なった」と別に、現実でその願望に向けて行動はしていいんですよ。
しなくてもいいですが。
それぞれ関連づけずしたらいいじゃないのかなと。
上のレスで、餓死寸前なのに内面でお腹いっぱいなら、それでいいということか?
というような事が書いてありましたが、私なら餓死する前に現実で、何か食べます。
それが内面でのステーキじゃなくても、目の前の、現実の芋を食べます。
現実で目標を達成するべき事は全てやります。
座して死を待つ、なんて事はしません。
しかし、「内面で満腹なのに、現実は餓死なんておかしい!!」と絡めません。
内面の世界、現実の世界それぞれで、今を感じながら、選択し、
そして独立し合って願いを叶えてもいいじゃないですか?
そして生きながらえて、ステーキも必ず食べます!!!
ですが、目の前のお芋を食べる事は妥協でも何でもなく
おいしくお芋をいただきます。お腹も心も満たされます。
そしてこれが自愛でもあるんです。
当たり前にあるモノに満たされる、これが自愛ですし、ある世界だし、満たされる事。
呼吸しただけで満たされる、その境地です。
そこへいけば、認識なんて変わって「ある」世界です。
「なる」には自愛もとても手助けになるので、ぜひぜひお試しください。
それに「ステーキ食べた私になった」んだから、餓死して死ぬわけがなく、
ステーキへと現実も展開されていきます。
私がダイエットをしたときの、気持ちの変化を>>801->>805に書きましたが
「何のための食事制限、筋トレなんだ?」と思った後も、筋トレしたり、食事制限したりしていてました。
ただ、したいから、してました。
でも内面の「痩せた私」に何にも絡めてません。
本当に今楽しいから、やっておこうと思ってやってました。
目の前の事を味わい尽くすというモノです。
では、現実での話をした人に、内面ですよ内面。現実は関係ありません。
と言ったかというと、私にはどう考えても、内面での「なる」が叶ってないと思いたい、
刺激を得たいだけのように思えたんです。
しかもそれを、他の関係ないモノへガッツリと繋いでしまいそうに見えたからです。
そんなことをするなら、何もしない方がいいかなと思ったんです。