自己観察さん137/ゆる~く心地よ~く在ることで、自分と自分以外の間の境界線が溶けていって、 世界と一体に目覚める

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908 :幸せな名無しさん:2014/01/12(日) 21:41:36 ID:1MJKDxZ.0

自己観察さんはじめまして。

ここ1年ほど自己観察さんのまとめを繰り返し読んで、時間はかかりましたが、

最近ようやく別の領域に浸ること、エゴによる不快な感情や状況を本来の自分とは

関係ないものとして、距離をおいて観察することができるようになってきました。

おかげさまで、生活の中での楽しい出来事や心地よい時間が増え、

以前より自分で自分を気に入っていると感じられる機会が多くなった気がします。

本当に感謝してもしきれないほど、どうもありがとうございます。

ただ今はまだ、特に朝の寝起きの時など、エゴに乗っ取られて別の領域を忘れ

ネガティブな気分と同一化してしまうこともしばしばあるので、

いわゆる認識の変更(「別の領域」がエゴより優勢になること?)が起きれば、

いつも安定して楽な気持ちでいられるのかなあ、なんて正直楽しみにしていました。

ですが自己観察さんの最近の書き込みで、

≫521

≫以前はなんだかいろいろな面で、認識の変更に重要性を持たせるような書き方をしてしまったような

≫気がします。なるべくそういうのをなくして書こうと思うんですけど難しいですw

≫906

≫認識変更とかない。

≫というか、変わるべき認識とかなかったんだーと気づくことが認識変更かな?

とあり、以前とは「認識の変更」に関する考え方が変化されたのかな、と思うのですが、

「変わるべき認識とかなかった」とは具体的にどういう意味でしょうか。

現在は「認識の変更」を期待したり重要視したりしない方がいいという

お考えにシフトされたということでしょうか。

長くなりすみません。

すでに説明されている内容と重複する部分もあるかもしれませんが、

お時間のある時、お答え頂けたら幸いです。

 

910 :幸せな名無しさん:2014/01/13(月) 02:47:00 ID:N9RXy.QM0

≫908

幻想に惑わされてる人が見ている「いつか辿り着く到達点」があったとして、

それが幻想だと気づいた人は、到達点どころか道すらない、あるのはここだけだという

認識になります。

通過点を求めて「どうやったら到達できるか」に拘り続ける人に、

以前は「到達するには幻想に気づくこと」と言ったけど、今は「到達点とかないよ」と言う。

以前のほうが方便的な要素が多かったってことですね。

当時はそのほうが伝わりやすかったけど、その分期待させた部分もあると思います。

いろいろシンプルになったってことです。

そういうわけなんで、たった今気づきに寛ぐことですね。

そうしてれば、認識の変更なんてものは幻だと気づけるようにもなるでしょう。

 

909 :幸せな名無しさん:2014/01/12(日) 23:43:51 ID:UsQQOtmk0

あーこう思ってるなって気付いてる自分に気付けたことがあるけど、それをなかなか思い出せない。

気付いてる自分で止まってしまう。

 

910 :幸せな名無しさん:2014/01/13(月) 02:47:00 ID:N9RXy.QM0

≫909

再現しようとするのをやめることです。それはもう消え去ったものです。

「今」気づくことなのに、過去に探そうとしてますよ。

マインドは巧妙ですからね。見破ってください。

 

917 :542:2014/01/13(月) 14:07:20 ID:DNyB2ucU0

≫895

自己観察さん、いつもありがとうございます。

ちょっと教えていただきたいのですが、自己観察さんは≫895で「ない」が前提の思考では、

そのあとも「ない」世界が展開されるとの趣旨のことを書かれています。

私は自己観察さんの仰る見解を採用しようとして、ふと疑問に思ったのですが、

「ではあるを前提に考えよう」とした場合、私のような凡人のレベルでは、

「あると思い込む」しかできないのです。

どなたかの過去レスに(桑田氏だったかな?)「あるに意識を向ければ、現象化する」

との意見があったのですが、これは自己観察さんの意見と同趣旨だと思われます。

「有るに意識を向ける」、「有るを前提に考える」は、「あると思い込んで考える」と同じ、

または同じ効果があると考えていいのでしょうか?

有ると思い込もうとしている私は、自己観察さんの≫895における

≫その「欲しい」という思考が「ない世界」を展開させてると気づくか(そういう見方をしてみるか)ってことですね。

このレスの見解を正確に採用していると言えますか?

 

918 :幸せな名無しさん:2014/01/13(月) 14:51:18 ID:N9RXy.QM0

≫917

>その「欲しい」という思考が「ない世界」を展開させてると気づくか(そういう見方をしてみるか)ってことですね。

言い換えると「思い込もう」という思考が、どういう世界を展開してるかに気づくってことですよね。

「思い込む」は「ないけどあると思おう(欲しいから)」じゃないんですか?

あなたが凡人だから思い込むしか出来ないんじゃなくて、

凡人とか天才とかラベリングしてる分離前提の思考に、どっぷり同化してるから出来ないんですよ。

 

919 :542:2014/01/13(月) 15:59:22 ID:iPjYG6GE0

≫918

自己観察さんでいいのかな? ありがとうございます。

≫「思い込む」は「ないけどあると思おう(欲しいから)」じゃないんですか?

現在の私のメンタリティを正確に言えば、

「どうやらあるが真実らしい。そして有ることを意識すれば、現象化はあるみたいだ。

だけど有るを意識するということが正確にはどういうことかわからない。

だからあるを前提として思い込んで考えよう」といったところです。

確かに欲してはいますが、現象化のためにとても信じられないが

「ないけどあると思おう」とはちょっと違い、「ないはどうやら私の錯覚みたいだ、だからあると思おう」が近いです。

そういう意味では、自己観察さんの仰る世界に心が開けてきてるのかなとは思います。

ここでのニュアンスの「あると思い込もう」もやはり自己観察さんの仰ることと外れていますか?

あと

≫自分が世界そのものなんだから、欲しがってれば「ない世界」で欲しがることになるし

≫貧乏だと思ってればで貧乏な生活を、満たされてれば満たされた生活を送るでしょう。

≫「理解したい」とすれば「理解したいと思うような難題」が次々でてくる。

≫何とかしようと思えば思うほど、何とかしなくちゃいけない世界になる。

≫思考では望めば望むほど遠ざかるんですよ。

ここでの、自分は世界そのものとは、自分がどういう思考をするかではなく、

自分がどういう思考と強く自己同一化するかという意味と思いますが、いかがでしょうか?

 

920 :542:2014/01/13(月) 16:14:46 ID:iPjYG6GE0

≫919

ちょっとわかりにくいので補足ですが、

≫「ないはどうやら私の錯覚みたいだ、だからあると思おう」

とは、例えるなら「私には太陽が地球の周りをまわっているように見える。

しかしどうやら地球が太陽の周りをまわっているのが正しいみたいだ。

私には未だ太陽が地球の周りをまわっているように見えはするが、

地球が太陽の周りをまわっていることを前提に考えよう」みたいな感じです。

思考の前提を(有る)理解・納得・当たり前にすることはできてはいませんが、

その思考(有る)を前提として思い込んで(これが正しいのだろう)採用してみよう

みたいな感じです。

 

922 :幸せな名無しさん:2014/01/13(月) 18:39:41 ID:RSCJs4B60

「ある」と思いこまなくても、「ない」という思考に気付いた時点で

「ない」を創り出す思考の森の外側に立っている。

元々はずっと「ある」世界にいるのだから、それでOKということなのでは。

私もなかなか落ち着かなくて(手持無沙汰というか…)ついつい

「これで現象化するかも」とか願望についての思考にとらわれてしまうんだけど。

 

924 :幸せな名無しさん:2014/01/13(月) 21:55:08 ID:N9RXy.QM0

≫920

≫922さんの通りです。

えーと、≫918の本題は「あると思おう」の前提の内容についてじゃないですよ。

その内容によって展開は違うでしょうが、要はそれを鵜呑みにするなという指摘です。

「ないが錯覚らしいから云々」もそのまま鵜呑みにしてるから「あると思おう」になるわけでしょう?

「ないという思考」は錯覚で「ないが錯覚らしい」や「あるという思考」が非錯覚、ではないです。

全部思考なんだから当然全部が錯覚。

「あるとかないとか、二元性でしか物事を捉えることが出来ない思考そのもの」が錯覚。

「自分が世界そのもの」では全てが一つなので、「あったりなかったり」出来るものがあったらおかしい。

ということは、あったりなかったり出来るもの、欲しがったり出来るものは幻想でしかない。

思考は「私」以外に対象がないと存在できませんね。

ということは、思考というシステム自体が錯覚ということになりますよね。

相対性という錯覚の世界で、この世界仕様に作られた虚構のシステムです。

その虚構のシステムで、それより上位の完全性や全体性を理解できると思いますか?

錯覚を錯覚として見破ること、思考の領域を出ることでしかそれは出来ません。

だから「思考に気づく、同一化しない」と何度も繰り返してます。

542さんは「気づく」ことよりも思考で理解することのほうが楽しいでしょう。

「気づく」ことを主体にした質問じゃないんですよね。

マインドからの質問は、答えるのも難しいです。

このスレの方向性でやるつもりなら、一旦軌道修正したほうがいいかもしれません。

↓も合わせてお読みください。

≫923

≫思考に気付いても自分が思考ではないと考えられません。

≫思考と距離が取れません。

うーん。そこまで出来ないと言いつつこの方法(方法ではないけど)に執着する理由って何?

出来ないことに固執するより、「まあいっか」のほうがよっぽど思考と離れてる状態なんだけど。

色んなメソッドにうんざりしたり「する」必要がなかったんだーと思えるようになった人には

入りやすいと思うんだけど、「出来ない」と連呼してるってことは、メソッドとして捉えてると思うんで、

他のメソッドに目を向けて見るのもいいと思うけど。

「気づく」は方法や行為じゃないから、「こうすればいいよ」っていうのは本当はないんですよ。

ここでの誰かの言葉がきっかけになることはあるけどね。

でもあなたみたいに「出来ない」を握り締めてる人は、そういうきっかけすら見逃してしまうメンタリティです。

542さんも当てはまるけど、この方法(方法では(ry)は緩めるのがキモなんですよ。

ゆる~く心地よ~く在ることで、自分と自分以外の間の境界線が溶けていって、

世界と一体に目覚めるわけだから。

基本的な姿勢が「心地よくあること」で、その上で色んなことを

このスレで話せたらいいなーと思うんですけどね。

でもお二人は何かを掴もうとしてますよね。(ご自分でわかりますか?)

方向性が全然違うんです。

私が何度その方向じゃないといっても、かたくなに違う方向を見てるんですよ。

逆を向いてる人に私の言葉はまっすぐ届かないでしょう。

ご自分でそれに気づくしかありません。

土曜日以前の途中のレス読んでないので、もし私宛にレス下さった方いたら順番抜かしでごめんなさい。

また近いうちに(なるべくスレ終わらないうちに)来ますんで。

それじゃあ、またーー。

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